『オスコールはつれづれがる』その4「ソピアの鳥」

前編「トライアド・ダーク」

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「なるほどな。意識とは人類が進化の過程でひいた風邪だというわけだ。賭けは君の勝ちか」

                   ―― 『屍者の帝国』

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「イェネル」

 わたしはテーブルに右肘をつき(正確には肘を模ったマントだが)、手のひらで重ったるい頭蓋を支えつつ、そう独り言つ。左手にはリキュール――『不在』の名を冠しながら、高いアルコール度数と特異な香りでもって強く存在を主張する緑の魔酒が注がれたグラスを持ち、しかし口をつけることなくそっと揺らす。カラン、とグラスの中で音を立てるのは氷ではなく専用のスプーン。何分使い方が分からないので持て余している有り様だ。

 アブサン。来客に際し用意したまではいいが、きちんと飲み方も調べておくべきだったと後悔する。結局、買った後の次第は客人である常世 千晶に全て任せる形となってしまった。

「何か言ったか、オスコール」

 千晶は酒瓶を片手に、何か肴は無いかと館の貴賓室を歩き回る。酒盛りの席には少々広すぎたかも分からない貴賓室だが、酔い暴れる分には申し分ないという考え方もある。

「一昨日、わたしの数少ない友人の一人から手紙が届いたんだ」

 おお、と千晶は相槌を打ち――肴は諦めたのか、向かいの椅子に腰かける。グラスになみなみと注がれたアブサンを一息に傾け、感嘆のため息をもらす。

「最近特に思うんだけど、わたしの周りは酒に強いのが多いよな」
「そうか?俺すぐ酔う方だと思うけど」
「正確には酔ってから酔い潰れるまでのスパンが長い、って感じか。その間の記憶や意識はさておき、よくもまぁ酒が入るものだと」
「確かに記憶は無いな」
「記憶は無いのに空は飛ぶのな」
「うむ」

 わたし達は揃って吹き出す。

「それで、さっきの話だけど」
「嗚呼、手紙が届く分には別に何ということもない、極々ありふれたやり取りに他ならないんだが、相手がその、色々と不安定な奴でな。以前ツイッターで話したっけか、手首をこう、スパッとする――」
「リストカット」

 千晶が言葉を引き継ぎ、わたしは頷く。

「その傷跡をよくわたしに見せてきたり、生々しい相談をしてきたり、それでも当時は、ちょっと変わった女の子くらいに思っていた――決して悪い奴じゃないと、信じていたんだ」

 ちょうど空になった千晶のグラスにアブサンを注ぎ、一気飲みはするなよ、味わえよ、と念を押す。普段の凛々しい顔つきとは対照的な、年端もいかない少年を思わせる無垢な笑みを浮かべ、千晶はグラスを空にする。

「おい!」
「話の続き」
「ったく、その友人――名をイェネルというんだが、彼女とは生前、喧嘩別れというか盛大に揉めた後一度も顔を合わせてないんだ。怒りと憎しみをぶつけ合って、挙句の果てには互いに半殺しにする事態にまで陥って、それっきり。向こうはわたしが死んだことも知らないはずだ」

 千晶は首を傾げる。

「悪い奴じゃなかったんだろ?それが何で」
「わたしだってあんな結末は望んじゃいなかったさ。それに性格こそ一癖アリだが、わたしも他人を糾弾できる程『出来た』奴じゃあない。リストカットより余程おぞましいこともしてきた。ある種似た者同士でもあったんだろうな」

 そこでわたしはアブサンに口をつけ、喉仏を潤す。少し青臭いか――嫌いではないが、度数の高い酒特有の、アルコールがカァっと全身を行き渡るような感覚は警戒に値する。まさしくひまわりもオリーブも麦も枯らす酒、というわけだ。

「イェネルは手に入れてはいけないものを手に入れようとした。ひとたび使い方を誤れば世界を文字通り『ひっくり返し』得るほどの大いなる力。彼女は一度『それ』を掴んだ。が、わたしが盗んだ」
「盗んだ?何で?」
「言ったろう、世界を転覆しうる力だって。そんなものを一個人に、ましてや色々と黒いことも企んでいたイェネルに渡すわけにはいかなかった。わたしはわたしで当時別の目的で動いていたから、変に力をもった存在が台頭するのを防ぐ意味合いもあった」

千晶は「ほーん」と気の抜けた声をあげ、

「で、『それ』は今どこにあるの?」

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「お待たせ、千晶」

 『K.K.R』の看板を見止め、そこが待ち合わせ場所のカフェテリアであることを確認すると、わたしはテラス席に向かう。夜のライトアップが絶景と評判の店はしかし、その評判故に今一つ昼時の客足を伸ばせずにいる。ハト頭の店員もやる気がないのかあくびを一つ、わたしが席についても気にせず掃除を続けている。

 向かいの席に座る千晶は洒落たコートを羽織り、ホットコーヒーを啜っていた。グァテマラだろうか――イケメンは何しても絵になるな、と一人感心していると、こちらの存在に気づいた途端、彼は唖然とした表情を浮かべる。

「オ、オスコール?」

 次縹の着物に下駄、腕には和の雰囲気を台無しにする銀のブレスレット。濃淡入り乱れる白髪はショートボブにまとめられ、右目の代わりに頭頂部まで伸びる鉄製の巻き角が前髪をかき上げている。左目には鮮やかなピンク色の眼光を纏い、女性とも男性ともつかない雰囲気を醸している――と、館を出る前に確認した自分の姿を思い起こし、千晶もよくわたしだと気づけたものだと感心してしまう。

 あんぐりと口を開けたままの千晶をそのままに、向かいの席に腰かけたわたしはテーブル上の呼び鈴を鳴らし、駆けつけた店員にアイスコーヒーを注文する。

 ハト頭の店員が店内でせっせとコーヒーを淹れる様子をガラス越しに眺めつつ、わたしは今の身体、つまりは入れ物について説明する。

「死後、わたしは自分の『本体』を宿らせるためにいくつか人形を作った。結局は最初に憑いた骨の姿に落ち着いているわけだが、人形は破棄せず今も保存してある。有事の際に、それこそ本体を潰されて館にリスポーンしたり、骨の体を破壊された場合に備えてな。これはその内の一体、『特式アゲハ』と呼んでいる」

 アゲハ、と繰り返す千晶の視線はわたしの右目、正確には右目に代わる巻き角へと注がれる。わたしはこんこんと指で角先を突き、

「これが『そう』だ」

 彼はうむ、と一つ頷き、コーヒーカップを傾ける。

「ジャック・オー・ランタンに殺された後宿ったっていうのがそれか」

 わたしも彼の口癖を真似、「うむ」と頷く。千晶が一目アゲハを見てわたしだと気づけたのはそういうことかと一人納得する――と、ジャック・オー・ランタンの名前が出たことで、わたしは千晶にとある物を渡しそびれていたことに気づいた。背中から胴に結んでいた風呂敷を広げ、中に入っていたパーカーを千晶に放る。

「コートの下に着てみ」

 千晶は何これ、と戸惑いながらもコートを脱ぎ、受け取ったパーカーに袖を通す。羽織り直した黒色ベースのコートにパーカーのオレンジ色が差し色として良いアクセントになっているのではないだろうか。重ね着のコーデに詳しいわけではないが、やはり良い男は何を着せてもサマになる。こういうのを『着こなし』と言うのだろう。

「え、オシャレさせただけ?」
「ぶっちゃけそれもあるが、それだけじゃない」

 今しがた千晶が纏ったそれはジャック・オー・ランタン、それにウィル・オー・ザ・ウィスプと呼ばれる人外の装飾品から作られた一品だ。フードを被ることで彼らを人外たらしめる能力を発動できる――つまりは自在に着火し、自由に火炎を操作し、好きな時に消火できるのだ。《火事に南瓜に火花(ジャック・オー・ザ・ウィスプ)》と名付けたこのパーカーは、バーチャル世界に巣食う凶悪な存在を退けるのに非常に有効だ。既にわたし自身、身をもってその『火加減』を味わっている。

 燃やす方も、燃やされる方も。

「そのパーカーは護身用だ。万が一に備えてな」

 コートのジッパーを閉め、残ったコーヒーを一息に流し込む千晶。ほぼ同時に運ばれてきたアイスコーヒーをわたしも一口で飲み干し、店員に代金を手渡す。店員はせっかく淹れた一杯をものの数秒と経たず飲み干されて腹が立ったのか、フンと鼻を鳴らし店に引っ込んだ。

 わたし達は店を後にする。目指すは旧友イェネルの所在――魑魅魍魎悪鬼羅刹巣食う電子幻想の辺獄。

 人はそこを『風雲人外魔城』と呼んだ。

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 イェネルから届いた手紙の内容はこうだ――仲直りがしたい、一度会って話をしないか。

