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ミラノ回想録

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毎朝ウィーンのパン屋さんで [ヴィーナー•キプフェル(ウィーン風クロワッサン)ひとつ下さい!]と言っていた学生の私が、ミラノというもう一つのヨーロッパの都会から仕事人生をスタート…
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給料はどこへ?シューマンを弾いて忘れよう

私たちの仕事はどんどん忙しくなっていった。今週はパリからナタリー・シュトゥッツマンがマタイ受難曲を歌うためにやって来て、来週からはあのドミンゴとのレコーディングだ、というふうに休む暇もなかった。個人的には、イタリアの現代音楽の作曲家として有名なルチアーノ・べリオ本人がふらっとやって来て、自身の70年代の名作の数々を指揮したリハーサルの高揚感を今も忘れることができないほどだ。ただそんな表向きの華々しさとは真逆に、オーケストラのメンバーの給料がひと月も遅れるようになっていた。そし

ステファノの死

オーボエ奏者のステファノが死んだと私達が知らされたのは、風が少しだけ夏の匂いを含んだ5月の夜だった。その夜私達は定期演奏会でヴェルディのレクイエムを演奏する予定だった。 私が会場に近づくと、エンリコが道端に佇んで迷子のような顔でこちらを見ている。私を見るなり彼は子供のように泣きじゃくりながら [ステファノが死んじゃった] と言う。 あまりに突然の事で私は返す言葉もなかった。 え?死んだ?何故。。。「死」という言葉が、そこだけ物語のようだった。    楽屋に足を踏み入れるとそこ

ヴェネツィア~日常という幻想

2月末のヴェネツィアは、まだまだ春には遠い寒さだったが、アドリア海の上に島が見えてきた時 私は晴々とした気分だった。ずっと観たかったヴェネツィアという都市は、ミラノから電車でたったの数時間で訪れることができた。私がこの街を訪れたかった一番の理由は、ヴィスコンティの映画「ヴェニスに死す」で描かれた、死と美の壮絶な対比の中で、望むと望まざるに関わらず双方が引き立てあいながら共存している様に心を打たれたからだ。「死」があってこそ「美」が成立するという宿命は、人間から薔薇一本に至るま

ボローニャでのクリスマス

イタリアでミレ二ウムに向けての興奮が静かに高まる中、クリスマスが訪れようとしていた。私が初めて日本に帰省しない年の暮れをどう過ごそうかと考えていたところ、カティアがナターレ(クリスマス)を一人で過ごすなんてあり得ない選択だと言ってボローニャの実家へ招待してくれた。私は嬉しさとは別に、ヨーロッパのクリスマスがどれほど家族にとって大切なイベントなのかを熟知していたし、それはあくまでも身内の集いだと思っていたのでひどく躊躇したのだったが、どうしてもとカティアが言うのでボローニャに行

カティアの家の食卓

私といつも一緒にいたウテがいなくなり、寂しそうに見えたのかもしれない。持ち前の気取らない態度と、人の警戒心を溶かすピュアな笑顔を持つカティアが、私を度々仲間たちとの映画や食事などに誘ってくれるようになった。そんな時いつも一緒だったのは背の高いラヴェンナ出身のマルコと、親友のパオロだった。 私たちは一緒に、イタリアで公開されたばかりだったリュック•ベッソンの「ジャンヌ•ダルク」を観に行った。イタリア語吹き替えで、私には全くと言っていいほど理解できなかったのだが、あの「ニュー・シ

ウテとロマーノ

27歳のウテには50歳の恋人ロマーノがいた。 画家のロマーノはうっすらとした白髪で、前歯の間にわずかな隙間があった。お世辞にも美男とは言い難い彼は魅力こそあるものの、どう見てもウテの恋の相手とは思えなかった。親子というにも彼らの容姿はかけ離れていた。 二人はミュンヘンのアーティストがたむろするカフェ•バーで出会った。ロマーノの最初の言葉、それは[初めまして]に続いて、[僕のモデルになってくれませんか?]だった。 それから一週間もしないうちに、ウテはロマーノのアトリエに自分の

人生初の就職はイタリア?

私がウィーンでのヴァイオリンの勉強を終わりにしてミラノのオーケストラに就職が決まったとき、いちばん慌てたのは母ではなかっただろうか? 母にとってイタリアとはいかにも怪しい国−—つまり女好きな男達が街を闊歩し、泥棒がそこら中にたむろし、商売人たちが哀れな観光客から金を絞りとろうと手ぐすね引いて待っている−—といった、まさにステレオタイプなイタリアの印象を持っていたと思う。 その時の私はオーディションに受かったというだけでなく、私にとっては「雲の上のような存在」だった世界的に