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依存としての社会批判

 先日の記事で「葛藤には斥力が働いている」と書きました。斥力とは離れていく方向の力、つまりは葛藤しないように、葛藤から降りるように差し向ける力が葛藤に対して働いていると考えます。そのことについて私なりの見解を書いていこうと思います。例によって個人的見解です。

葛藤とその自然状態

 葛藤とは両立し得ない二項以上の対立です。これを人のこころに当てはめると、2つ以上の両立しない考え方、生き方ということができるでしょう。
 幸福にも心身、環境とも大過なく成人した大人が遭遇する最初の代表的な葛藤は「頑張る/頑張れない」でしょうし、一般的な思春期の子どもは「親の生き方/自分の生き方」で悩むでしょう。逃れ得ない病を負った人にあり得るのは病を「受け容れる/受け容れない」でしょうか。これらは単なる例示に過ぎませんが、人が生きる限りどのような状態にあっても葛藤という対立項を立てることが可能でしょう。多くの場合、わたし達は一方で周囲の、他方で内的な判断基準の影響を受けながら、これらの対立を止揚して自分の人生の指針を形作っていくのが自然状態と言って差し支えないでしょう。支援という文脈においても、それが概ね順調な展開をたどっていく限り、クライエントは葛藤を止揚しながら自分の人生を選び取っていくことができるのでしょう。

葛藤の不自然な状態

 わざわざ自然状態と言ったのは、不自然な状態があるからです。二項対立が維持できない状態です。葛藤がもたらす負荷に耐える準備がその人のうちに整っていない場合と、対立する二項のうちのどちらかを支持する力が強すぎる場合です。両者は併存し得る要因と思われます。  
 例えば、その人が食うや食わずであったり住む場所を追われていたり、極端な例では戦火に苛まれていたりすれば、葛藤どころではないでしょう(肉体的生存を最優先にしない/できないというケースではそういう局面においても支援のテーマに葛藤を盛り込まなければならないのですが…)。
 対立の一方を支持する力というのは、上の例に則して言えば、死ぬまで頑張らせるような上司、反対に「(個人と社会とを混同した)脱成長」という社会運動、障害受容を迫る支援者、黙って言うことを聞けという親、などでしょうか。それらの影響力が大きすぎる場合、人は葛藤を維持することが難しくなります。その悲劇的な着地点の例は自ら死を選ぶことでしょう。

葛藤から降りた人のありよう

 葛藤を維持できなくなった、つまり葛藤から降りた場合のあり方にはいくつかのバリエーションがあります。一つは自暴自棄になること、もう一つは何かに依存することです(いわゆる依存症とは別の範疇を指しているつもりです)。

支援者依存

 葛藤から降りたとてこころの中の矛盾した考えが直ちになくなる訳ではありませんが、自分が降りてしまった以上は、そこからどれを採用してどれを修正(破棄)するかという作業を別の誰か(何か)に委ねなくてはなりません。その誰か(何か)は新興宗教(家)であったり、高名な論客であったり、ときには科学であったりします。支援の文脈では支援者がその対象になり得ます。自分の人生を自分の意思で決める代わりに、支援者に決めてもらおうとします。古典的な医者患者関係は割とそういう感じですが、ことに精神科では古くからそれを問題視する意見がありますし、最近では身体科でもshared decision makingと称して自分で治療上の選択をしていくことを支援する流れが出てきていますね。ソーシャルワークにおいてはいわんや、その源流からクライエントの自己決定を尊重することを理論体系にビルトインしています。もっとも、それらの裡には「他人の人生の責任を取りようがない」という身も蓋もない本音も隠れていたりしますが、根底には支援者に依存することがその人の人生にネガティブに働く、という経験的事実があるのでしょう。したがって、支援の文脈において支援者に依存することは大いに問題視され、望ましくない状態としてその原因と回避の議論が積み重ねられてきました。
 しかし、わたしは葛藤から降りた人が依存する先にはもう一つ、社会的なものがありはしないか?と考えます。