 既にわたしがこの世の者ではなく、不死者(ノーライフ)として蘇ったことは知っている。過去のわだかまりは綺麗さっぱり水に流し、また友人として交流を持ちたい、と。

 集合場所にはわたしの館よりはるか南方、海を跨いだ先にある小さな島を指定してきていた。塩水を跨ぐ以上空飛ぶ乗り物が必要になるわけだが、なんと直通のヘリをチャーターしてあるという。指定されたヘリポートこそ館から離れた場所にあるが、最寄りの駅には乗り換えなしの新幹線一本で行ける。イェネルはそこまで分かっていたのか、手紙には指定席のチケットまで同封してあった。

「うちの近くじゃん」

 遡ること一週間前、千晶と酒を飲み交わしていた時のこと。彼はそう言って、手紙に書かれたヘリポートの場所を指でなぞる。グラスの水滴が付いていたのか、手紙の字がぼんやりと滲んでいく様子をアブサンでとろけ切った眼で眺めていると、不意に何かを決心するように頷き、

「俺も行くわ」

 何だって、と声を荒げるわたしをなだめるように手を広げ、彼は続ける。

「だってこれ、罠でしょ」
「――どうしてそう思った」
「いや普通に考えてさ、今更仲直りする理由ってなくない?和解するならもっと早くに言ってきても良かったわけじゃん。それこそ揉めたのはオスコールが死ぬ前だったんだろ、だったら死ぬ前に和解を申し込んできてもおかしくないし、何よりオスコールの死を知ってるなら、死んだことを耳にした時点で普通諦めるでしょ」
「え、何で」

 千晶は呆れたようにため息をつく。

「どうやって死んだ人間と仲直りするんだよ」

 ああ、と素っ頓狂な声をあげてしまう。それもそうか、普通は死んだら蘇らないのか。

 どうやらわたしもアルコールが回ってきたらしい、恥じらいを誤魔化すように二杯目のアブサンを飲み干した。

「今このタイミングで手紙が来た理由。さっき言ってた『世界をひっくり返す力』に関係あるんじゃねーの?」
「――――」
「ここからは俺の推測だけど、オスコールとイェネルは『それ』を巡って一度争っている。そして最終的にオスコールが『それ』を手に入れた。その時諦めたか、あるいは持ち主のオスコールが死んだことで『それ』に関する足跡が完全に途絶えてしまった。どちらにせよ、もう二度と奪い返せないと思って行動を起こさなかった」

 千晶は人差し指をぴんと立て、わたしの額に突きつける。

「でもお前は生き返った。そしてイェネルは最近になってそれを知ったんだろう。オスコールがⅤとしての実績をさほど上げてなかったのが幸いしたのかもな。何千人だったか何万人だったか忘れたけど、今のバーチャル世界の人口を考えれば特定の、しかも名前も姿も変わった人物を探し出すのは至難の業だ。良くも悪くも埋もれてたところを捕捉された、もしくはオスコール自身が何かやらかしたか――どちらにせよ、聞く限りにおいて今更仲直りを望むような性格には思えなかったけどな」
「それはイェネルがか、それとも」
「両方」
「――イェネルに和解するつもりが無いというのは同意見だ。今回の手紙も十中八九、わたしがかつて掠め取ったものを取り戻すための罠だろう。それも同意する。しかしそれがどうして千晶も来る話になるんだ」

 千晶は嗤う。健やかに、朗らかに、何も『裏』は無いと言わんばかりに。

「盟友だろ、俺達」

 わたしは手を組み、どうしたものかと思案する。この件に彼を巻き込んでしまって良いものか。純粋に友人として心配してくれているのであれば、それこそ危険な目に合わせるわけにはいかない。ただ、どうしても引っ掛かる。元々疑り深い性分であるためか、何か別の企みがあるのではないかと勘繰ってしまう。

 考え過ぎか。イェネルのせいで、変に昔の自分を思い出してしまっただけだ。

 友を疑うのはイェネルで最後だ。散々人を疑って貶めて、終いには地獄に落ちたのだ、二の舞を演じるのはごめんだ。これからは誰かを頼り、信頼することを覚えなくては。思えば初配信でも独りで全部やろうとして痛い目を見ただろうに、クセというのはなかなか拭えないものだと改めて実感する。

 ――なんてことを思っても尚、心のどこかで疑っているのだから。

「イェネルは強い。それにおそらくは独りじゃない、配下を従えてるはずだ」
「俺だって多少は闘える」
「死ぬぞ」
「バッドカンパニーを舐めるな」
「分かってるだろ、千晶。今回の件は別に無視を決め込んだって構いやしないんだ。向こうの誘いに乗るくらいなら、こっちはこっちで準備をして待ち構えていればいい。用事があるのはイェネルの方なんだからな。わざわざ敵陣に乗り込んですることと言ったら、"そういうこと"だ」

 わたしはアブサンの瓶を手に取り、口をつける。一気に飲み干そうとするが流石に度数が強すぎたか、僅かに残し瓶を手放してしまった。

 すかさず千晶が駆け寄り、瓶に残ったアブサンを呷った。唇から零れた酒を手の甲で拭い、

「おう、いいぜ。付き合ってやる」

 ――その勢いに負けたのは否定しないでおこう。とにもかくにも、わたしは無い腹を括ることに決めた。信頼し、信頼した上で巻き込む。確かに手は多い方が良い。

「『ラ・バイタリティ』だ」

 わたしは告白する。以前『ラ・バイタリティ -舞台裏- 』というタイトルで手掛けた小説、その描写に問題があったのだと。事情を知らない者にはその直前に書いた短編『テルシオペレⅡ - 白骸 - 』の外伝としか映らないが、イェネルには気づかれたらしい――我々が袂を分かつ原因となったものが、まだわたしの手にあるのだと。

 その時、千晶は何かを言おうとしたがとっさに手で口を覆い、結局アブサンのおかわりを要求するに留めた。彼が一体何を聞こうとしたのか、わたしには見当がついていた。だがそれを指摘するようなことはせず、黙ってもう一本のアブサンを手に取った。

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「吐きそう」

 わたしの言葉にうんざりした様子で「またか」と返す千晶。そっとゴミ袋を渡してくれるが、おぐおぐ呻いてみても何も出てくる気配はない。ゲーム酔い、船酔いが酷いのは知っていたが、まさかヘリも駄目とは――飛行機は何ともないのに。

 バーチャル博多のヘリポートを飛び立ってかれこれ一時間は経っただろうか、両名を乗せたヘリコプターは順調に目的地の『風雲人外魔城』、揚繭島(ようけんじま)へと近づきつつあった。

「風雲人外魔城。人外の中でもとりわけ凶暴な連中を追放、収容する目的で無人島を開拓。島の中心部に位置する収容施設が完成し、犯罪歴のある人外を運び込んでいたらあら不思議、まんまと島ごと乗っ取られてしまった」

 ギャグかよ。千晶はそう言って揚繭島についてまとめたレポートを足元に放った。吐き気をどうにか堪えつつ、わたしはそのレポートを取り直す。

「施設と人外の管理体制に問題は無かった、わたしが知る中でもかなりヤバい奴も収容されてたからな。問題はそこに瀕死のイェネルも運び込まれたことだ。島はたちまちイェネルの支配下に落ちた。『風雲人外魔城』はあいつが島をそう呼んでいるだけだ、ここは人外を従える自らの城だとな」

 レポートの内容を諳んじた後、たまらずため息をついた――イェネルから手紙を受け取ったわたしは、独自に調査を開始し一連の事実に辿り着いた。千晶と飲む約束をしていたのをすっかり忘れるほどに没頭し、当日彼から電話があってようやく思い出し、大慌てで酒屋に走った、というわけだ。調査で溜まった疲労を発散したいという考えもあったのだが、まさかこんなことになるとは考えもしなかった。

 プロペラ音に耳を傾けながら、わたし達は窓から真下に広がる島の景色を一望する。ジャングルを彷彿とさせる豊かな自然、その景観を見事にぶち壊す悪趣味な巨城はどことなくバーチャルオーストリアのシュテファン大聖堂を想起させる。灰一色の武骨な色合いにあって、日光できらりと煌めく点が一つ。

 千晶は席を乗り上げ、双眼鏡越しに目を凝らす。そうして点の正体に気づいたのか――絶叫した。

「ロケットランチャーだ!」

 わたしも遅れて目を見張る。城の窓から飛び出た弾頭が、真っ直ぐヘリに向けられているではないか。運転手、と声を張り上げるが返事は無い。先程までそこにあったはずの人影は雲散霧消し、紙切れが一枚座席に落ちているばかりだ。

