巨人_加工済

《『進撃の巨人』に見る現代社会に潜む巨人》_物語分析風コラム

※適当な論理で心理学風に評論しているコラムです。
※あくまでふわっとした”風”ですのでコメディとして受け取ってください。


別に真新しくないけど改めて気付いたことの散文。

超能力ものやハーレムもの系統に続いて、「ダメダメな平凡以下の引きニート主人公が突然(異世界に飛ばされたり能力を授かったりして)俺TUEEEEEEE」展開な作品は昨今あまたに存在するだろう。
これらの作品が好まれやすい原因は何だろうか。
上がらない賃金、劣悪な労働環境が蔓延り、格差は広がって行く。そんな中で努力することの意味や生きがいについて、何の引け目もなく語ることが難しくなかった現代において、自己の存在を拡張して意義を持たせる幻想を与えてくれるのがそれらの作品の良さであると考える。そういった作品たちは、不遇な読者に共感され、自己投影をした同一視で、ポジティブな理想の形を提供してくれるから魅了される。

では、創作する人やそういった範囲で商売しようとする人はその形を狙っていけばいいのかもしれないが、(創れるかどうかは兎も角として)どうすればその形を再現できるのだろうか。
このコラムではその答えをなんとか探してみようという試みである。

安易な結論を出そうとすると、バカボンのパパのようなイントネーションで「現実逃避できれば良いのだ~」と言ってしまいそうになるし、勿論それも一部含まれているだろう。
けれどある一定数に熱狂的な好意を得ることができたということは、現実逃避だけでは済まされない情熱を生み出せなければならない。
物語を愛することは、入り口が現実逃避だとしても、与えられた読者にとってはその人となりを形成せしめ、この先の人生に根差す体験になる。それは一時的な経験として片付けることはできない。
個人的なレベルで出す反証は、現実逃避のために利用していたゲームは山ほど買ったのに、仕事を辞めたくなってしまっている。逃避だけでは一時的な快感にしかならない。

では逃避ではない対処法と成り得るためには何があるのか?
防衛機制という理論がある。自我を守るために反応する行動のことだ。厳密に言うとめっちゃ細分化されてて驚いたが、代表的なものをざっと出してみよう。

内側に抑え込む「抑圧」
嫌よ嫌よも好きのうち「反動形成」
代わりのもので代用する「補償」
社会的・文化的に承認されたもので代用する「昇華」
自分に都合のよい理屈で正当化する「合理化」
不都合な自身の特性を外在化して攻撃する「投影」
不満を前段階や原始的な行動に戻り緩和する「退行」
自分以外のものに自分の姿を重ねることによって達成してもらう「同一視」
特定の対象に向けられていた感情を他の対象へ向け変える「転移」

こう並べてみると、物語という概念自体が、同一視にうってつけの媒体ではないだろうか。同一視できることこそがが物語としての存在理由が大きく占めている気がする。

ポジティブな人格よりもネガティブな人格の方が共感を生みやすい。だから同一視しやすさにつながるのかもしれない。これ、探せばいくらでも論文が出てきそう。(面倒だから探さないけど)
ネガティブな人格に関連づけるには、抑圧状態と地続きの優位性を脅かされている不満を共有できることが必須条件なのではないだろうか。
じゃあこの同一視できるもので、どういった展開になればポジティブな幻想を得やすいのか。

同一視で一番気持ちが良いものといえば、華麗なまでの逆転劇はどうだろう。『半沢直樹』とか『赤穂浪士』みたいなね。現実にはできっこないからこそ高揚感がある。超能力ものやハーレムものなんてものも現実にはできっこないことを達成してくれる。
逆転劇になるためには①抑圧→②攻撃(反撃)→③優位性の確保までの段取りを踏まなければ、ポジティブな幻想は得られないと思う。高揚感は得られないってことは、自我を守ったとは言えない。

そこで今回は『進撃の巨人』を例に出して考えてみよう。典型例としてうってつけだ。というか私がこれによって活力を得て転職に踏み出した経験があるからだ。

①抑圧
掲載誌は別冊マガジン、10代後半から30代までと想定できる。まさにこれから社畜になろうとする、または実際になっている年齢層ではないかハッハー。労働と報酬の不均衡は、現代の社会問題だ。
「壁の中で家畜のように飼いならされている人間」は世にはびこる「社畜」たちの胸を打つ構図になるのは容易に想像がつく。ちなみにこんな替え歌もある。悲しくなるから見てね。
(https://youtu.be/P-vRlNO5lxA)
今の世の中を言い当てたような壁の中の人類=会社という壁の中で飼われている人間は、壁が壊された時の食糧難はまさにリーマンショックやらで企業という絶対不変だった価値が崩壊している現代の問題に直結している。

