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ソーシャルワークは期待されているか

 公認心理師はソーシャルワークを期待されている、という趣旨の発言はかねてから見られたものですが、最近またその手の聞き捨てならない発言が視界に入ってきましたので、一度その誤解を解いておきたいと思ってこの文章を書いています。結論から申し上げると、社会は心理職に対して特にソーシャルワークを期待していない、ということです。

 そもそもソーシャルワークとは、という話になるわけですが、わたしが論じるにはあまりに主語が大きくて手に余ります。わたしに限らずソーシャルワーカー当事者でもスマートに説明することに窮しているのが現状かと思うので、少なくとも定義的に説明することは簡単ではありません。ソーシャルワーカー自身がソーシャルワークについて上手に説明できていないのに、社会はソーシャルワークに何を期待できるのでしょうか。それはおそらく、社会福祉士/精神保健福祉士とされる人たちが実際に人の目に触れるところで活動してきた事柄を抽出した記述的な理解に基づくものでしょう。そこへいくと、社会資源を紹介してくれるとか関係機関の調整をしてくれるとか、また当事者の方によっては相談に乗ってくれるとかがおおむね一般的な記述的理解でしょうか。それ自体はソーシャルワーカーがやっていることの理解として特に間違っているというつもりはありません。しかし、ここではソーシャルワークにおけるパーソナリティの発展という効用は限りなく透明になっています。
 このパーソナリティの発展というのもまた説明がややこしい概念ではあるのですが、ひとまずはクライエント自身が変化するということを指しています。必ずしも心理発達とは限らないし、回復と必ずしも一致しない、そして社会適応を必要条件としない概念だとわたしは理解しているのですが、それにしてもちょっと曖昧な感じですよね。それでも、このパーソナリティの発展なる考え方が重要なのはソーシャルワークが社会だけでなく個人に対しても変化を促進させる、という点です。人と人、人と環境の相互作用に働きかけるというソーシャルワークの風変わりな説明はこういう二正面の発想を踏まえているわけですね。
 長々と説を述べてきましたが、ソーシャルワークは少なくとも理念的にはクライエント個人の環境適応を積極的に目的にはしない(あくまでパーソナリティの発展に伴う副産物)し、社会に対しても変化を求めていくものだ、ということはなんとなくでも伝わりますでしょうか。前者は深層心理学、特に精神分析とはウマの合う発想じゃないかと思うのですが。
 にもかかわらず実務上のソーシャルワーカーたちがクライエントを環境に適応させようとしているようにばかり見えることは一部そのとおりかもしれません。クライエントのパーソナリティを受容できなければ個人を環境に適応させようとすることしかできなくなりますし、ソーシャルワークが本質的に二正面であることを理解していなくても、やはり社会運動に専心する活動家にしかなりません。残念ながらそういう人たちは存在するし、悪い意味で目立つのですよね。目立つ人たちからだけ理解を培うと社会に適応させる、サービスを配給する、社会運動を展開するというソーシャルワークの一部が全体のように見えてしまうものです。その意味で、クライエントの環境適応を至上命題にするソーシャルワークのまがい物が心理職に期待されている、というのであればそれはそうかもしれません。ですが、ここまで申し上げて来たように、それはソーシャルワークをほんの一部しか表していないのだとわたしは主張します。だいたい、ソーシャルワークの一つの極にあるソーシャルアクションが社会から期待されることなどないでしょう。人は自分たちがコミットしてきた価値の体系としての社会規範から逸脱していること、またそこから遊離していることを恐怖し、その抑圧として人は誰かを所与の環境に適応させようとするのです。仮に社会の変化を期待するとしても、それはソーシャルワークと結びつけて考えられてはいない。その意味で、社会という大きな主語が誰かに対してソーシャルワークを期待することはないでしょう。大きなレイヤーで期待されているかどうかだけが決定的に重要とは思いませんし、主張する事柄の正当性がきちんと帰納的に裏づけられているなら期待はどうあれ好きにやればいいと思っていますが、そういう話ではないですよね。

 国家の管理下に置かれた対人援助の専門職には必ずと言っていいほど環境適応が期待されます。その意味で、資格としての社会福祉士/精神保健福祉士と同様に公認心理師もまた、国家による社会統制の手段となることを期待されていると言っていいでしょう。福祉職と同様に心理職にも求められる社会統制の作法をソーシャルワークと認識されるのはいささか、というかかなり面白くないのですよね。そこに何らかの専門性があるとして、社会人なら誰しもやってきたであろう連絡調整をソーシャルワークと思われているならなおのこと、です。陽の当たる檜舞台で自分たちのプレゼンスをアピールするのは性に合わないのですが、そういう活動でもしないと近接専門職にすらなかなか理解してもらえないものなのでしょうかね。

おまけ

 ソーシャルワークによる心理的な発展の一つの果実として社会から離れられるようになるというものがあります。グレコローマンスタイルからフリースタイルに移行するということですね。社会に合わせる〈適応〉でも社会を合わせる〈革命〉でもない、クライアントが社会からの自由を手にすることが、ソーシャルワークの究極的な到達目標のひとつなのではないかと考えています。個人的な考えであり、それもあくまでひとつの、ですが。

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