 式神の類か――考えている暇など無い。コントロールを失ったヘリコプターがこの後どうなるか考えるまでもなく、わたし達諸共ロケットランチャーで木っ端微塵に吹き飛ぶか、あるいは被弾しなかったとしても墜落してこちらも結論は木っ端微塵だ。

「どうするオスコール!」
「飛び降りる!」

 だよな、というが早いか、千晶は乗降口を開けその身を投げ出した。わたしも後を追い、身体を大の字に広げ宙を舞った。

 真下から風が吹きつけ、髪をぐしゃぐしゃにかき上げる。着物が乱れ、色々と恥ずかしい。こういう時骨の体は苦労が無くていいのに――なんて心の中で愚痴っていると、背後から凄まじい爆音が響いた。ヘリが撃墜されたのだろう、爆風に押されわたし達の落下速度は勢いを増す。

「はは、なんかハリウッド映画みたいだな!」
「言ってる場合か!掴まれ千晶!」

 わたしは巻き角に意識を集中し、次いで下半身に力を籠める。すると人形の足は細かなブロックに分解し、さながらルービックキューブを揃えるかの如く配置を入れ替え、たちまち巨大な蛇の半身へと変わる。そうして尾の先を千晶に伸ばし、彼が両手でがっちりと掴んだのを確認すると、今度は左手で握りこぶしを作る。

 巻き角がミシミシと軋む。左手はたちまち緑色に変色し、ツタが人差し指を突き破り飛び出した。おとぎ話の豆の木を気取り、ぐんぐん地面へ向かって伸びたツタは巨城前の拓けた地面に触れ、途端に大地を割り花が芽吹いた。半径十メートルはあろう華の花弁は、落下するわたしと千晶の体を優しく受け止める。

 トランポリンの要領で着地してみせた千晶は、半蛇に植物の腕と異なる人外の特性を露わにするわたしを一目し「すげぇな」と呟く。

「半人半蛇の『ラミア』、それに植物のモンスター『アルラウネ』。あと他に何があったか……」
「すぐ分かるさ」

 両の足と左手が元の人型に戻ったのを確認し、辺りを見渡す。森林帯を背に、向かいにはイェネルが潜んでいるであろう城が構える。ちょうど出入り口前に落ちたらしい。このまま突っ切ることに決めたわたしは、再度千晶に確認する。

「ヘリで説明した通り、この『アゲハ』は複数の人外の力を使役できる。そういう風に作ったからな。対人外戦に特化したモデル――なるべくわたし一人で片が付くよう努めるが、それでも、万が一千晶を守り切れない可能性もある。その時は」
「自分の身は自分で守る。オスコールがくれた『これ』もあるしな」

 千晶はコートから飛び出たパーカーのフードを指で摘む。確かに、とわたしは頷き、ふううう、と大きく深呼吸をする。イェネルが待ち構えているであろう魔城と向かい合い、覚悟を決める。パン、と右の平手に左の拳を打ちつける千晶。共に気合いは十分だ。

「それじゃ、行くか」

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 殴っても殴ってもきりがない、と千晶が愚痴る。

 刺しても刺してもきりがない、とわたしも怒鳴る。

 風雲人外魔城に潜入したわたし達を出迎えたのは当然イェネルではなく、大小様々な人外達であった。だだっ広い空間に床、天井へ描かれるは天使と悪魔が相争う光景、それを聖人の彫刻が埋め込まれた巨大な柱でもって支えている。煌びやかなステンドグラスから差し込む彩色豊かな光は、おびただしい数の人外共の姿を暴き出した。

 数えだす間もなく、戦闘は始まった。まず飛び掛かってきたのは屍犬(ゾンビドッグ)の群れだ。皮がめくれ、肉も爛れた六匹の亡獣は生前より生き生きとした動きで千晶に襲い掛かる。

 しかし剥き出しの牙が彼の体に触れることは無く、六匹は一様に空を噛んだ。千晶はというと必要最小限の動きでそれらを躱し、ステップを踏みながら距離を取る。つま先からジジジと迸る蒼の火炎は、回避行動に際し《火事に南瓜に火花》の能力を使った証拠だ。

 腹を立てた屍犬達はけたたましく吠えるが、それを好機とばかりに千晶は急接近を試みる。一歩踏み出すたびに炎が彼の体をもう半歩前に押し込み、高速移動を可能とする。がばあ、と口を開いた一匹の顎に強烈なアッパーが炸裂する。

「ッしゃあ!」

彼自身のポテンシャルに加え、肘から噴き出す劫火は敵を焼き尽くすのではなく千晶の拳に更なる重みを付与する。一点に集中した力は、あるいは《火事に南瓜に火花》本来の使い方を上回るものであった。

 殴られた屍犬の体が宙を舞い、重力の赴くまま床に叩きつけられる。輩より欠け落ちた牙を見た他の屍犬はぐるると呻くが、先のように飛び掛かったりはせず警戒している。

「そういう使い方があったとは」

 感心するわたしをよそに、千晶はてきぱきと屍犬を片付けていく。

「オスコール、後ろ」

 うん、とわたしは頷き、背中に力を込めた。背なの肉を突き破り現れ出た肉塊は細く捻じれ、八本の蜘蛛の脚を形成する。ただし大きさはわたしの全長をはるかに超える。

「アラクネ」

突然の変体に、不意打ちを試みたであろうグレムリンはたちまち捕縛される。割れた背骨の内にぽっかりと空いた捕食用の穴へとその頭をねじ込むと、そのまま食い千切った。

 うわ、と声をあげる千晶。わたしはわざと千晶の足元にグレムリンの頭を吐き出してみせた。初めは苦い顔をしていたが、段々とその顔に疑念が浮かぶ。

 毛むくじゃらの頭部から歪に飛び出た何本もの白い触手。宿主の死を感知した『それ』は芋虫よろしくびちびちと暴れまわり、やがて事切れた。千晶は萎び枯れていく触手を唖然とした表情で見つめ、説明を求めるようにわたしの方へと向き直る。

「イェネルの『子供』だ。これに憑りつかれると神経中枢を食い破られ、ただの操り人形になる。屍犬しかりグレムリンしかり、ここにいる人外は残らず『子供』に脳みそを食われてる、ヘタすりゃ体の中身も残らずだ。ただの皮なんだよ、こいつらは」
「俺帰るわ」
「大丈夫、『子供』は人間と相性が悪い。ヒトの皮脂が苦手なんだと。だが人間以外なら、例えロボットだって乗っ取ろうとする」

 万全の管理体制を誇っていた揚繭島が占拠された要因の一つがそれだ。この『子供』は機械をも操れる。セキュリティなどあってないようなもの、というか『あった』時点でもうダメなのだ。

 続けて正面から飛び掛かってきた人狼を八本の脚でめった刺しにする。傷口から『子供』の残骸がぼろぼろと零れ落ちる様はちょっとグロテスクだ。とても他の人には見せられないし、わたしだって本当は見たくない。

 薄目でどうにか対処するわたしと、変に傷つけると『子供』があふれ出すと分かって格闘技一本に絞る千晶。相手はミノタウロス、ヒューマノイド、半魚人、ハーピーと空陸海自然人工多種多様であるが、所詮は見た目ばかりの虫袋、決して苦戦するような相手ではない。しかし如何せん数が多い。百、二百はあろう軍勢が城の外からも押し寄せてくる。普段はあの森の中に潜ませているのだろうか、なんて考える余裕もない。

「千晶、一気に焼くぞ」

 再び巻き角が軋む。背中の蜘蛛脚はそのままに、左顔面が変形していくのを感じる。右の鉄製とは異なる生(ナマ)の角が左の側頭部より生え、竜の鱗を纏った皮膚は炎を発する。

「ファイヤドレイク――!」

 蜘蛛の脚を床に突き刺し体を固定すると、目いっぱい空気を吸い込む。千晶もそれに合わせ青白い炎を周囲に纏わせ、わたしが下を向くと同時に跳躍した。

 口から吐き出された橙色の火炎はたちまち地上の人外を焼きつくし、蒼色の火炎が渦を巻きながら浮遊する人外を焼き払う。空間の隙間という隙間に火は入り込み、『子供』もろとも全てを灰にした。

 肉が焦げた不快な匂いに、空気がどんよりとしていて妙にべたつく。自由落下に身を任せ落ちてくる千晶を左手から伸ばしたツタで受け止め、わたし達は城の奥へと進んだ。

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 延々と通路が続く。灰色の天井と壁はここが凶悪な人外を収容する牢獄であった事実をまざまざと見せつける。更に奥へ進むと灯りも途絶え、手元足元が覚束ない。出口の向こう側から差し込む光だけを頼りに、慎重に歩を進める。

