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私が闘ってきた7年間に終止符を打つ

今から7年前、14歳のある日の夜だった。もうあれが春だったのか秋だったのかも思い出せない。ただ、酷く暑くも酷く寒かった記憶もないから、春か秋なのではないかという推測であるが、暖房やエアコンがついていたのなら、それは全くもって無意味である。
記憶が思い出せないというのは、脳が当時の数ヶ月分の記憶を自動的に消してしまっているからだ。
自分が処理できる収容量を超えたショックを受けるというのは、無意識にも、脳が身体が心が、私という存在を存続させるために記憶の処理を行うよう設定されているものを発動させてしまうのだろう。

私はその夜、義理の父から性的虐待を受けた。

その日をきっかけに、私の人生は壊れてしまった。きっとこれが今の20歳の私がされていたら、義父との関係は見直すだろうが、人生が大きく壊れることはなかったのでは無いだろうかとたまに思う。そんなものタラレバでしかないけど。
時々彼氏はいれど、手を繋ぐ程度のか関係であり、はっきりとした男性経験のない14歳の女の子には、ひたすらに重たかったのだ。
その後学校も何となく、行かなければ行けないから行っていたが、それはある種現実逃避だった。傷付いた事実から逃げて、普通の日常を必死に取り戻そうとしていた。しかし成績は著しく低下した。人より少し勉強できることだけが私の自尊心を保てていた理由だったために、私はもうからっぽになってしまったのだと思った。

私は体育祭が大嫌いだった。運動音痴であったし、人前で運動することが本当に駄目で、体育の授業はほぼ全て保健室に逃げて、テストの点数で評定を取っていたくらいだった。それでも体育祭シーズンはやってくる。私はなるべく迷惑をかけないように、クラスを仕切っていたクラスメイト達に、体育祭は出ないから、私がいない前提のリレーの順番を組んで欲しいと頼み、保健室に逃げた。それでも体育祭シーズンは、練習が2時間とか4時間ぶっ通しである。保健室は1日最大1時間しか居られなかった。何故かそう決まっていた。私はしぶしぶ体育館やグラウンドに戻り、練習に参加したり、仮病で端っこにいたりしたんだと思う。そのストレスも重なってか、学校と私をつなぎ止めてくれていた蜘蛛の糸が切れて、学校には行けなくなったし、死にたいと強く願うようになったのは、その時からだと思う。
私は教室で座学の授業を受けていたかった。受験生なのに、地元で1番頭のいい高校を目指しているのに、体育祭に本気で取り組むなんて阿呆だと思っていた。もう既に2回やったじゃないか。何故3年生まででなければならないのか、不思議だった。
そう思いつつも、家に帰れば塾に行くまでゲームをしていたし、結局は何か理由をつけて体育祭が嫌いなことを正当化したかっただけだ。

当時の無知で無力な私は、傷心することしかできず、事を思い出すこともできず、母親が勝手に示談でことを片付けた。記憶は無いが、私に示談をする許可を取っていたのなら、勝手にという表現は間違っている。

当時の私はその日から今日まで、そしてこれからも苦しむことになるとは考えていなかったし、そもそも何かを思考する事がほとんどできなかったのだと思う。

それから母には事件の全てを口止めされ、誰かに話を聞いてもらうこともできなかった。ただただ担任の先生に、「家庭が壊れました」と一言だけ綴ったメモを持って登校し、どんな事があっても人前で泣かなかった私が教室で、みんなの前で、初めて幼子のように泣いた。みんなが驚くのを感じながら、担任は私を別室へ案内し私に事の詳細を聞いたが、私は母の言いつけ通り、「父が浮気して出ていった」とだけ言った。担任は「本当にそれだけ?」と疑っていたが、私は声を震わせながら「それだけです」と答えた。誰にも助けてと言えなかった。言ってはいけないのだと思っていた。

どれぐらいの時が過ぎたのかは知らない。祖母が自宅に来た。母は買い物に出かけていたのだと思う。
私はとうに心の限界を超えていて、祖母に全てを話した。
祖母は直ぐに「ここに居てはいけない」と言い、帰ってきた母に私を引き取ると伝えた。この時既に母との関係も壊れていた。細かい理由は覚えていない。母はあっさりと承諾したような気がする。私はこの瞬間、あぁ、私は父にも母にも捨てられたのだと思った。唯一の居場所があったスマホも母に没収された。
慰謝料は私にちょうだいと頼んだ。断られた。
私に対して直接入ってきたお金は1円もない。
今でも私は、私の親に払われるべき養育費と、慰謝料は別物だと思っている。慰謝料は、私が直接請求できるものだからだ。
被害を受けてからもっと早く誰か大人に助けを求められていたら、慰謝料を受け取れていたら、適切な医療を受けられていたらとこの7年で何百回、何千回、何万回思っただろうか。
私は母と絶縁状態になった。

