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たまには感傷的な日もある〜心は味わうために存在する〜

こんばんは。Vinoです。
はじめましての方へ。

時々、熱弁をふるう人につかまることがあります。
自分では全然気にしていないことなのに、自分が放った一言に、何故か異様に食いつかれることがあり、ビックリします。

そういう時は、えっえっ何?なんでそんな、わたし何かマズイこと言ったかしら?と、ドギマギします。

なんというか、相手の感情のストッパーをパカッと開けてしまうような、グサッと触れてはいけない場所に触れてしまうというか、、、そして、ガーッと来られると、そんなに熱っぽく語られても困る、、、と逆に引いちゃいます。

じぶんは、基本的に他人に余り関与しないので、何がそんなにこの人たちを駆り立てるのか不思議になります。
わたしも身内には関与してしまいますが、、、

本当は、向き合うべきは目の前の人ではなく、自分自身ではないのかな。
放っておけば良いのにと思うのですが、、、ダメなのかな?わたしが冷たい?笑

もしかしたら、ポヤーンと何気なく放った一言って、意外と本質を突いちゃうのかもしれません。

幼い子供の無邪気な質問に大人がドギマギするかのように。

どうして、お空は青いの?

どうして、海の水は塩っぱいの?

どうして、お砂を食べちゃいけないの?

どうして?どうして?どうして?

幼い子供には、大人の常識はありません。思ったことを平気で口にします。
本能に忠実なので、加減を知りません。

でも、成長するにつれ共同体の一員として暮らせるように、ルールを覚えます。
本能的でパワフルなだけでは、他人を傷つけてしまう可能性があるから。

他人を傷つけることは、実は自分自身を傷つけることでもあると言われます。

たまに、サイコパスみたいな人もいますが、たいていの人は、他人を傷つけるとき、自分自身の心も一緒に切り裂いています。

意図的に誰かを傷つけようとしているとき、本当は自分のハートがグサグサに切り裂かれ、それが痛くて仕方ないから、誰かのハートを傷つけることで、自分の痛みを緩和しようとします。

ということは、冒頭に書いたように、誰かに異様に食いつかれていると感じるとき、わたしは、その人をどこかで傷つけてしまったのかも、と感じているのかもしれません。無意識のレベルですが。

わざわざ誰かを傷つけたい人なんていないと思います。

もし、いるとしたら、それは自分の安心安全な世界が脅かされていると恐怖心でいっぱいな人たちなのかもしれません。

攻撃される前に、攻撃しよう。やられる前に、やっつけよう。
でも、その攻撃してくると思う相手は、実は、鏡に映った自分自身なのです。

構えた武器を下げるには、自分の中にある猜疑心をなだめる必要があるのです。

でも、猜疑心でいっぱいだと、何を信じて良いのか分からなくて、結局、堂々巡りになり、自分のシッポを自分で噛みついてグルグル回ってしまうのでしょう。

今日は、少し感傷的な記事になりました。
喜怒哀楽でいうなら、今日は、「哀」を味わう日でした。

明日は、どんな感情を味わうのだろう。



為せば成る、為さねば成らぬ何ごとも。
最後まで読んでいただき、ありがとうございます!

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