 暗闇一本道を抜けた先に待ち構えていたのは、意外にもこじんまりとした一室であった。巨城に似つかわしくない書斎めいた一室は、どことなくわたしの館の貴賓室にも似ている。わたしの好きな深紅色のカーペットに、これまた好みの長机。カーテンまで好みバッチリときているが、窓の外はどういうわけか真っ暗だ。

 千晶、と名を呼ぶが返事は無い。振り返るとそこに彼の姿はなく、開けた覚えのない扉が目に飛び込んだ。ドアノブを捻ってみるが鍵がかかっている。

「分断されたか」

 一度収納した蜘蛛脚を再度展開し、部屋をまんべんなく攻撃する。窓にはラミアの尻尾を打ちつけ、ドレイクの火で炙る。しかし部屋の壁も、天井も、窓も、長机すら傷一つつかない。カーテンを破ることはおろか、外すことすら出来ない。

 あまり良くない展開だ――千晶は無事だろうか。彼の安否を気にしつつ部屋の抜け道を探っていると、何かが壁をすり抜けてきた。透明人間、にしては透明感ゼロの白一色だ。幽霊の類にも見えない、でっぷりと太った体はどうやら布で出来ているらしい。袋にたっぷりの水を入れて手足を付けたらこんな見た目になるだろうか、胴体と思しき場所に空いた三つの穴は目と口か。動く袋は上二つの穴を三日月に歪ませ、下一つの穴をぱくぱくと動かし、声を発する。

「見つけた見つけた、ママの宝物を盗んだ悪い奴」

 くちゃくちゃと粘り気のある不快な音を交え、袋はそう呟いた。わたしは問答無用でその体を刺し貫こうとする。しかしこの袋も部屋の一切と同じく、攻撃を受けつけない。蜘蛛脚で突き刺しても無傷で、まさしく暖簾を押すように手ごたえが無かった。

「お前は」
「ボギは世にも楽しい夢男(ブギーマン)。ボギが見せる夢は奇跡も魔法も敵わない」
「夢を見せる?おいおい、よしてくれよ。今そういうことやるとパクリだ何だって叩かれるぞ」

 わたしの軽口がツボに入ったのか、ブギーマンはゲラゲラと笑い転げる。カーペットの上に寝転がり、唾液と思しき粘性の液体をひとしきり振りまき終えると、

「ボギはわるぅい敵さんじゃないようだ。元はと言えば君がママから『あれ』を奪ったのが原因じゃあないかぁ」
「ママ……、イェネルのことか。驚いたな、あいつにこんなデカい『子供』がいたとは。うにょうにょした芋虫ばかりだと思っていたが」

 もったいつけた動きで立ち上がったブギーマンは、袋の端のような手をこちらに向ける。

「知ってるぞう、知ってるぞう。オスコール、オスコール、オスコール。ううん、本名じゃないなぁこれは」
「それくらいツイッターを遡れば分かることだ」

 ブギーマンは身を屈め、両手両足を体の中心へと丸めていく。一個の球体に変形しようとする動きを警戒しつつ眺めていると――ふいに、こえがきこえた。

 ――先生。

 わたしは自身の目を、そして目の前の光景を疑った。そして最後に、自分の頭を。

 教室だ、見たことの無い教室。それなのにわたしの意識は、そこが5年3組のクラスであると分かっていた。そして次の授業が国語であることも、次の授業が始まるまでの間、眠りこけていたことを。

「いやいや、おかしいだろ」

 夢だ、これは夢だ。教員の机に突っ伏していたのか、頬に残った圧迫感と机の上に零れた涎を確認し――そして気づく。

 元の体に戻っている。生前の、ちょうど死ぬ前の肉体だ。そろそろ四十歳が近づいてきて、良い年こいてまだ独り身の偏屈教師。だがわたしは一つの学校に留まるようなことはしていない。お世辞にもこんな当たり前の教室で、チョークに黒板にスクリーンにと充実した設備で教鞭を取ったことはない。確かに憧れが無かったわけではないが、だからこそこれは夢だ、ブギーマンの術中にはまってしまったのだと分かる。相手の理想を見せるなど、夢を使う攻撃の典型ではないか。偉い人に怒られてしまえ。

「先生」

 夢から目覚めようと顔をぶんぶん振り回すわたしのそばに、一人の少女が駆け寄る。先生、そろそろ授業始まるよ。

 夢の中とはいえ、そう言われるとつい体が動いてしまう。職業病とでも言うのだろうか、どこかで聞いたことのある声に向かって、わたしは言う。

「ああ、ちょっと待ってて――嘘だ」

 嘘だ。

 嘘。

 夢、嘘、分かってる少し黙ってろ。

 わたしは手を伸ばす。少女の頬に触れ、そこに血の気が失せた青白い肌を幻視する。だが少女は健康そのものといった様子で、困惑するわたしにいたずらっぽい笑顔を見せる。

「先生、これ、セクハラだよ?」

 言葉が言葉として耳の中に入ってこない。ただの音。夢の中の教室の、わたしの記憶の中にある『彼女』の居場所が重なる。あの子は、ほとんど病院から出られなかった。だからわたしのような出張教師が出向いた。こんな当たり前の、当たり前の教師と生徒としての出会いはしていない。夢だ夢だ夢だ起きろ起きろ。

 懸命に念じてみても目が覚める気配はない。少女は困った様子で「授業始まるよ」と繰り返す。

「もう、先生は追い詰められないとホントに何もしないんだから」

 ――それも、病室で訊いた言葉だ、あの時君は、たくさんのチューブに繋がれていたじゃあないか。見たことのない薬や点滴を打たれて、虚ろな意識をどうにか保ちながらその言葉を絞り出したんじゃあないか。何で、こんな、今――あ、あああ、


「ボギが見せる夢は、奇跡も魔法も叶うんだ」

《前編・了》

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後編「ベイビー・クライ」

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「そして俺は、俺の弱さを確かめるために闘う!」

                    ―― 『鎧武外伝』

⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯


 ヘリで束の間の遊覧飛行を満喫している最中、イェネルという女性の見た目について、オスコールに訊ねてみた。万が一俺とオスコールが分断され、更には俺が先にイェネルと接触する可能性を考えての質問だ。

 見慣れない中性的な顔を窓の外に向けたまま、彼は答える。

「典型的な陰キャって感じだ。ぼさぼさした髪に黒縁メガネに、あと猫背。ただそれは人間態だった場合だな」
「人間態」
「あいつもわたしと同じ、人間から人外に至った存在だ。その正体は怪物だよ」

 ――普段の骨ではなく、『アゲハ』という人形を介しているせいだろうか。表情のうかがい知れない頭蓋骨とは打って変わって、人の姿をしたオスコールは表情豊かだ。笑う時は歯をむき出して笑うし、困惑した時は大げさなくらい眉間にしわが寄る。

 そして今は目を細め、ぞっとするほどに無機質だ。

 たまにオスコールは変なことを言う。悪いことを考えてバーチャル世界に飛び込んできたとか、あるいはわざわざ小説で自分自身を悪く見せたりとか。そのくせ言葉遣いには気をつけているというのだからちぐはぐだ。良い子ぶりたいのか、悪い子ぶりたいのか。でもアゲハを通してオスコールを観察した時、なんとなくだが、そのちぐはぐさが腑に落ちたような気がした。

 あえて言葉にするのも野暮かと思い、俺は何も言わなかった。バーチャル"バッド"カンパニーは空気の読める良い男なのだ。

 それはさておき、暗がりを抜けた俺は礼拝堂のような空間に出た。ただしベンチタイプの椅子は残らず取り払われ、空間の中心にどかんとテーブルが置かれている。手前に置かれた椅子はテーブルから少し離れ、座れと促しているようにも取れる。そして向かいにも同じく木製の椅子があり、そこに女性の姿を見止める。

 淡い琥珀色の長髪はポニーテールにまとめられ、ぼさぼさとは程遠い清潔感を醸している。背筋もしゃんと伸び、俺の姿を見るやニコリと笑って手を振る。唯一事前に聞いていた情報と合致している黒縁メガネは、その奥でぎらぎらと輝く深緑色の瞳にまるで合っていなかった。よく見ると目元にシワが浮かんでおり、美しいままに歳を重ねた大人の女性といった印象を受ける。

「はぁい、こんネル」

 こんネル、とオウム返しに答えると、女性は「あっちゃあ、滑ったわね」と額を叩く。

「やっぱり初対面は普通に挨拶した方が良かったかしら」
「いや、別にいいけど。Ⅴライバーか何か?」
「昔ちょっとだけ、ね。もう辞めたわ、鳴かず飛ばずでめんどくさくなっちゃった」

