透明な地域支援
日本精神科病院協会会長のインタビュー記事が東京新聞に出ていました。昔から斜に構えて旬を逃す性分でもありますが、今回はとりわけ記事への反応が落ち着くまで意図して待っていたところもあります。この手の話は発言者にその意図がなくとも党派闘争に巻き込まれがちで、実際に見るに堪えない激しい言葉の応酬もあれば、是か非かを問うような方もお見かけしましたので、熱が冷めてきた頃合いを見計らって少しコメントをしようと思う次第です。
と言っても、わたしがこれまで書いてきたものに新しく付け加える話はあまり多くないというか、話自体に目新しさがないと言えばないのです。それでもWeb上での反響が大きかったのには理由があると思いますが、ここではそれには触れません。とりあえず関係のありそうな記事へのリンクをつけておきます。コメント本体は目次からどうぞ。
①滝山病院をめぐる問題に対しての私の見解はこの記事にまとめました。
②精神科医療とそれをめぐる言論については以下の二つの記事辺りに書きました。
③精神科病院からの退院支援についてはこちらに書いてあります。
④記事の内容について是か非かの二元論を問う向きにはこちらの記事があります。
本題
さてここからがコメントですが、わたしはこの記事を読んで悔しいやら恥ずかしいやら、福祉の専門家の端くれとして忸怩たる思いでおりました。それはひとえに、地域で福祉を業をするわたしたち支援者たちが、同インタビューにおいて精神科病院からの地域移行、退院支援のファクターとしてほとんど顧みられていないことにあります。
インタビュアーにどの程度の知識や見識があるかは存じ上げませんが、インタビュアー側からその点に言及されてはいませんでした。他方、山崎会長の「マンツーマンで診れるなら」という言葉の診れるの含意が記事からは読み取れません。"診"という字は概ね診療行為を指していると思いますが、この字を充てたのは会長ではありませんし、文脈からはもう少し広く支援者が対応できるかということを問うているようにも読めます。会長の発言はそこから一直線に「財源も人もいない」「頑張っているのはボランティアばかり」です。地域の支援者は「いない」ものとして透明です。
わたしは会長の認識が正確だとは思いません。思いませんが、「精神科病院を束ねるドン」(わたしはこの言い方が好きではありませんが)の認識であることは無視できませんよね。地域の支援者が数多くありながら大局を左右するファクターとして双方から論じられないこの事実を、きちんと受け止めないといけません。
だいたい、それはただの不見識とも言い切れません。現に地域の支援体制やアティチュードは残念ながら「すべて受け入れるから病棟の門戸を開けよ」ということにはなっていませんから。地域の支援者が受け止めきれない人は確かにいます。それに対して地域の支援者が(個別を捨象して大局では)「支えられる人を支えられるだけ。手に余る人にも金がつかない課題にも手を出せません/出しません」では、たとえ財源や人を含めた政策の問題は同じでも、金がつかなくても人がいなくてもやっている精神科医療(それがお世辞にも上等でないものが数多くあるにしても、ですよ)と同じ土俵では論じ合えないはずなのです。本当は、あのような物言いをされてなお精神科病院に治療以外のことを求めなくてはならない現状を恥じなくてはならない、ということはありませんか。わたし自身、地域で支えきれなくて精神科病院に頭を垂れたことは一度ならずあります。精神科病院を純粋な治療機関にしておけるほどのことは出来ていません。あまりに安易な入院や身体拘束に憤ったことは一度や二度ではありませんが、それらを退けようと思うなら、精神科病院の病棟の外側にそれらよりも上等な支援を用意しなくてはなりません。それが実現できていない現状に忸怩たる思いを抱かなくて何なのでしょう。悔しくなくて何なのでしょう。社会において果たすべきそれらの役割を全うできていないのに、高みの見物を決め込んだりしたり顔で論評したり、あまつさえ他人事のように会長やインタビュアーを口撃したりする輩の何が福祉屋かよ、と思います。
とはいえ、軽んじられて不貞腐れていても何もいいことはありません。文句があるなら、不満があるなら、無視できないだけのプレゼンスを発揮する他ありません。そしてそれは政治闘争上の産物ではなく、実働に裏付けられたものであるべきだとわたしは考えます。
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