自分の正義感に向き合う

以前、自己嫌悪についての記事を書いたが、時間の経過とともに「苦しい」気持ちはだいぶ落ち着いた。
けれど、自分の根本的な問題について向き合う思考は続いている。
直せるものなら直したい思考の癖だから、とことん向き合ったほうがいいのかなと思っている。

前回は「搾取される」ことに怒りを感じるという方向に結論が向かった。
それはそれとして、自分の生い立ちが関係あると思う。それについてはまた別の機会に書こうと思う。

自己嫌悪のパターンについてよくよく考えると、

①出来事が起こって
②怒りの感情が沸いて
③他者を責め立てている感情に気づいて
④そんな自分の小ささを責める

これが自己嫌悪のパターンなのだけれど、前回は③と④のフェーズにいて、それを深堀していた。

今回は①と②の部分に焦点を当てて考えたことを書く。

そもそも自分が怒りを感じる出来事が「汚い・卑怯だと行いをしている人間」を認識すると、自動的に嫌悪感と怒りが沸いてくる。

つまり、よくも悪くも「正義感が強すぎる」。

これはちゃんと自覚していて、たまにハッとすることがある。

例えば、進撃の巨人のマルロの初登場エピソードはキた。
私はマルロみたいな思考タイプだ。同じ言動しているかは別として。
それが多少滑稽な目で見られることもわかる。

私の心に「キた」のは、アニがマルロを「正しい・良い人なんだろうよ」「でも、そういう風にできない人間も、人間だって認めてほしいだけ」みたいなセリフ。

私は「自分の(欲望の)ために他者を傷つけたり犠牲にしたりする人間の言動・行動」が許せなくて、怒りを感じてしまうのだけど、多くの人間がそうであって、=「悪人」と断罪してしまう考えが自分の中にあることを突かれた感じがした。

ちゃんと弁解すると、=「悪人」とまでは思っていない。
そういう側面があることを自覚し、常に多少の罪悪感を背負って生きないと、結局何も成長しないままその人生終えるよ?
って思っている。

そして、自分は他者に心の中でそう罵っているのだから、自分も自分に恥じない言動をしなければと常に思っている。

さすがに、他者にこの自分の考えをぶつけることはないが、心では思っていて、思っている分だけ対価として自分で自分を見張っているということだ。
何気に常に罪悪感を背負っているのだ。
だからこそ、また心の中で他者を「悪」として断罪してしまっていることに気づかされたのかも。


他の作品でもハッとさせられたものがある。
「へうげもの」。
明智光秀と秀吉のところ。
「(光秀は)偉い。だが、偉いからこそ誰もお前を信じぬ。人間とは動機に私利私欲が伴わねば納得せぬもの。」
という内容がとても響いた。
真理すぎて、とても納得するけれど、同時に絶望した。

そういえば、戦国武将診断(考え方とか)すると、たいてい明智光秀か石田光成になる私。
本当…わかる。


もう少し「悪」と感じる部分を優しく見つめることができればいいのだろうけど、現時点ではまだ無理そう。

ということで、基本的に人間社会で馴染めない正義感をもってしまっているけれど、これはもう自分の本質であって、自分の中で「どうどう」となだめながら付き合っていくしかないものかなと受け止めている。



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