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ソーシャルワークのインテリ支配

追記:あまりにひどかったので校正し直しました。

 時折、ソーシャルワーク専門職の資格要件について修士号や業務独占を視野に入れた議論を耳にします。現在は学士号やそれ相当の実務経験や養成課程をパスすれば社会福祉士や精神保健福祉士の資格試験が受けられるようになっていますから、そこに修士号の要件を加えるということは、実質的には学歴要件をより厳格にしようということです。今のところ当局でそういう話が進んでいるということではないようなので、これはアカデミアや現場からなる「べき論」ということでしょう。欧米先進国では修士号以上や博士号を要件にしている国もあるようですから、国際的な基準に合わせようということかも知れません。ソーシャルワーク専門職の資格を厳格化することについて、わたしは基本的に反対の立場です。専門学校上がりによるポジショントークだと思って頂いても構いませんが、一応私なりに理由があるので、以下にそれを述べようと思います。結論から先に申し上げれば、資格要件の厳格化はソーシャルワーク専門職という社会集団の知的エリートによる独占を招き、かつその弊害が大きいから、ということになります。

 知的エリートの独占とは何を指しているのか、もう少し詳しく述べてみます。
 日本の大学進学率が50%を越え、大学全入時代と言われたのは今よりも少し前の話になります。対して大学院の進学率はだいたい5.5%くらいだそうです。狭き門ですね。これは社会人経験を経ていない学生さんたちだけの話ですからあくまでも参考程度ですが、大学に行く知能、経済環境を有する大学生の中から、さらに大学院への進学する条件を具備し、かつROIの極めて悪い(学費がかかる割に卒後の給与水準の期待値が低い)社会福祉分野に進学することをパトロンたる親から許容されている人たちと言うことでしょうか。学生の半分が大学に進学せず、或いは進学できず、少なくない学生がやりたい学問ではなく食える学問を志す世情において、社会福祉の大学院をパスすることで初めて有資格者になり得るとはどういうことでしょうか。そこには、個人の能力ではなく社会的条件による苛烈な選別が存在します。わたしは社会人学生も卒後の学位取得も大いに賛成ですし何だったら自分ももう一度学び直したいと思ってはいますが、日本の大勢はそこまでにはなっていないように思います。つまり、他の参入経路を所与にして資格要件を厳格化することは、硬直的な日本社会では今よりもソーシャルワーク専門職が社会的に選ばれた同質的な集団になっていくことを意味します。資格要件という入り口を厳格化するとはつまりそういうことです。「ソーシャルワークが知的エリートに独占される」とはそういう現象を指しています。

 それが何を意味するかといえば、自分たちが社会システムからの受益者であるという認識が相対化されなくなる危険を孕む、ということです。大学院の専門課程を卒業した有資格者が社会システムの申し子であるというのは、当人たちにはあまりピンとこないかも知れません。知的エリートたちはしかし、大学や大学院に進学する経済的条件を具備し、知能が高く、社会適応もできる、彼らは母親をはじめとした家族、教育、或いは奨学金といった社会システムの恩恵に浴してその立場を得たのです。また、彼らは競争の勝利者でもあります。様々なバックボーンを内包した雑多な社会集団とは違い、知能が高く、社会的に恵まれて、適応がよく、科学へのコミットメントを持ち、競争に勝利してその地位を得た人たちの同質的な集団では、自分たちが以下に相対的に恵まれた存在であるかを認識するのはより難しくなるでしょう。その弊害は、ソーシャルワーク実践において経験的な共感性が失われることと、社会システムへの期待値のギャップが大きくなること、という形で現れます。

