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噓日記 6/3 服を買いに行く服がない

「服を買いに行く服がない」
インターネット上ではもはや慣用句が如く使い古された文言だが、あえてその文意を考えると面白い。
本来は無気力な者が行動を起こす気がない場合に多く用いられた言葉だったが、昨今ではその意図以上に文字に買いてあるそのままの文意で受け取られる、もしくは用いられるようになってきている。
SNSでこの文言を用いた投稿を検索してみると、現在では主に服屋に買い物に行けるほどおしゃれな服を持っていない、店員から馬鹿にされるのではないかという不安があるという文脈で使われるようだ。
日本語の変化は面白い。
言葉自体が変わらなくても、その言葉が表す意味は時代やシチュエーションによって姿を変えていくのだ。
先の例で過去に用いられていた用法は、主体として自らがいてそれを自虐気味に諦めている、もしくは服を買えなどの第三者から言われた言葉に対して、やらないという意思表示を多少の皮肉も込めて消極的に行なっている、というユーモアが読み取れる。
現代で用いられる用法はまず第三者からの目線というものが主体となり、それにより自らが蔑まれる、軽んじられるのではないかという妄想が購買行動を妨げるのだという言い訳のような文脈となっている。
どちらも単純に「行動を起こさない」という意味で読み取ってしまえば決して褒められた表現ではないのかもしれないのだが、どちらにもなんというか矜持があるのだ。
あえて強い表現で大袈裟に表すが、過去の用法では自らが他者によって変わらない・流されないという固い意志があるとも読み取ることができ、現代の用法では他者に軽んじられるようなことがあってはならない、避けなければならないという一種のプライドが読み取れる。
私はこの人間の根底にある何か譲れない部分、負けられない部分がこういった日常の慣用句に溶け込んでいる様子を観察するのが好きだ。
人間とはかくあるべしとさえ思っている。
まさしくエゴイスティックに自らの生き方を自らで固めるようなその仕草が他の何よりも生に向き合う姿のように思えてならない。
そのエゴが自らの選択を狭めるような、後に自らを苦しめるようなものであったとしても止まらない、止められない、そんな不合理のものであればあるほど社会性を持った動物然とした振る舞いであるように思えるのだ。
私の紡ぐ文章は基本的に人間讃歌であり、そうあってほしいと祈っているという前提がある。
私が書き記したいのは、生きる意味であるとか、死すまでに成すことだとかそういった高尚なことではない。
ただ純粋にヒューマニズムを追いかける人間のエゴの美しさに、私たちはより目を向けるべきだと訴えたいのだ。
そうすればきっと昨日より明日、生きやすい世界になるだろう。

どりゃあ!