 座って。女性に促されるまま、俺は席につく。素直に言うことを聞いたのは、この女性に見るからに敵意が無いからだ。まあ俺はオスコールについてきただけだし、彼女にしても興味の対象ではないのだろう。

「初めまして、バーチャル"バッド"カンパニー。私はイェネル。バーチャル"ハニバル"イェネル」

 バーチャル"バッド"カンパニー。

 バーチャル"ベター"デッダー。

 そして、バーチャル"ハニバル"イェネル。

 偶然にも似たような肩書きを持つ三人が一堂に会したということか。こういうのを運命とでも言うのかね。

「常世 千晶だ」
「ええ、知ってるわよ。なんたってコー君のお気に入りだもの」

 コー君、という聞き慣れないフレーズに眉をひそめると、

「ああ、今は『オスコール』だったわね。ごめんなさい、ニックネームで呼び合うのに慣れちゃってるから――あ、でも『コー』は入ってるんだ。わざとかしら」
「呼び合ってた……、オスコールからは何て呼ばれてたの?」
「ネルちゃん」

 すげー仲良しじゃん!とたまらずツッコミを入れてしまう。見た目も美人だし、この調子だとオスコールと衝突したというのも誇張ではないかと疑いたくなる。

「それにしても」

 イェネルはくすくすと声を抑えて笑う。

「あなたが先に来てくれるとはね、千晶君」
「あー、オスコールに用があるんだよな。なんかすまん」
「いいのよ、私はあなたにも会いたかったんだから。ううん、ホントのことを言うとあなたがメイン。コー君はどうせ『アレ』が私の手に渡らないよう細工してるだろうから、期待するだけ無駄でしょうし」

 イェネルはすっくと立ち上がり、礼拝堂の奥の扉へと向かう。そこを潜ってしばらく経つと、両の手に皿を抱えて戻ってきた。ほんのりと立ち上る湯気を眺めていた俺にウィンクし、器用に持った四枚の内二枚を並べる。

 ハンバーグプレートだ。厚みのあるハンバーグが二つに、ポテトとブロッコリーが添えられている。もう一枚にガーリックライス。ニンニクの匂いが立ち上り、ぐうと腹を鳴らす。

「お腹空いてるでしょ、一緒に食べながらお話でもしましょ」

 自身の皿を抱えたまま、イェネルは自席に戻る。何時の間にやら準備されていたフォークとナイフを握り、いただきますとも言わず食べ始める。一旦は俺もナイフを手に取るがしかし、その奥にうぞうぞと潜む白い芋虫の姿を想像してしまい、食べるに食べられない。

 見かねたイェネルが「別に何も入ってないわよ」と呟く。

「コー君に聞かなかった?私の『子供』達は人間が苦手なの。仮にそのハンバーグの中に入ってるんだとしたら、あなたの存在を感知して我先にと飛び出していたはずよ」
「その言葉を信じろって?」
「信じる、信じないはあなたに任せるわ。でも一口くらい食べてくれたっていいんじゃないかしら、でないと私、悲しくて口をぎゅっと閉じちゃうかも。『あなたにも会いたかった』という言葉の真意を教えないまま、最悪トンズラするかもね」

 目を細め、いやらしく笑みを浮かべるイェネル。単に試されているのか――意を決しハンバーグにナイフを刺し入れる。あふれ出る肉汁、断面はミンチ肉に玉ねぎと、見た感じごく一般的なハンバーグだ。恐る恐る口に運び、咀嚼する。唇が震え、味を楽しむ余裕が無い。ただ分かるのは牛や豚、鳥の類ではないということ。気持ち歯切れが良いというか、食感に独特のクセがある。香草が入っているのか、清涼な空気がすんと鼻を通り抜けた。臭み消しのためとすれば、いわゆるジビエだろうか。

 食ったぞ。そう言って俺はナイフとフォークを置く。イェネルは満足げに頷き、

「いいわ、教えてあげる」

⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯

 知ってるでしょうけれど、今回の一件、事の発端はコー君の小説よ。私はたまたま彼の小説を目にした。なまじ事情を知っている、というか当事者だった私は彼が創作の中に散りばめた情報から芋づる式に彼に起きた全てを把握した。そして私とコー君が争う原因になった『アレ』が、まだ彼の手にあることにも。

 でも、あなたも気づいてるでしょう。

 小説でバレたんじゃない、わざとリークしたの。私を炙り出すためにね。私はあえてその誘いに乗っただけ。全ての首謀者は彼、オスコールよ。

 あなたは完全に巻き込まれ損。だってそうでしょう、今の今まで、あなた自身に関わることなんて何一つ無いんだから。

 ――へへ、嘘つき。何頷いてるのよ。

 常世 千晶。あなただって『アレ』を守るためにコー君についてきたんでしょ?

 正確にはもう一つの『アレ』、というべきかしら。コー君が持っているそれはからくり人形に組み込まれ、もう一つはあなたのよく知る『彼女』の頭にくっついてる――。

 そう、私が欲しいのは『悪魔の角』。たったの一本で世界を変革しうる力。

 誰もがそれを手に入れようとしている。じゃれ合いにかこつけて、あるいは命がけで。

 最初はコー君から奪おうとも考えたけれど、あの人がのこのこ『角』を持って私の前に現れるわけがない。案の定、人外の力を山ほど蓄えて立ちはだかってきた。それも『角』の能力でしょうね。でもその割にはひどく燃費の悪い使い方、その気になれば惑星を丸ごと一つ作り替えるくらいのことは出来るはずなのに。そうやって雑な使い方をしてガラクタ同然に仕立て上げた。あれはもう『人外の能力を使役する』使い方しか出来ないんでしょうね、あくまで推測だけど。

 だからね。代わりに、あなたやコー君がお熱になってるあのバフォメットちゃんから角を奪ってしまおうと考えたの。

 そこで提案。千晶君――あなた、私の側につかない?

⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯

「裏切ってお前の味方になれと」

 自然とイェネルを睨みつけていたようだ。彼女は肩を抱え、「怖いわね」とわざとらしく体を震わせる。

「もちろんタダでとは言わないわ。角を手に入れた後、私は世界を望むままに作り替える。でも支障をきたさない範囲で、あなたの望みも叶えてあげる。お金も、地位も名誉も、可愛い女の子だって思いのまま」
「それは良いな」
「でしょ?でも千晶君、表情と言葉が噛み合ってないわよ」

 そうか、と適当に答える。

 こうして目論見が暴かれた今、敵意を隠す必要もない。イェネルが初めから俺を狙っていたというのなら、俺を通じて『悪魔の角』を手に入れる腹積もりだったというのなら、それはこちらとて同じこと。『悪魔の角』が彼女の手に渡らないために、眼前の敵を叩き潰すために俺はここにいる。

 しかし、今一つ解せないのはその動機だ。世界を作り替える?何のために。金、地位、名誉、あるいは男か。

「全部よ」

 こちらの真意を見透かしてか、イェネルはそう嘯く。私は欲望のままに『全て』が欲しい、と。

 一国の征服、他国の支配。一人の想い人、大勢の憎き者共。ままならない世界をままなるように、我がままに構成し直す。あまりに分かり良く、そして絶対に叶えてはならない邪な願い。

 俺はたまらず笑う。それでよく「あなたの望みも叶えてあげる」などと言えたものだ。

「そこは譲り合いの精神でいきましょ。初めに計画してたのは私なんだから、分け前も多く貰わないと」
「俺のことも好きにさせろ、なんて言われて拒否権が無いんじゃ意味ねぇだろ。却下だ」
「じゃあどうする?殺す?」
「少なくともオスコールはそのつもりらしいな」
「あなたの殺意を聞いてるのよ。大切な人のために、あなたは、罪を背負えるかしら――!」

 イェネルはテーブルを蹴り上げ、その身を隠した。およそあの体格の女性が蹴ったとは思えない勢いでもってテーブルが降りかかる。俺は後ろに下がって回避し、ぱらぱらと降り注ぐガーリックライスの向こう側にイェネルの姿を視認する。

 両手の平を床につけ、四足歩行の生物を思わせる態勢のままイェネルは動かない。急に顔を上げたかと思いきや、深緑色の瞳は濁った白色に塗り潰されている。全身をぶるぶると震わせ、ひび割れた皮膚から緑色の体液が滲み出していた。

 この手の変化は人外に代わるプロセスだな。そう直感した俺は迷わずイェネルを燃やした。オスコールから預かったパーカー(名前は長ったらしいから忘れたが)の能力で蒼炎を散らし、ジェットエンジンを思わせる勢いで灰にしようとする。

