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噓日記 6/5 ボードゲームと労働の類似性

ボードゲームが好きなのかもしれない。
昔から趣味と言えるようなものがとんと無かった私にとって、その自覚を持った瞬間に今まで繋がっていなかったシナプスがギュッと音を立てて弾けたような感覚を覚えた。
いや、正確には全てのジャンルのボードゲームが好きなのでは無い。
どちらかというとボードゲームが醸成するあの連帯感というか互いを理解し合おうとする生温かい優しさのような空気感を味わいたいという気持ちがプレイの中で先行している。
だからお互いで勝負し合ったりだとか、騙し合うようなゲームより、どちらかというとコミュニケーションを用いて共通の目標に向かうようなゲームが好きだ。
例えば私の好きなゲームにドラスレというボードゲームがある。
古き良きファンタジーの世界で共通の敵を協力して倒すという目的のためにプレイヤーは力を合わせるのだ。
コンポーネントから雰囲気作りに徹しており、まるでそんな世界を疑似体験しているかのような高揚感と、年甲斐もなくというちょっとした面映さが同居していて最終的にいい塩梅で没入できる造りなのだ。
プレイヤーは自らの分身となるキャラクターを選ぶのだが、そんなキャラクターにも個性があり得意な分野が違うことで各々がやれること、やりたいこと、できることに差が生まれる。
それが責任感による連帯と連携を生むのだ。
最終的なボスキャラクターを倒すまでに様々なクエストを協力してクリアし、キャラクターたちを強化していく。
ボスキャラクターは一筋縄ではいかないくらいに強く設定されているため、気を抜いてプレイすると当たり前に全滅する。
だからプレイヤーは必死になってコミュニケーションをとり、自らの取れる役割の最善を選択することに努めるのだ。
ここまで書いて思う。
私の願う理想の働き方とドラスレのプレイヤーの動きは合致するのだ。
個性の違う労働者が互いに手を取り合って、その短所という穴を埋め合い、売上というボスキャラクターと戦う。
夢のような話だ。
勿論、現実の労働はそうはいかない。
人は集まれば必ず衝突する。
ましてや金が関わるとなれば必然であるし、それを否定することは私にはできない。
しかし、ボードゲームならばその幻想が見られるのだ。
夢を、見せてくれるのだ。
ゲームのクリアと失敗、掛かるコストは基本的に時間だけ。
だからプレイヤーは熱中してその役割になりきり、没頭し、繰り返す。
つまり、自らが主人公であるという自覚と充足感のない現実の穴を埋めるような何かがプレイヤーにとってのボードゲームなのかもしれない。
人は、私は、社会の中で何者かになりたかったのだ。
それをボードゲームは優しく説いて、そしてその役割を疑似的に与えてくれる。
私は、ただ。
女エルフの弓使い(実年齢130歳だがエルフとしては若く、その姿は人間の15歳と見紛うものだった)になりたかった。

どりゃあ!