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ルージュは魔法使い


「貴女達に、女性としての身だしなみについて言っておきたい事があるのよ。

それはね、
口紅はどんな時でも欠かさずにつける事。
口紅をつけると、どんなに疲れている時でも元気に見えるからね。

私もそうしてるのよ」


1981年。

右を見ても左を見ても…
聖子ちゃんカットが一斉を風靡していた頃だった。
私は、故郷の女子短大保育科に通う2年生。

カソリック系のその学校には付属幼稚園があり、そこでの幼稚園実習が始まったのは、確か5月の初めだったと記憶している。


1日目がやっと終わりほっとしていると、私達の指導を担当してくれている百合組の先生が現れ、今日の反省事項を話し始めた。

「やれやれまだ続くんだ」

と、うんざりしていると、彼女は急に柔らかな表情になり、この思いがけないアドバイスで実習初日を締め括った。


今振り返れば彼女は未だ若く、30代だった筈だが、19歳の私からはとても老たけて見えた。

落ち着いた人柄に低い声。
色を抑えた控えめな装いの先生から、口紅の話題が出るとは…

とても意外な気がしたが、その言葉に誘導され、それまでは意識もしなかった先生の唇に目を遣ると、自然なピンクが挿してある。


それに反して私はと言うと、
すっぴんの上に、実習の疲れが目に見えて現れているに違いない。

白く乾いた唇で、更にやつれた表情に見えている事だろう。

「あゝなんで今日に限って」


日頃はメイクを欠かさずするのに、実習では派手にならないようにと思い、あえてメイクをしてこなかったのだ。


私はメイクがとても好きな女の子だった。

その頃は、季節毎に化粧品会社の華やかなTVコマーシャルが流れ、テーマソングが大ヒットした時代である。


それに便乗したメイクをしていた私は、保育科の学生にはとうてい見えず、
「美容部員さんですか?」
と、聞かれる事もよくあった。

地味な生徒を好む校風の中では、異端児だったように思う。

だからこそ幼稚園実習は、
「地味にせねば」
と、意識してすっぴんを心がけたのだけれど。

そんな中で聞いた先生の言葉が嬉しく、胸の中に花が開いたような気持ちになった。

以後は、華美にならないように気をつけながらも、実習の日は、特に丁寧に口紅を引いた事を思い出す。


あれから43年。
人生の中で幾たび口紅をひいて来た事か。

しかし、あの時の先生の教えを守っていたのは束の間だったように思う。


面倒くさがりの私は、自宅ではすっぴんで過ごす事が多く、
「どんな時も口紅をつける」
習慣とは程遠い。


4年前に始まったコロナ禍はそれに輪をかけ、口紅をつける機会が少なくなっていたのだが、つい最近、その意識を変える出来事があった。

私は毎年、4月5月に調子を崩す事が多い。
占いの世界で殺界と呼ぶ、予想外のトラブルに出くわす月周りが、私の場合は4月5月にあたるのだ。


自然のサイクルがデトックスしてるのだと思う事にしているが、なんとも鬱陶しいものだ。

昨年は4月に足の小指を骨折し完治に長くかかった。


そんな訳で、ヒヤヒヤしながらも今年の4月は無事に過ぎ、ほっとした矢先、老人ホームに入居している父が人間関係のトラブルを起こしてしまった。

「やっぱり殺界だわ」

私はあたふたとその対処に追い回され、父への苛立ちと情けなさで心が摩耗して行くばかり。


日毎に鬱っぽさが増してゆくので、何とか気分転換をと思いデパートに出掛けた。

欲しかった靴を買い気分が揚がって来ると、私は何故か、口紅を買いたくなりウズウズしてしまうのだ。


これは、私の心が求める気分転換の方法で、今までに何度も繰り返して来た事だ。

ショッピングの最後に、シャネルのカウンターへgo!


シャネルの黒白のロゴを見ると益々心が弾み、お澄まし声で美容部員さんにシックな色をリクエストすると、3色選んでくれたのだが、つけてみると白浮きしてまるで病人である。

「もしかしたら、もっとはっきりした色の方がお似合いかもしれませんね」

彼女が私に勧めてくれたのは、明るい「オレンジ」だった。

「私のパーソナルカラーはブルーベースだから、ローズが似合うの。
オレンジは似合わないはずなんだけど…
でも、折角だからトライしてみるわ」


恐る恐るオレンジを試してみると、鏡には知らない女が写ってる。


美容部員さんは、
「お似合いですよ」
と言ってくれるが、私自身は
似合っているかどうか分からず困惑した。

けれど、シャネルで口紅を4本も試して1本も買わずに、立ち去る勇気も持ち合わせていない。

無駄買いかもしれないと思いながら、泣く泣く会計を済ませた。


いつも口紅を買うとウキウキしながら帰路に着くが、この日は気分が冴えない。

帰り道、駅のトイレに入り、恐る恐る大きな鏡に写る自分の顔を見た。

「まぁ!私、元気に見えるわ。
顔がぱあっと明るく輝いてる。
鏡に向かってウインクしたいくらいだわ」


急いで口紅の包装を破り、クッキリと口紅を引き直した。


年若き美容部員さんの審美眼に脱帽の私であった。


翌日からは、オレンジをつけたいばかりにメイクする日が増えていった。

メイクの最後に口紅をひくと、憂い顔にたちまち活力が加わり、くよくよマイナス思考が吹き飛んで行った。

5月の末には父の問題が解決に向かい、私の心労もやれやれ、一山越した。


口紅には、人の心を照らす力があるのだと気付き、その力に助けられた今年の殺界月。

そこでふと頭を過ったのは、遥か40年前に、幼稚園実習で聞いた百合組の先生の言葉である。

20歳の頃には気づきもしなかったが、幼稚園の先生はさぞ気苦労の多い職業だろうと察する。

いつも明るい表情で子供達に接する事が必須だが、先生も生身の人間である。
口紅の力を借り、モチベーションを揚げる日があったのかもしれない。


しかし、若い時はすっぴんでいても可愛いのが最大の特権だ。

より口紅の効果が必要なのは、熟年の私達世代ではないだろうか。


先日観たハリウッド映画の主演女優は70代だろうか。


彼女は、痴呆症になり老人ホームに入居しているが、いつも綺麗にメイクをし、真紅の口紅をくっきりとひいている。

あくまでも映画の中の話しだが、主人公は長い人生の日々を、常に身だしなみを整え美しく装って来たのだろう。
その習慣が身についている。

その姿がとても美しく、こうありたいものだと強い憧れを抱いた私である。


面倒くさがり屋の私には、なかなか高いハードルであるが努力してみよう。


シミや皺が加わり、老いを重ね行く顔をチャーミングに輝かせ、心にまで光を届けてくれる口紅。 


老親を見ていて思うが、シニア世代の現実は思いの他厳しい。
老化、病気、死別など、穏やかとは言いがたい日々が待ち受けている。
だからこそ、口紅の助けを借りて明るい顔で過ごしたいものだ。


百合組の先生の教えは、やっと私の心に届いた。
40年もかかったけれど、今が
ジャストタイミングだろう。


さぁ!
オレンジの口紅をひいて  
今日もにっこり笑って!

是非、貴女もそうしてね。



   もうすぐ63歳
     誕生日に寄せて

















































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