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無責任な大人が子どもには必要

私は中学生の頃に美術大学への進学を希望し、それをこっぴどく母親に反対されたイヤな思い出がある。今思えば私も幼くて、その道がどんなに茨の道であるかも分かっていなかったわけだが、それにしたって当時の母の反対する理由は親子の信頼関係を打ち砕くには十分なエゴイスティックなものであった。

「あなたがいい大学行ってくれないと、子育てが失敗したって周りに思われるじゃない。何のために中学受験までさせて中高一貫に行かせたの?」

このとき私はまだ親に言い返すだけの語彙力や知性を十分に持ち合わせておらず、ただただその欺瞞に日々苛立ちが募って暴れた。そういう修復不可能な信頼関係の破綻は自分が大人になってから決定的なものとなる。私は30歳を超えてから本物の反抗期がきた。そして今も修復できていない。

ところが不思議なもので息子が小学校高学年になって美術系の高校(映像メディアの方)に進みたいと言い始め、私は中学生になってから通う美術予備校探しに奔走することになった。自分が親に散々反対されて今でもそれを根に持っている人間なので、反対する理由が全くないのはまあしごく当然だろうが。問題は母である。

息子の場合は多分これにジェンダーが絡んでくる。

「男の子なんだから普通の大学に行って、ちゃんと稼げる会社に行ってくれないと」が必ず入ってくるはずである。

なんて感じで息子の美術予備校を探しながらも母の幻影がチラチラと見えては私を悩ませた。父は基本的には必要以上に口を出すタイプではないが、昭和の価値観根強い人ではある。ああ、自分の親の幻影に怯えながら子育てするってどれだけ生きづらいんだか。

ところが、意外なことに息子が映像芸術の道を志すと聞いて、母は涙を目に湛えて歓喜の声をあげたのである…!!

「彼はそういう道に行くと思ってた!!!頑張って!!あなたもしっかり支えてあげてね!!」

これを聞いて私は鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしてしまった。あまりに人をバカにしてないかこの人は!と。なぜその言葉を私のときに言えなかったのかと。

でも途中で分かった。母にとって息子は単なる可愛い孫であり、孫がどうなろうと自分の育児の成否を人から判断されることなどない、責任のない立場にいるからこそ言えることなのである。

これ、今期の朝ドラの「舞いあがれ」の最初の頃のシーンを思い出すではないか。やたら熱を出すからと心配してあれこれと先回りして過干渉になる母親に対して、五島のばんばは「この子を置いて大阪に帰れ」と言う。そして五島で一時的に舞ちゃんを預かったばんばは、舞ちゃんがやりたいことをやればいいと言って彼女の意思を尊重する。そのうちに舞ちゃんは母親の元にいたときには考えられないほど伸びやかに逞しく育っていく。これは一重にばんばは舞ちゃんにとって無責任な立場で応援できる大人だからだ。現にそんなばんばも自分の娘が大学中退して結婚すると言ったときには大反対し、長いこと膠着状態が続いていた。自分の娘と孫は、違うのである。

最近は核家族化して子供の数も少なくなり、さらに親と子どもの密着度が増している気がしている。親は自分の子どもの子育てに無責任ではいられない。偏差値や学校という分かりやすい指標で子どもがうまくいった人は「すごいね。どうやって育てたの?」と言って周囲から賞賛を得る。だからそこから外れてしまうのが怖くなってしまう。

私は思う。子育てするなら、無責任な大人がその子の周りにいっぱいいた方がいい。じじばばだけでなく、近所のおじさんおばさんでも、習い事の先生でもなんでもいい。その子の将来とか堅苦しいこと考えず、無責任に「えー!いいねいいねー!」と言ってくれる人がたくさんたくさんいた方がいい。子どもはきっと、そういう人たちからの言葉に救われて力をつけていく。そしていつか舞いあがるのだ。

最後にサムネの写真だが、息子が小学校を卒業した。お世話になった支援級の先生と抱きしめ合って号泣している。私は見事にママ友の一人もできなかったが、支援級の先生方をはじめ、たくさんの支援者の人たちに恵まれた。言語療法や音楽療法、放課後デイサービスなど、今まで知らなかった世界でたくさんの勉強をさせてもらった。そんななかで、息子に「いいねいいね~!!素敵だね~!!」と応援の声をかけてくださる無責任な大人に恵まれたおかげで、息子はこうして自分のやりたいことを見つけ出すことができたのだと思っている。

これからも、無責任な大人が子どもたちの周りにたくさんいてくれることを願っている。そして私!!小学校六年間、お疲れ様っした!!



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