 自分のいる分野が障害者福祉と公的扶助に偏っているためにどうしても前提にも偏りが出てしまうのですが、コミュニティソーシャルワークではもしかしたら違う議論が可能かもしれません。
 彼らなどと大括りにする乱暴な議論を承知で申し上げるなら、彼らは多くは競争に敗れ、社会システムの庇護から取りこぼされてそこにいます。少なくない人が家族との心理的紐帯を引き裂かれ、競争がもたらす未曾有の恩恵に預かることなく、ときに病み、ときに貧しく、様々な形で生きづらさを抱えています。彼らは一方で社会システムが自分を庇護しなかったことを批判しますが、他方で、決して少なくない人たちが競争的な労働市場への再参入によって自己尊敬を回復しようと企てています。それは時に切ないほどで、わたしなどは軽々に「仕事というものはこころを犠牲にしてまでするものではない」などと申し上げてひんしゅくを買っています。しかしそこには、社会的庇護が持つスティグマ、例えば生活保護にまつわる倫理道徳的な非難を内面化しただけでなく、社会システムに対する彼らの期待値の低さが影響していることにも思い至らなくてはなりません。彼らは、この社会が唱えてきた大きな物語から疎外されて現在の苦境にいるわけで、その彼らが大きな物語へのコミットメントを回復するというのは並大抵のことではありません。そこには、また疎外されるかも知れないという恐怖、どうせ弱者だからという自己憐憫、この先に上がり目はないという絶望があります。だから、誰にも頼らず自分で食べていかなくてはいけないという強迫に取り憑かれていくのです。
 誰であれ、その正統性を無視すればあるべき社会を説くことは簡単です。しかし彼らはそもそも社会という大きな物語に対する期待を完全に喪失しているかも知れないのです。反対に、支援者の社会に対する期待値の高さはなけなしの祈りである場合もありますが、多くは受益者たる自身の経験によって構成されています。社会が何をしてくれるべきかを一生懸命説くことは必要ではありますが、目の前の真っ暗闇に手を突っ込むときに必要なのは、社会に期待できなくなった原体験に真摯に耳を傾けること、彼らがもう一度他者や社会に期待してもいいかも知れないと思えるような経験を提供することではないかと思います。社会に対する期待があまりに強固にビルトインされていると、彼らが社会に期待しないその心性を共感的に受容することは難しくなります。経験に基づくケースワークは宗教であるとした金言もあるようですが、共感的理解を可能にする想像力は経験という触媒なしには成立しないとわたしは思います。経験したことのない心性を理解することは、現実には困難を極めます。その軋轢はこれまた期待の高さの裏返しとして、社会的なもの、例えば社会や国家、社会的なコンセンサスへの怒りとして排出されていきます。ソーシャルワーク専門職の社会や国家への怒りには目を瞠るものがありますね。わたしはそれが不当だとは思いません。でも、その怒りは彼らのものではないという意味で代弁でもありません。それらはあくまでソーシャルワーク専門職自身の怒りです。彼らは期待もしていないから怒りもないか、或いは高度に抑圧されているからです。彼らの怒りを代弁しようと思うなら、まず彼らの社会への期待を回復しようとすることが先に立つはずではありませんか。この順序を間違いさえしなければ、彼らはこの国にすでにある出来合いの財やサービスからいくらかでも恩恵を手にできるようになるかも知れません。その先で、専門職ではなく彼ら自身の期待の不満足への反応としての怒りを初めて代弁し得るというものではありませんか。

 様々な経歴を持って、往々にして順風満帆ではない経過からソーシャルワーク専門職として実践に取り組む人たちがシステムとして許容され、アウトサイダーの参入をよしとする現状を、わたしは「それはそれでいい」と思っています。それは、Authenticでないバックボーンの支援者の方がより挫折と絶望を知っている可能性が相対的に高い(こんなにも稼げない業界にあえて途中から参入してくるというのは、つまりそういうことです。セレクションの話です。)からであり、支援者自身のバックボーンが彼らの順風満帆ではなかった人生の苦境と共鳴する可能性を秘めているからでもあります。また、社会に期待しないという心性を知っているかも知れないという意味で、それはピア活動と地続きでもあり得ます。精神科医のH.S.Sullivanは落ちこぼれの看護師の方が病者への共感性が高いとみなして自分の受け持つ病棟に積極的に登用したそうです。(それらは時に「国家の公認資格というラベルが何を担保して何を担保しないか」という鋭い視点のゆえにuncertifiedな支援者であり続けるという、また別の態度をもたらしたりもするのですが、それはソーシャルワークという営為の裾野の広さであろうと思います。資格要件と並行して議論される業務独占は、端的に彼らを排除しようという論理です。)

 以上から、わたしはソーシャルワーク専門職の資格要件を今よりも厳格化することには賛成できません。わたしたちの仕事相手が多様であるように、わたしたち自身も多様であるべきです。他の参入経路を所与にして入り口を厳格化することは、確実に現在の多様性を減じる方向に作用します。
 その上で、実務上の必要に迫られてアカデミックな専門教育を積み重ねていくこと、同時に彼らに有効でない支援者が労働市場を通じて排除されることでソーシャルワークのクオリティを担保するというのが、わたしなりの当面の見解であります。

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