 ――ハナから覚悟なんて決まっている。黒炭と化したイェネルを見下ろしつつ、彼女の体が腰からへし折れたところで火を止める。燻る焼死体を前に、それでも冷静でいられる自分に少しほっとする。

 悪い奴だ、俺もお前も。お前は悪い奴だから、殺めたところで罪悪感も薄い。俺は悪い奴だから、殺めたことへの罪悪感が薄い。薄々味で良い感じだ。

 身を翻し、礼拝堂を出ようとする。はぐれたオスコールはどうしているだろうか。黙ってイェネルを始末してしまったこと、どう説明したものか。悶々と考えに耽っていたその時、

「へへ」

 背後から聞こえた笑い声にびくんと体が反応し、振り向きながら距離を取る。真っ黒に焦げたイェネルの上半身が躍動し、焦げついた皮膚が捲れていく。露わになった白いぶよぶよの肉はたちまち潤いを失い、程好い硬さに引き締まる。赤子の皮膚が大人のそれに移り変わっていく様子を倍速で見ているようだ。大きさも本来の姿を上回り、三、いや四メートルはある肉塊へと変わっていった。手も足も、顔の輪郭も覚束ない。それでも声だけは変わらず、どこからともかく聞こえてくる。

「その思い切りの良さ、嫌いじゃないわよ。変に情をかけられるより余程ステキ」
「もう一回焼いてやろうか」
「なぁに、私の肉で作ったハンバーグがそんなに気に入ったの?」

 はあ、と声とも息とも分からないものが口から飛び出る。ワタシノニクデツクッタハンバーグ、何を言ってるんだこいつは。

 一瞬、白い肉玉の表面にイェネルの顔が浮かぶ。衝撃の事実を突きつけられ、慄く俺をあざ笑っていた。

「私最初に名乗ったはずだけど……、『人喰い(ハニバル)』イェネルだって。正確には『人喰われ』だけどね」

 すぐさま俺は人差し指と中指を口に突っ込み、舌をかき分け喉の奥を刺激する。吐き気を起こそうと指を動かすが、うまく出てきてくれない。今だけは乗り物酔いでおぐおぐ言ってたオスコールが心底羨ましい。

 失礼しちゃうわ、とイェネルは憤慨する。別に私の肉を食べたって何も起きないわよ。

「そういうフェチ、と言えば分かってくれるかしら。人外になった後、つまりは即時再生する不死身の肉体を手に入れた後、急に自分の肉を食べたくなったのよ。何故って……、何でかしらね、分かんない。ひょっとしたらリストカットの延長線なのかも。そうなるからそうなる、そうだからそうする。食べたいから食べる。ついでに振舞う。ちょっとクセがあったけど、美味しかったでしょ。うまく調理するのにだいぶこの体を捌いたわねぇ」

 淡々と続けるイェネルの体はその冷静さとは反対にぼこぼこと音を立てて膨らむ。丸くなったかと思えば上に向かって飛び出した一点が礼拝堂の天井を突き破り、瓦礫と日差しを連れて俺の方へと降りてくる。
先端に空いた三つの穴。並んで二つ、その下に一つ。下の穴から覗く大量の牙は、何か食わせろと歯ぎしりで催促している。

 首は長く、顔と思しき三つの穴、身体は太った芋虫そのもの、それでいて全高は既に二十メートルを超えている。

 これが、ヒトを捨てたイェネルの現在の姿にして正体――竜(ワーム)か。

⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯

「ねぇ、起きて」

 瓦礫の向こう側からイェネルの声がする。咳き込むと口の中に入ってきた砂埃も一緒になって飛び出る。血も少し、混じってるか。

 身体にのしかかるコンクリートの破片をかき分け、震える膝を押さえ立ち上がる。怖いのではない、何度も何度も壁や天井に叩きつけられて体が参っているのだ。

 ぶん、と風を切って襲い来る触手。イェネルの体から伸びたそれを拳で受け止める。鍛えた筋力にパーカーの能力も相まってパワーこそ互角に張り合えるが、衝撃を受けた触手は途端に枝分かれし、全身を叩く。顔も、手も、腹も、背中も、足も、すっかり青痣だらけだ。上に着ていたコートは早々に脱いで礼拝堂の隅に置いてきたが、どうやら正解だったらしい。パーカーはズタズタに裂け、ちょっと長めの涎かけのような有り様と化していた。その下に着ていた服も盛大に破けており、服を着ているのか布を巻きつけているのか自分でも分からない。

 俺は血で滑る拳を握り直し、目の前の怪物をねめつける。こうも一方的だと流石に気力が持たないか――苛つきこそするが、舐めプで手を抜かれるよりはマシかとも考える。

 イェネルの方はと言えば、余裕綽々といった様子で肢体を揺らしている。炭になるまで焼き焦がしても元通りに治癒する再生能力、はっきり言って打つ手が無かった。HPゲージでも見えていれば、この怪物相手に効いているかも怪しい俺の攻撃にも少しは希望を持てたというのに――見た感じ、人間性を捧げてるのは彼女の方だが。

「ああ、くそっ」

 こめかみを叩き、己を鼓舞する。足裏から火炎を噴射し、一気にイェネルへと近づく。

 しかしこちらの動きを読んでいたのか、全身から生えた細く鋭利な触手が残らず俺へと向けられている。置いておけば勝手に相手から飛び込んできてくれるってか――空中で火花を散らし、身体を強引に捩じり、足をピンと伸ばす。火力にものを言わせた後ろ回し蹴りは触手を払いのけ、合わせてイェネルの身体も揺らがせた。

 やはり、パワーでは負けていない。ただ決定打に欠けている。すぐさまイェネルの反撃に遭い、丸太より太い触手で天井に打ちつけられながら「こういう時に『異能』でもあれば違ったのかね」と心の中で愚痴る。体が重力に引っ張られ、今度は床に激突する。痛い。

「――大変なんだよなぁ、人間はよ」

 全身に走る激痛、零れる血。肋骨がイったか、なんて格好良い台詞の一つも吐いてみたいが、今自分の体がどうなっているのかよく分からん。

 愚痴にも似た言葉が、口をついて出る。生まれたての小鹿よろしく足を震わせながらもやっとのことで立ち上がり、

「死んでも蘇るとか、人外の能力が使えるとか、中枢神経を乗っ取るとか、無限に体が再生するとか、こちとらそんな狡すからい能力持っちゃいねーんだよ。この『炎』だって借りものだ、火力も覚束ない」
「あなたも人外になれば?楽しいわよ、人間が持ちえない他を圧倒する力を振るえるのは」

 俺は、嗤う。

「人外の力なんて要らねぇ、俺はただ自分の力で圧倒する」

 お前を、俺に立ち塞がる全てを。

 常世 千晶として、一人の人間として――シンプルに叩きのめす。

「威勢は結構なことだけれどね、満身創痍って言葉知ってる?もう諦めて私の計画に乗りなさいよ!常世 千晶!」

 突き出された触手を避けようとするが、痛みで体勢が崩れ顔面に直撃する。視界が七色七つに分かれ、気がついたら空を見上げていた。イェネルが屋根をぶち壊してくれたおかげで、澄んだ青空が一望できる。

 ――駄目か。うん、強いわ。参ったな、もうすぐ誕生日なんだが。その前に死ぬな、これ。

 他人事のようにそう思い、いよいよピクリともしなくなった手を、足を見やる。よく頑張ったと褒めてやりたいところだが、勝てたらもっと褒めてやれた。だからもっと頑張れ。

 上体だけでも起こそうと首を持ち上げ、そして鼻先に突きつけられた触手に気づく。刃物の如く尖った先端が頬を撫でる。

「これが最後の提案。断れば、命は無い」
「いいのか、俺を殺したら『角』は手に入らないかもしれない」
「――何か、勘違いしてるみたいね」

 ポン、と音を立て礼拝堂に現れたのは、四角形のホログラム。続けて二個、三個とホログラムが増え、そこにある光景を映し出す。

 見知った後ろ姿だ。深紅の長髪に、何故かメイド服を着ているその人物と相対するのは一つ目の巨人。顔の面積のほとんどを占めている巨大な眼球からは、すっかり見慣れた白い触手が生えている。

 他にも、俺の知る人物達とその前に立ちふさがるイェネルの支配下にある人外達がホログラムに映り出されている。これがリアルタイムでの光景だとするのなら――。

「戦争よ」

 イェネルは素っ気なく言う。

「いつまでもこの揚繭島に引きこもってると思った?既に私の『子供』達は『角』の持ち主と、その関係者を襲撃している。誰一人として生かすつもりはないけど、あなたは個人的に気に入っちゃった。イケメンだし。だから殺したくない、ただのそれだけ」
「お前の、思い通りに?」
「そ、私の思い通りに」