社会批判依存

 ソーシャルワーカーとして仕事をしていると、人が生きていくには様々な逆境があることが見えてきます。わたし自身、精神科医療や生活保護制度、無料低額宿泊所などにおいて、人を不当に苛む要因があるとnoteの場を借りて指摘してきました。それらはわたしなりの社会批判のつもりです。ですがわたしは、だからと言って「社会が悪いからしょうがないよね」と言ったつもりはないのです。だいぶ歯切れも悪く迂遠な言い方をしてはきましたが、クライエント自身の変わっていく力とその必要性を否定しないように、人vs環境の二元論に陥らないように慎重に論を立ててきたつもりなのです。
 社会の不備、環境的な負荷にもかかわらずクライエントの側に葛藤を維持するように働きかけていく、言い方を変えればクライエントに負荷を求めることは、あまりにも容易に自己責任論と結び付けられて一絡げに誹謗の対象になり得ます。これまで迂遠な言い回しで逃げ回ってきたのを止めてこの際申し上げておくと、社会的な不備や逆境などの環境因子が解消されても、自分の人生を自分で決めていくという作業は必要であり続けると思うのです。ましてや、それらの環境因子が解消されるまでの時間が一瞬でもない限り、今からどう生きていくかは、究極的にはクライエントが選択しなければならないことのはずです。人生を通じて求められる葛藤という困難な作業から降りるための理由付けとして社会批判が用いられることを、わたしは社会批判への依存とみなしました。
 社会批判の議論は、ともすると人と環境がオルタナティブ、二者択一の問題かのように単純化されてしまいがちです。その二元論的世界観は、まるで泥沼の葛藤のさなかにいるかのようです。議論の中に一度そのような前提が密輸入されてしまうと、葛藤を止揚するような解決策は非常に難しくなってしまいます*1。最も重要なことは、いかなる言説もそれに影響された人間の人生の責任を取ってはくれない、ということです。

その人なりの葛藤

 誤解のないように申し上げておきますが、わたしは葛藤から降りることの責任を葛藤の主体に求めてはいませんし、葛藤から降りていること自体を批判するつもりはありません。葛藤から降りることは抗いがたい心地よさを持つ面もあります。また、これまで批判されてきた社会の在り方をよしともしていません。どちらかといえば人を葛藤から降りるように唆す奸計、特に社会批判を通じて環境に対して人は無力であると暗黙裡に規定する言説に苦言を呈しているつもりなのです(きっとこういう言説には論者や支持者自身の投影が潜んでいるのでしょう)。
 上述したように、人には何かしらの葛藤を見出すことが可能です。支援の文脈で言うならば、その人の個人的資質、ライフストーリー、生育環境、社会規範を踏まえて話を聴いていく中で初めて、その人なりの葛藤を垣間見ることが叶います。それを知識だけから演繹しようとすると、そもそも了解不能だったり不相応に幼く見えたりして、葛藤の形を為していないように見えるかもしれません。ですが、それは支援者が投影できないだけでその人なりの葛藤です。葛藤がその人なりのものであれば、その止揚された形もその人なりのものとなるでしょう*2。それは、その人が自分の人生を自分で決めるという難事業をひとまずは完遂した一つの果実に他なりません。その人がその人なりに豊かになった結果に他なりません。人は葛藤を通じてその人なりの新しい生き方を手に入れる潜在能力を持っているとわたしは信じます。だからこそ、わたしはその尊い営みから軽々に誰かを疎外する言説にこころを痛めています。

一度降りると難しい

 一度葛藤から降りてしまった人がもう一度その舞台に立つことは、葛藤を維持することよりも遥に強い負荷を強いるようです。だからこそ、一度葛藤から降りてしまった人はどこまでも退行してしまう。依存症に終わりがないように、社会批判にも終わりがありません。ルールや規範が社会そのものの変化に対して常に遅れを取る以上、社会から批判されるべき(修正を求められるべき)要素がなくなることはありません。したがって、社会批判にはいつまでも依存することができるでしょう。陰謀論から脱却することの難しさを思えば想像しやすいでしょうか。むしろ、教祖や特定の支援者に肉体的な寿命があることを踏まえると、社会批判への依存の性質はより厄介かもしれません。

葛藤を棚上げする

 冒頭に書いた通り、すべての人が葛藤を維持しながら生きていく状況にあるとは限りません。その場合はどうすべきなのでしょうか。わたしなりには葛藤を棚上げするというのが、一つの答えになるでしょうか。抽象的な話で申し訳ないのですが、要するに「今はしょうがないよね」ということです。「これまではしょうがなかったよね」でもいいです。相手によってどのように関わるかが変わる以上、言い回しもその人に合わせたものになるでしょう。わたし自身が最近特に心がけているのは、葛藤を妨げる様々な外的因子の解消に動きながら、クライエントのうちに葛藤を見出してそれを支えることです。
 ここまで書いていて、中井久夫が用いた蝸牛の例えを思い出しました。人が病から回復していく自然的な過程を邪魔するものを除けつつ、一方で危機には介入するという趣旨のものです。もしかしたら、対人援助職の考え方はみなその命脈の何処かでつながっているのかもしれません。

おしまい


*1 『「毒親」の子どもたちへ』(斎藤学著)において、毒親論が宿命論として利用されていることに苦言を呈しています。
*2 しにいつのレビューで似たようなことを書いていました。


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