誰がなんと言おうと、私は事実、義父と母、2度親に捨てられたのだ。

祖母の家で私はよく、「私は両親に捨てられた。もう二度と会うことは無い。」と口にしていた。
そんな時に、義理の祖父が死んだ。くも膜下出血だった。
3日間の延命治療がなされたため、たくさんの親族が最期の挨拶に来た。母とも再会せざるをえなかった。

私は当時母をもう母とは認識していなかったので、母との再会は嬉しいものでは無かった。
しかし、酷く悲しかった。もう私の普通の日常は戻ってこないのだと、義理の祖父も、もう死んでしまう、不幸ばかりが私を取り囲んでいく。

けれども義理の祖父は最期まで私に贈り物をくれた。
それは母との関係修復のきっかけである。
寝るために祖母宅に一度母と一緒に戻った日、先に口を開いたのは母だった。
精神科の診断結果の話だった。私にはADHDの診断がでた。
母は私を理解しようと勉強していたことを知り、嬉しかった。

それから母と祖母と3人暮らしが始まることになる。
閉鎖病棟に入院したり、ODで運ばれたり、反抗期でひたすらに尖っていたし、相変わらず死にたかったし、大人のことは嫌いだった。
バイト先の店長に泣きながら電話したこともあった。副店長に死にたいと夜な夜なLINEした日もあった。リストカットを初めてした日は、とてつもない解放感に感動した。

高校三年生の終わりに、彼氏が出来た。18歳の私は比較的メンタルの調子が良く、バイトも休まず行っていたし、健康的な生活をしていた。全ての傷が癒えて、このまま上手くいくのだと思った。
私は彼氏に、絶対に私の中の闇を見せない。いい女でいると決めたが、今では理不尽ワガママイカレ病気女なのが全てバレている。

彼氏とは今年で3年目のお付き合いになる。どんな時も私を支えてくれる、12階から飛び降りようと発狂すれば、羽交い締めで私を止める。私が落ち着いたら、良かったと喜んでくれる。イカれた私が振るった暴力で怪我をすれば、猫にやられただけだと言ってくれる。そんな人だ。何度も別れを切り出した。嫌いだと嘘をついて、容姿に対して思ってもないことを言い傷付けた。私といないことが幸せだと思ったから。
それでも彼は引かなかった。そういう人なのだ。

私はこんなによくしてくれる彼氏がいても、母に生きて欲しいと願われても、死にたい。
結局、私を苦しめるのも、私を助けるのも、私なのだと思う。

私はこれまでの7年間、自分を治そうと闘ってきた。何度も何度も何度も何度も何度も何度も闘ってきた。
それは定職に就いてみたり、薬をちゃんと飲んだり、精神科に頼ったり、予備校に通って浪人生をしたみたりした事である。
どれもこれも、挫折してきた。突然鬱がやってきて、突然死にたくなって、逃げたくて、向き合いたくなくて、私を殺そうとやってくる。
その度私は生きることを選んできた。死にたくても、死のうとはしなかった。
でももう限界だと思った。もう頑張った。7年も、たったの7年かもしれない、でもこれを死ぬまであと何十年なんて本気で頭がおかしくなりそうだ。

私は2024年7月28日6時39分、死を決行した。
つもりだった。
彼氏と昼夜逆転をしていて、彼氏の家にいた。夜起きた時からなんとなく、初めて4週間分貰えた大量の薬に目をつけていた。市販の某風邪薬でもあるまいし、全て飲めば(安定剤は全部で約120錠ほど、眠剤も合わせればそれ以上あったと思う)死ねるのではないか、彼氏はお風呂に行った。今しかない。完全に勢いに任せて、彼氏に隠された薬を見つけて、バルプロ酸ナトリウムを54錠飲んだ。こんなんじゃ足りないと思ってトリンテックスを6錠飲んだ。そこで彼氏がお風呂から上がってきた。思っていたより早くて、空になった錠剤をみながら、バレることを悟った私は、先に謝った。惜しかった、これじゃ死ねない。残念だ。中途半端に苦しんで終わりだ。そんな気持ちだった。
彼氏は救急車を呼ぶかどうかを相談する窓口に電話した。私は黙って座っていたが、直ぐに女性の、「呼んでください」という声が聞こえて、病院になんていきたくない。わざわざ生かされる処置を受けるなんて嫌だと思った。彼氏に懇願した。何度も呼ばないでとうったえた。それでも彼氏は電話をかけた。私は泣きながら発狂した。救急車を手配する人はなかなか聞き取れなくて困っていた。それでも私は救急車を呼ばれてたまるかと思った。必死に赤いバツ印目がけて手を伸ばし、電話を切った。彼氏はもう一度電話をかけた。救急車はもう呼ばれていた。諦めるしかない状況となった。

