骨髄想録・その1「呪色のパステルを頭蓋に広げて」

"Imagination means nothing without doing."

         ―― Charlie Chaplin

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 皆様こんばんは。バーチャル“ベター”デッダーでおなじみ、オスコールです。

 二〇二一年も四月、いかがお過ごしでしょうか。今宵は毎週金曜日にお届けしている二分ラジオ『金曜夜の骨休め』の進捗が案の定芳しくなかったため、「せめて文章だけでも」と筆を取った次第でございます。たまにゃあこういうエッセイも良うかしょう。

 声を録らない分につきましては文章量でカバー、それではどうぞお立会い。思いのままに思いを綴る『骨髄想録』、骨はわたしが折ります、くたびれてもやりましょう。皆様にはちょいと風変わりな儲けもの、見らにゃ損々。

 お代はもちろん、何より高価な『無料』を頂戴致します。

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 最初に書いた小説は確か、少年と少女がドラゴンに出会い、共に旅をする物語だったと記憶している。それ以前にも小説の紛い物みたいな文のかたまりを手掛けていたかもしれないが、記憶している限りで最も古い作品がそれだ。

 学生の時分はとにかく芸術方面の授業が好きだった。まだ文章を己の得意分野と定める以前、山や海といった景観の良い場所をスケッチするべく、拙い画材を抱いて大自然に繰り出したこともあれば、知りもしない芸術家の展覧会に足を運び、その奇奇怪怪なオブジェに作者の思考思想を見出そうと日がな一日眺めてみたり、もちろん文章も書いてみたり、一時は作曲に手を出してみたりと、その手の素養というか、才能らしきものは行動となって如実に表面化していた。

 今でこそ「執筆こそ我が真骨頂」と嘯いているが、自身の根底にあるものは『なんだかよく分からない創作欲』と言える。理由は全くもって説明できないが、どうしても自分の頭の中に思い描かれる世界を形にしたい。そうしないと発狂するか、放出されないまま積もっていくアイデアで頭がパンパンに膨れ上がり、終いには弾けて死んでしまう……とまでは言い過ぎだが、それに近い強迫観念めいた欲求は生前より、あるいは死して骨の姿と成り果ててなお、わたしの中に居座り続けていた。

 物心つく前から存在していた『それ』をどうにかするために、言葉にフェティシュのあるわたしは小説という表現形態を選んだ。ただ、言葉フェチと創作欲はわたしの中で繋がりの無い、各々が独立した嗜好であったから、執筆能力そのものはとにかく文章を書きまくって鍛えた。また、文章はあくまで創作欲を発散する手段の一つという捉え方であり、浮かんだアイデアによってはイラストや動画の方が相性の良い場合もある。ラジオにシチュボ、madと手広くやっているのはそういうわけだ。

 何かを創りたい。モノを創っていないと自分探しの旅に出てしまいそうなくらい不安で、それは最早呪いに近似している。だから手段を文章と決めてからのわたしは誰に見せるわけでもない小説を次々と書き下ろし、原稿用紙にしたためていた頃はそっと鍵付きの引き出しの中に、パソコンを購入してからはテキストファイルを専用のフォルダの中にひたすら溜め込んでいった。

 誰のためでなく、ただ自己のために。執筆中のぼうっと意識が溶けるようなまどろみと、書き終えた後の脱力感と、常時襲い来る創作への渇望だけを糧に。出来が良いものは新人賞に投げてみて、駄目でも気にせずまた作業に没頭する。そんなことを何年とやっていたから、バーチャル“ベター”デッダーを名乗り皆様の前に作品の数々を曝け出すようになった今、見返りだ評価だと言われてもいまいちピンとこなかったりする。

 人に褒められたら嬉しいのは分かる。貶されたら悲しいのも理解できる。お金が貰えたら創作への熱意もいっそう高まろうというものだ。けれどもわたしに限っては、別に何も無くても手が勝手に動く。頭が勝手にアイデアを弾き出す。モチベーションなんて意識したこともない。遅筆ゆえ進捗は遅いがスランプも知らない。完成しないのはだいたい疲れてサボっているせいだが、肉体の疲労に関係なく、モノを創れないことへのフラストレーションは溜まっていく。しばらく何もせずにいた後の作業は、まさしく天にも昇る悦びだ。

 『アイ・アム・レジェンド』の世界よろしく、例えば世界でたった一人きりになっても、わたしは変わらず何かしら作り続けているのだろうなと思う。荒廃した世界を闊歩するスケルトンが往く先々でメモ用紙かノートパソコンかを広げ、瓦礫にでも腰かけて執筆活動に勤しむ。オスコールさんならそれくらいやりかねない、なんて思われたらある意味光栄だ。

 突然だが、この『骨髄想録』に目的は無い。わたしが普段ぼんやりと考えている事柄を切り取ってペッと貼り付けただけ、くらいに考えて欲しい。面白さだって保障しかねる。

 ここまでの文章すら自己満足。どこまで行こうと何をしようと、わたしのやることに他者の存在や思惑はあまり介入しない。動機の中に含まれない。創作欲という源泉から湧き出るストーリーの奔流を淡々と作品に加工しているだけなので、いわゆる『依頼』なんて受けられない。メニューの一切が店員任せの日替わり定食しか取り扱っていない定食屋みたいなものだ。

 自分で考えているのに、自分では決められない。全ては己の内なる衝動に任せるしかない。『推し事』と称して創り上げた作品の数々だって、もちろん推しのためというのもあるが、なによりその衝動に身を任せた結果であって「こんなの嬉しくも何ともないよ」と突き返されたとて特段不思議に思わない。好みの問題だったと割り切って、他の作品を進めるだけだ。いや、流石にちょっとは凹むかもしれない。かえって興奮する可能性もゼロではない。推しには何をされても嬉しいものだ。

 全てが己の内で完結している、と形容すれば少しは格好良いか。とはいうものの、自分一人でも百パーセントの力を発揮出来るというだけで、皆様からの声援応援叱咤激励はよりスムースに創作モードへの移行を可能とし、生来のサボり癖に活を入れてくれる。百パーセントを上回る出来栄えを見せる時、大抵何か良い言葉を貰った後だったりもする。面白い、楽しい、嬉しい、ありがとう、考えさせられる、難しい、頭おかしい、ヤバい。

 また、今はまだ大丈夫というだけで、ひょっとすると今後ネタ切れやスランプに陥ることも十分にありうる。人生は生きていても死んでいても何が起こるか分からないものだ。そんな状況に見舞われてもまだ自己完結できる確証はない。案外ポッキリ折れて二度目の死を懇願するようになるやもしれない……それはそれでドラスティックかつトラジックな展開だが、今のところはごめんこうむる。創作欲とは別に、やりたいことが山のように残っている。まだくたばるわけにはいかない。

 そういうわけで、これからも程々にオスコールのことをよろしくお願いしたい。長々と書いたが要約すると、

「わたしは独りでもへこたれたりしないんだからね!でも何があるか分かんないし、これからもちゃんと見ててよね!」

 というわけだ。ようやっとおわかりいただけただろうか、実は活動を始めて一年と半年が過ぎたわたしからの、渾身のツンデレ告白だったのである。

 こんな偏屈ボーンを日頃から見守り、応援して下さる皆様へ、ありったけの感謝を込めて。

 本当にありがとう。

 また次回、『進捗ダメです』な時にお会いしましょう。

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(作:オスコール_20210416)

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