 本当に、勝手な女だ。オスコールの友人だなんて言うからどんなものかと思えば、昔のこととはいえよくもまぁこんな悪女と交流を持っていたものだと感心し、ほとほと呆れ果てる。見る目が無さ過ぎだ。

 俺は立ち上がる。無駄話のおかげでいくらか休めた。まだ闘える、まだ舞える。

 イェネルは流石にうんざりした様子で言い放つ。

「状況分かってる?あなたでは私に勝てないの、仮に優位に立ったって私を消すことは出来ない!」
「うっせぇな、来いよ」

 啖呵を切ってみせたが、これが正真正銘最期になりそうだ。見栄張って二人だけで来るんじゃなかったな、誰かこっそり呼べば良かった。まぁ、いいか。

 駆けだそうとしたその時――足元に立ち込める水色の靄に気がついた。日光すら降り注いでいた今の礼拝堂は暗闇に飲まれ、目の前にいるイェネルの姿すらぼやけて曖昧になっている。

「何、何が起きてるの!?」

 イェネルの悲鳴とほぼ同時に、ホログラムの映像が切り替わった。その全てに一様に映し出された目、目、目。金色の眼光は揃って俺に注がれる。その正体に気づいた怪物は絶叫する――この悪魔、と。

 きぃいいいいいん、と脳の奥底まで響き渡る音が鳴り響いた後、靄は晴れ、礼拝堂は元の明るさを取り戻していた。謎の目はホログラムごと消え去り――合わせて俺の傷も消えていた。

 身体の内外を問わずその一切が完治し、何故かお腹の調子も良い。常世 千晶完全復活だ。

 ありがとな、と誰に言うでもなく独り言ちる。目の前で起きたことが理解できないのか、イェネルは口と思しき穴をぱくぱくと動かしている。俺が一歩前に踏み出すと、彼女が一歩下がる。気迫という観点では、俺は最初から負けていない。とはいえズルをしたような気分が拭えないので、自己申告することにした。

「コンティニューだ」

⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯

 これは夢だ。分かっている、でも覚めたくはなかった。

 だから、夢に溺れることにした。

「先生」

 わたしはにこやかに微笑み、「どうした」と振り向く。『彼女』もまたとびきりの笑顔で言った。

「いい加減起きて。取り返しがつかなくなるよ。」

 きぃいいいいいん。頭蓋の奥底で音が反響し、わたしは正気を取り戻す。だが、それでも振り切れない。最初から分かっている、正気なのだ。これはブギーマンの見せる夢。『彼女』はもう――。

 『彼女』の顔を見つめる。あどけない顔立ち、大きなおでこ、ほんのり紅色のほっぺ。健康そのものだ。夢の中で何日過ごしたかは忘れたが、給食の時間になると年相応の食欲を見せる『彼女』を、わたしは涙をこらえ見守った。

 もっと見つめる。そうして目に焼きつけたなら、何かが振り切れるはずだと。サラサラの髪、大きな金色の目、砂にまみれた手、擦り切れた膝小僧。

「え、金色?」

 わたしはもう一度、その大きな瞳を見つめる。金色、いや黄色――こんな色だったか。いや違う、この目は確か。

 気づいた途端、世界が暗転する。『彼女』のものだと思っていた目だけが暗闇の中でいつまでも、わたしを見つめていた。

⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯

 拷問部屋だ、と思った。一面コンクリートの薄暗い空間に、大小様々な金属片でごてごてにコーティングされた謎の機材、ご丁寧にアイアンメイデンまである。分かりやすいことこの上ない。

 目の前には特大の鏡が置かれ、わたしの現状を見せつけられる。手足はもがれ、断面に括りつけられた鎖はそのまま部屋の各所に繋がっている。左顔面は砕かれ、マゼンタ色の本体が露わになっていた。着物も脱がされ、色々とあられもない姿を晒している。胴体と腰、角含む右顔面だけは無事のようだが、それ以外はひどい有り様だ。

 鏡の裏で鉈を研いでいたのだろうか、磨き上げられたそれを持ち上げながら現れたブギーマンはわたしを見るや「ぶぎゃあ!」と汚らしい悲鳴を上げた。飛び跳ねた拍子に落とした鉈が床を滑る。

「なんでぇ、なんでボギの夢が破られてるの?」
「夢に関する攻撃を受けた時は、夢の中で自分の首を斬ればいいんだ、知ってたか」

 何言ってんだよぉ、とブギーマンは喚き散らす。もちろんわたしが夢の中で首を切ったわけでも、自力で目覚めたわけでもないのは分かっていた。今回の件が済んだら礼を言いに行くとしよう。

 状況は最悪だ。囚われの姫だなんて柄でもないだろうに、手足をもがれて拘束されているときた。千晶はどうしているだろう――イェネルに出くわしたか。なるべく事を荒立てずにいてほしいが、イェネルはイェネルでけっこう喧嘩っ早い所がある。最悪の事態に陥る前に、多少の無茶は承知でこの状況を打開するとしよう。

 『角』に意識を向ける。あれこれ細工したのが功を奏したようで、一切手つかずのままだ。ブギーマンもわたしの動きに気づき、更に声を張り上げる。

「その姿で悪魔の角に頼ったって無駄だよぅ!角はともかく、君の手足の断面には既にママの『子供』が大量に入り込んでる!人外だったのが仇になったね」
「手足。まぁそうだよな、何かするなら手足だな」

 出来ればこれはしたくなかったな、とため息をつく。人間をやめたわたしといえど倫理観を捨てたわけではないし、正直人道に反する能力だ。それでも使うならイェネル相手にだろうが、そうも言っていられない。わたしは角がミシミシと軋むのを確認し、下腹部に意識を集中した。

「――エキィドナ」

 丸三つの簡単な顔の作りをしたブギーマンの表情が見る見る変わっていく。怪訝な顔から、恐怖の顔へ。目の前で起きた変化を受け入れられないと、大きく首を振る。

「いいい意味わかんないぃ、何でそんなことしてるの」

 下腹部の違和感に少し恥じらいながら、わたしは言ってやった。

「生贄だよ」

 角にありったけの力を籠める。能力を発動する度にミシミシと音を立てていた角は今や空間を揺らすほどのすさまじい騒音を発し――遂には砕けた。粉微塵と化した角はわざと見せつけるようにブギーマンの眼前を吹き通り、溶けていく。ブギーマンは必死に両手でかき集めようとするが、空を掴むばかりだった。

「『悪魔の角』を破壊したなぁ!ママの大切な宝物をよく――もぉ?」

 ブギーマンの怒声は途端に勢いを失くす。それもそうだ、拷問部屋にいたはずの我々はいつのまにか一面真っ暗闇の世界に立ち、頭上にある大きな三つの頭に睨まれていたのだから。

 犬、グリフォン、人間。三つの顔はわたしとブギーマンを交互に見つめ、そっと頷く。中央のグリフォンは右の巻き角が欠けていたが、徐々に再生していく。

 わたし達は昆虫か何かで、虫かごに入ったわたし達を三つの首が観察している。そんな風に言えば分かりやすいだろうか。ブギーマンは恐れおののき、ただ震えることしか出来ずにいる。

 グリフォンの顔が、声を発する。わたしはそれに答える。

「コワウヰロテツ」「チソ」

 犬の顔が、声を発する。わたしは下を向く。

「コスルヰロテツ」「イヴル」

 人間の顔が、声を発する。わたしはブギーマンを見る。

「コ イヰロテツ」「ヤキ」

 顔はそれぞれ口を開ける。そのまま何もない空間を噛み――そして断末魔が響き渡った。

 人間の顔をよく見ると、わたしの前にいたはずのブギーマンの手が唇から零れていた。人間の顔はそれを舌でぺろりと舐めとり、虚空に消えた。犬の顔もぼりぼりと美味しそうに咀嚼を続けながら消滅する。

 わたしは下腹部の圧迫感が消えたのを確認し、残ったグリフォンの顔を見つめた。厳めしい角にたくましく艶やかなくちばし、ただならぬ悪魔の威厳に嫌でも萎縮してしまう。

 グリフォンはわたしの手足に繋がれた鎖を噛みちぎり、溢れたイェネルの『子供』を舐めとっていく。そこまでしてくれとは頼んでいないのだが、何にもありつけず腹が減っていたのだろうか、鎖まで食べている始末だ。

 ――勝手に取り合ったり、使ったりして申し訳ない。そう思い、その大きなくちばしを撫でる。そこでわたしは両手足が再生していることに気づいた。もう人外の能力は使えないが、動ける手足があるのはありがたい。これで千晶を探せる。