昔に遡って他の例を考えてみる。
1950年代、戦後からまだ5年しか経っていない日本では高度成長よりも被害からの復興が最優先され、科学の恐ろしさを刻み込まれたことだろう。科学合理主義への警鐘として『鉄腕アトム』や『ゴジラ』が発表された。
1970年代、高度成長期がひと段落し物質的には満たされたとしても、その代償や物質だけでは満たされないものに気付かされたことだろう。スポ根漫画などの自分の身体や能力だけで成り上がっていく『あしたのジョー』『エースをねらえ!』が発表された。

このように抑圧を物語上作るとするなら社会的な病理と一致していることが条件だとする。

②攻撃(反撃)
『進撃の巨人』では立体機動という装置で人間が絶対に叶わない存在である巨人に立ち向かう物語だ。主人公のエレンはそんな敵を訓練の末、また運命のいたずらで得られた巨人化の力でバッタバッタとなぎ倒していく。
巨人化の力も父親から授かっていたので「また血縁ものかよー」とも頭をもたげた。
というのも血縁を理由にした才能の遺伝なんて遺伝子+環境によって得られた自発的な才能ではない気がするからだ。スポ根でいう自身の身体だけでは得られない。いや、逆に自身の身体を根幹とした特別視は、現代だとなお求められていることなのかもしれない。いわゆるゆとり教育を通して培われた個性の尊重は、それぞれに分け与えられた才能を伸ばすものだから、結局はそれの原因を一番説得力がある形で提供できるのは血縁者の功績なのかもしれない。

攻撃に必要なのは、同一視から逸脱しすぎない範囲であればどのような手段であっても欲求不満になる状況を打破できる手段でることが条件だとする。

③優位性の確保
そうして巨人のいない壁の外の世界を目指していくわけだが、敵への攻撃が必要なのは、彼らが生き残り、優位性を確保して自由を得ることが目的となる。
生存本能を由来として集団の中で勝ち残ることは生き残ることに直結する。自分も他人も関係なくもうこれは仕方ない。そうしないと生き残れない、つまり身体だけでなく自我も守れないのだ。
そういった自我を攻撃される状況は現代のストレス社会では当たり前に起こっていることだが、誰もが危機感や嫌悪感を感じるには十分だ。昔はそれすらも仕方がないの一言で済まされたかもしれないが、今では選択肢がごまんと容易されている現状で、誰が真の自由をもってして自我を守ることを選択できるのか。

優位性の確保には、攻撃によって得られた現状を打破した結果の獲得が条件だとする。

これまで述べて来た
①抑圧
②攻撃
③優位性の確保

これらの道順が指し示すのは、いわゆる集英社ジャンプで描かれ続けてきたメソッド『友情。努力。勝利』と似通っている気がする。物語の本質的な部分としては起承転結が結ばれていることが必要ではあるが、現代に訴求力がある物語を作ろうとするのではあればこのメソッドが有効なのではないだろうか。

そして『進撃の巨人』という作品は、漫画というサブカルチャーの勃興を感受性が豊かな若人と呼ばれる年代に享受し、経済力を得た20代30代にも訴えかけることができた作品である。
現代問題視されている劣悪な労働環境や、仕事とプライベートの分け方が論じられている中、同じように壁という自由を失った中でももがき苦しむ様はその層にどのように見えているのだろうか。まるで自分の苦しみのように感じたのではないだろうか。
現代の風潮に合わせて求められている作品は異なるのは当たり前だが、こと『進撃の巨人』においては見事に現代の要求と一致した作品と言えよう。

・終わりに
途中から主訴がずれてしまったような気がするが、なんとなく書きたかったことはまとめられたように思う。でも結論がまだふわっとしているから推敲や再考が必要ではある。
途中抜粋した資料や心理学用語による解説はぱちモン程度のものであり、もし興味が持てたのであれば是非独自に調べていただければ嬉しい。
物語分析として銘打っているが、巨人が担う脅威の象徴や、エレンの異常なまでの過剰攻撃欲については考えられなかった。今後もし散文を書くのであればこちらにつても考察してみても面白いかもしれない。


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2018.2.21 タイトル変更