5分くらいして、救急車のサイレンが聞こえてくる。
救急隊の人が部屋にくる、私は泣いた。死ぬために行動したのに、生かされるための病院には行きたくなかった。
救急隊の人は優しかった。何個か質問をされて、答えた。
救急車に乗って、母親に電話で伝えることになって、大きな病院に運ばれた。
次は完遂してやるという強い気持ちが芽生えた。
病院について、医師や看護師さんに何で薬をたくさん飲んだのかな聞かれた。死にたかったと素直に言った。誰も私を責めなかった。
1日入院することになって、下剤の入った活性炭を飲んだ。ドロドロでザラザラで、最悪の喉越しに苦痛を感じながら飲んだ。嫌すぎて次は胃管でやってみる事にしたが、こっちの方が地獄だった。鼻からチューブを入れられ、胃まで届くまでの辛抱だと思ったが反射で吐いた。ここまで痛みと気持ち悪さに耐えた手前、やっぱりやめるとは言えず、活性炭を胃に直接いれられた。飲む苦しさは確かになかったが、喉にあるチューブの感覚が苦しかった。唾を飲み込む度に邪魔に感じた。全部活性炭を入れ終わり、私はお手洗いに行かせてもらうために立ち上がった。気持ち悪い。なんとか行った。でももう吐きそうだった。看護師さんに貰った袋にほぼ全て吐いた。吐いても喉のチューブが気持ち悪くて、また吐く。でもチューブを抜いてほしいと言えない、声が出せるほどの余裕は無い。嗚咽が止まらない。看護師さんが気がついてくれて、チューブを抜いてくれた。抜かれる時も気持ち悪い。二度とやらない。

その後HCUの病室に移され、ひたすら下剤の腹痛がつらかった。何度もお手洗いに行った。そういう治療だから仕方ないと分かってはいても辛かった。
寝ていなかったので、消灯時間になって気絶するように寝た。
それでも何度か認知症お婆さんの声がうるさくて起きた。

看護師さんは何時間か置きに、今も死にたいかを聞いてくる。私は早く退院するために、徐々に死にたい、少し死にたい、ほぼ死にたくない、落ち着きました。と少しずつ良くなったフリをした。それでも1つ本当のことを1度言った。
「今ここに、押せば死ぬボタンを置かれても、きっと押せない。」
死ぬのは生きるよりも難しいことなんだと思わされる。

昼過ぎに退院できることになった。やっと出られる嬉しさとは裏腹に、高い入院費に落ち込んだ。

母が迎えに来て、ドライブをした。私は8月5日に死ぬと宣言していたが、死なない約束を取り付けられた。約束なんてできるわけが無いと思いながら上っ面で約束しておいた。面倒な会話は避けたかった。

実家に強制送還されて、入院させられる方向になっている。
もう全てがどうでもいいなんて思いながらも、色んなことにストレスを感じるのは、どうでもよくないことを教えられる。

最近は誰にも本当のことを言いたくないと思い始めている。
母が母の職場の人達と距離が近いのもあって、色んな人に私が死のうとしたことをバラされていた。私はそれがかなりストレスで、ショックだった。
放っておいて欲しいのに連絡が来たり、心配されたり、気を使われたり、最悪だ。

次死ぬ時は、みんなが私を元気になったと勘違いした時、みんなが私に安心した時、ひっそりと完全に、死のうと思っている。どういう方法で死ぬかも決めている。これは確実に死ねるとワクワクしている。それが今の唯一の救いだ。

私は心配されること、生きるのを願われることが何よりの苦痛であり、私をより殺そうとしてくる。周りはきっとそんなこと気付いていないが。

なにもいわれたくない。唯一受け入れられるとしたら、死んでもいいよ。の一言だけ。
共感もいらない。何もいらないのだ。

ストレスの反動で、無いお金を浪費してしまうのも苦しい。何か買いたくなる。欲しくて仕方なくなる。気がつけば買っている。死ねばいいのに。

みんな死ねばいいのに。とかも思う。みんなって誰だろうと疑問にも思うが。

ともかく、私は必ず自ら死ぬ。これだけは決めている。誰に何を言われようとされようと。私の気持ちは変わらない。7年も変わらない気持ちを、他人が今更かえられるわけがない。私以外の人間は皆他人だ。


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