 グリフォンはわたしの手を払いのけると、

「 オソロエヰヌテフオヲチヲ」

そう言い残し、消えた。

⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯

 数十本の触手が一直線に向かってくるが、俺はそれらを全て捌き、距離を詰める。肘で打ち、裏拳をかまし、掌底を喰らわせる。力は互角で、手数も互角になった。ようやく楽しくなってきたじゃねぇか、そう言って顔の汗を拭う。

 イェネルは突然の回復と猛攻に焦っているのか、触手の精度が落ちていた。威力も最初程ではない、十分押し返せる。

「何でよ、何で私が押されてるのよ!」

 四方から飛び交う触手を掴んでは引きちぎり、時には躱し、力任せに床へと叩きつける。その度に火が体の各所で燃え上がる。俺は羽織っていたパーカーを腰に巻き、露わになった上半身に直接火を纏っていた。

 熱で筋肉を温め、血の巡りを加速させる。数にものを言わせた触手攻撃に対し、小さな火玉を手足のあちこちに配置する。攻撃が来る、と脳で認識した瞬間に動かすのは体ではない、その火玉だ。火玉で皮膚を焼き、反射で動かす。思考の下に反射を制御し、驚異的とも言えるスピードを実現した後は、ただただ力いっぱいぶん殴る。蹴る。投げる。

 長期戦は考えない。このまま続ければ先に出来上がるのは俺の丸焼きだ、自分で自分を焼いてくたばりましたなんて笑い話にもならないのだから。

「世界ってのは一人が勝手に作り替えるもんじゃねぇだろ。一人一人が、自分の世界を生きるんだ。他人の世界を変える権利なんて、誰にもない」

「私は、私以外の全てを思いのままにするの――どいつもこいつも肥やし!栄養!寄生されるだけありがたいと思いなさい!私が幸せだったらそれでいいのよ!そのためだったら、他人なんてクソくらえよ!」

「お前に俺の世界はやらない。誰がくれてやるか」

 だん、と床を踏みつける。一気に火炎を迸らせ、あちこちから火柱があがる。イェネルの姿勢が崩れた瞬間を見逃さず、床を踏んだ勢いで跳躍する。
天井があった場所を超え、空高く舞い上がる。太陽を背負い、右足をぐっと上に上げる。

 イェネルは顔を伸ばし、牙を剥きだしに飛び掛かる。ちょうどよく伸びた顔面目掛け、俺は踵を振り下ろした。

 空そのものが爆裂したかの如き衝撃は礼拝堂を、風雲人外魔城を滅茶苦茶に破壊する。土埃すさぶ中地上に降りた俺は、ぐったりと横たわって動かなくなった竜を見下ろす。

「千晶!」

 声がした方を振り向くと、オスコールの姿があった。右の巻き角があった場所にはぽっかりと穴が空いており、いつもの球体が見て取れる。負傷らしい負傷は見当たらないが、何故か服を着ていない。着物はどうした。

 目のやり場に困っていると、オスコールがイェネルの存在に気づく。時折うめきはするが動けない怪物に、いつか見せた無機質な眼差しを向ける。

「終わりだ、イェネル――いや、ネルちゃん。もう『角』のことは諦めろ」

 普通に、自分の世界を生きろ。オスコールはそう言って、俺の方を見た。どうやら聞かれていたようだ。

「殺さなくていいなら、わたしだってそうするさ」

 イェネルは押し黙ったまま、たまに体を震わせる。どくん、どくんと大きく脈打つ音。

「へへ」

 乾いた笑い声。眼前の人外はこれだけ追い詰められてもなお、不敵な笑い声を上げる。脈は段々と速さを増していく。それはまるで何かが迫っているかのような、何かのカウントダウンであるかのような。

 例えば、爆弾とか。

「どっかぁああああああああああああああああん!」

⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯

 魔城は跡形もなく吹き飛び、周囲の木々も城を中心になぎ倒されている。意識を取り戻した俺は周囲を見下ろし、絶句した。

 あの体積で自爆されればこういう風にもなるのだろうか。今、島を見下ろしたら綺麗な円形の更地が見えることだろう。幸い俺は土に塗れただけで済んだが、

「おふ」

 足元に転がるマゼンタ色の球体は既に消えかかっている。仄かに点滅を繰り返し、何とも言えないため息を漏らした。

「千晶、『アゲハ』はどうなった」
「欠片一つ見当たらない。パーカーも消し飛んだわ」

 マジかぁ、と落胆するオスコール。この丸のどこから声が出ているのだろう。

「わたしもうすぐ死んで館にリスポーンするから、すぐ迎えに戻ってくるよ」
「ヘリ吹っ飛んだしな」
「――付き合わせて悪かったな」
「盟友だろ、気にすんな」

 そうだな。悪友で、盟友だ。

 オスコールはそう言い残し、消滅した。一見すると感動的なシーンではあるが、生き返ると分かっている手前、あまり締まらない。

 イェネルは自爆し、オスコールはそれを見届けた。これでひとまずはハッピーエンドだ。彼にとっては友人との悲しい別れだろうが、それは最初から分かっていたことだ。だからオスコールの物語はハッピーエンドだと、この俺が断言する。

 そしてここからは、常世 千晶の物語だ。

 城が建っていた場所を見やる。積もった瓦礫がピラミッド型の雑な城を形成するがしかし、それも地中より現れた竜によって崩壊する。今や四、五十メートルはあろうモンスターは快哉を叫ぶ。

「へへへへへへ!まだよ、まだ終わりじゃなぁい!」

 どこかで聞いたことある台詞だな、と冷静に呟き、俺はズボンのポケットをまさぐる。指先に触れた機械を取り出し、ドクロマークが描かれたボタンを押し込むと、空を見上げた。

 雲一つない青空。それなのに、何故か薄気味悪い。イェネルもそれに気づいたのか、その長い首をもたげ、天を仰いだ。

「俺は、最初からお前に気づいてた。お前が『角』を狙って暗躍し始めた時からな。それがたまたまオスコールの因縁とも絡んで、今回の形に落ち着いたってわけ。起動までの時間稼ぎにはちょうど良かったけど」

 大気が揺れる。木の葉が舞い、イェネルの支配を逃れた人外達の屍が独りでに浮き始める。イェネルは動揺の余り、空から勢いよく降り注いだそれを目撃することが出来なかった。

 真っ白な光線はさながら天国から伸びるように、イェネルという名の化け物をあの世に連れていこうとする。無敵にも思えた再生能力はほとんど効果を発揮することなく、彼女の肉体を今度こそ完全に葬り去ろうとする。

「本人は宇宙にいるし、俺が代わりに言っとくか――『ガンマ線バーストビーム』」

 一瞬、瞬きをした時にはもう怪物の姿は無かった。

⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯

 独りぽつんと消波ブロックに座り、海を眺める。夕陽で俺の身体も真っ赤に照らされる、と言いたいが実際に火傷で真っ赤なので大して変化はない。

 迎えはまだか、すげー暇だな。独り言を口にしてみるが、寂しさは紛れない。ただし、水面にぼんやりと深紅のシルエットが浮かび、

「常世くん」

 いつから虹色に光るようになったのだろう。クラゲを思わせる七色の怪しい光を纏い、ヒトの姿をかけ離れたシルエットは海の中から俺の名前を呼ぶ。

「おお、来てたんだ」
「うん。常世くんとおすこーるさんが脱出したらこの島沈めるように言われてるから」

 え、と間抜けな声が出る。

「常世くんとその他の何人かが内緒で動いてたのは知ってる。それにおすこーるさんが絡んだことも、僕達が本土で襲撃に遭うのも分かってた」
「大丈夫だった?」
「楽勝」

 やるじゃん、と賞賛と拍手を贈るが、よくよく考えると戦闘力の高さが伺える。これが真の姿か。

「○○○は全部分かってたってことか」
「多分ね。それじゃ、僕準備があるから」

 ちゃぷん、と水が跳ねる。紅いシルエットは既にない。

「――――」

 俺は、俺の思惑で動いたつもりでいた。

 オスコールもそうだ。あいつにはあいつの目論見があった。

 イェネルもそうだった。誰も彼もが、自分だけは状況が全て見えているつもりで、その中で事態を思い通りにしようと奮闘していたのだ。

 ――船が見える。骨の手を懸命に振るオスコールに手を上げて答え、腰を上げる。

 今回の一件。誰が、誰の手のひらの上にいたのだろう。

《後編・了》

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備考:『Virtual Bad Company』常世 千晶に捧げます。ハッピーバースデー!

(作:オスコール_20210120)

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