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社会設計思想としての福祉と自由

 10代の頃に共産党宣言を手にしてからの数年間、わたしはマルクス少年でした。といっても学術的なテクストを読みこなすほどの知能も意気もなく、当時はインターネットがまだまだテキストサイト華やかなりし頃でもあったので、その手のネット論客の論争を読み漁っては善良な独裁すなわち全体主義思想に耽る、かなり痛い少年でした。マルクスが共産主義として実際に思い描いたのはそれら通俗的な言説やマルクス・レーニン主義とは全く違うウルトラモダンな個人主義だったと知るのは、もっともっと後の話です。かつて一度手放したとき、個人主義者としてマルクスに舞い戻って来ることになるとは思いもしませんでした。

 さて、E.フロムを読んでおりましたところ、資本主義が中間集団を破壊し尽くす中でどんどん自由になる心とどんどん孤立する心との弁証法的過程について論じてありました。フロムが生きたナチ党という実体のある脅威の時代から80年近くの時を経て、自由からの逃走が今一度わたしたちの手ずからでなされようとしているように、わたしには感じられました。それはまるで今起きていることについて書かれているようでした。
 他方、わたし個人が自由という価値観を重んじるようになったのはフロムが論じたような葛藤の果実ではなく、どこにも帰属できないし帰属によって安心を賄えない事による逃れ得ない孤独を味わう中で、もはや自由を手に取る以外に道がなかったゆえだと思いました。少なくともわかりやすい権威に阿ることはわたしのこころの安息には貢献しませんでした。わたしにとって何かに帰属することは喪う恐怖とともにある、安全保障感とはいささか距離のある、けれどもそれなしでは生きてゆけないから必死にすがりつく、そんなものでした。わたしにはただ、自由の掛け値として釣り合うほどの安心はなかったというだけの話です。
 だからといって誰かや何かに自由へと追い立てられたと被害感を持ったりはしていませんし、これでもだいぶ生き易くなったものだと思っています。誰かに自分を定義してもらったり設計してもらわなくてもなんとかいられるようになりました。その点で、善良な社会を設計するという福祉思想とは少し距離があります。

 メジャーな福祉思想は制度設計や社会システム、公的関与といった社会設計をそのベースにしています(言い切ってますが個人の見解です)。当事者の自由を論じるとしても、それは必然的に社会設計を所与の前提とした議論になるわけです。それは社会の中の自由であって社会からの自由ではない。社会設計によって人を自由にするというのは本質的には矛盾を孕む考え方なのです。福祉関係者は一般に善良な社会設計を非常にnaiveに選好する傾向が顕著ですが、歴史上に現れたすべての全体主義者(権威主義者)が人間社会を善導するという(恣意的な)善意をその動機にしていたことは忘れてはならないでしょう。つまり、社会を設計しようという発想そのものが全体主義の萌芽なのだと自戒しておく必要があるとわたしは考えます。すなわち、わたしたちの福祉的思想はその善意や正義によっては正統性を確保し得ません。わたしたちもまた、歴史の法廷において裁かれる可能性を否定できません。そもそも、
 そもそも、社会設計という美名であれ誰かを社会の中に組み込むことは、その誰かを掌握することと地続きの場所にあります。わたしたち福祉思想の主体を自認する者たちが人間を任意に定義して生殺与奪を掌握し尽くすことができるのか、できるとしてそれが正義なのか。歴史の審判を待たずとも、実はそれがとても相対的な善意、正義なのではないかという気がしています。

 とはいえ、わたしは障害福祉に身を置く者として、古典的な保守主義や自由主義に完全にコミットできるわけでもありません。社会をあらかじめ設計しておくことのは間違いの元だ(そしてそれは人間を設計しておくことに漸近する)という保守主義の考えには大いに共感しますが、一方で社会設計なしには人間は相互に平等にも公正にもなり得ないことを、世の不条理は教えます。個人が屈従せざるを得ないようなあまりに過酷な逆境を自由のコストとして割り切ることはわたしにはできそうにありません。たとえそれが内心の自由に殉じるものとして当人に正当化されていても、です。

 ずいぶんと主語の大きな話ですが、わたしの中ではこれらすべてが臨床の個別援助までつながっている話なのです。ソーシャルワークという業が現業者にもたらす自分とはなにか、クライエントとは、人間とは、という多様な問いのバリエーションの中に、社会とはなにか、という問いも含まれています。クライエントに客観的な望ましさと(しばしば合理的ではない)内的な自由意思の両方とを見出してその狭間に引き裂かれる現業者の存在はこれらとフラクタルの構造にあります。そして、自由と孤立の弁証法、人と環境の相互作用に働きかけるソーシャルワークと同じ葛藤が社会設計にもあり得べき、というのがソーシャルワークがわたしに投げかける問いに対する今のわたしの応答です。
 わたしは福祉思想に内在する社会設計思想を存在の自由との葛藤関係に位置づけたい。なぜなら、その葛藤が結局、ほかの弁証法的過程と同様にパーソナリティの発展という(人間個人に奉仕する形で)結実する可能性を秘めているからです。

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