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「美しい」ということば

小学校の時に恩師から国語の授業で、「美しい」という言葉を使わずに美しさを表現しなさいと言う課題を出されたことを今でも覚えている。覚えているだけではない。この小さな課題が、いつの間にか生涯に渡って私の課題となった。なぜかと言えば、それが自分の持ちうるすべての創造性に働きかける作業だと分かったからである。これほどまでにスリリングな挑戦があるだろうか?

その時の授業から今に至るまで、文章を書くときに「美しい」と言う言葉を安易に使うことに対して、いささか大げさなまでの罪悪感を覚えてきた。でもそれはこの授業を境に、幼いながらも自分の中に「美」に対する畏敬の念と、何の活動を通じてかは知らないが、その事がやがて自分にとって人生を左右するほどに大切なものになるだろうという確信が生まれたからだと思っている。

例えば美は視覚だけでなく音であったり匂いであったり、時にはプルーストのマドレーヌのように味が呼び起こす記憶を通して、私たちはあらゆる現象の中に美を見出すことができる。 だからこそ人によって美の基準が大きく異なるという面白さもある。美はきっぱりと個人的なもので、「これが美です」と誰かに押し付けられるものではない。美は極めて複雑・怪奇だ。感じたことを正確に表現しようとすれば、それはすぐに身をかわしてまた別のものに姿を変えてしまうだろう。

美は視覚的表面のみに留まる事は稀で、咲き誇った、あるいは咲き始めの薔薇は視覚的に誰が見ても美しいが、枯れた薔薇も私たちがそこに意味を持たせることで美しくなる。また、美しい容姿を持つ人が醜い行動をとってもまだ美しいとすれば、それは美しい容姿という視覚的価値があるだけで、五感を通して訴えかける美ではないのである。はたして私たちの感じる美はモラルの影響まで受けているのだろうか?

高校生くらいの時、私はルキーノ・ヴィスコンティの映画の中に絶対的な美を見出したのだがそれはもっと後になって、単に貴族の屋敷の調度品や主人公のコスチュームが華麗だからというのではなく、人生と言うゲームを勝ち続けてきたかに見える人々がその風向きの変化に怯えたり、絶望的な気持ちで彷徨わせる視線や、絢爛たるディナーの席で恋の情熱を隠している主人公の手が、バカラのグラスと交差した瞬間に予期していない形で美が姿を現したりするのであることが分かった。

音楽に例えるなら「美しい音楽」というものがそこに存在するのではなく、聴く者の心に反射した姿こそが美しいのだと私は思う。それと同じ意味において美しい言葉で書かれた文章もまた、人の心に何らかの痕跡を残さなければ単なる美しいことばの羅列となってしまう。

それにしても芸術家は本当にゼロから創作するのだろうか? 私はある作家が言った言葉を心から信じている。

「私たちが文章を作り出すなんてとんでもない。書かれるべき文章は既に完全な形でそこにある。ただ私たちに見つけ出される瞬間を息をひそめて待っているだけだ」と。それと同様に未来に演奏されるべき音も、彫られるべき彫刻も、宇宙のどこかにすでに存在していて、芸術家たちに発見される日を静かに待ち望んでいるのかもしれない。

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