幸福論

#創作大賞2024 #オールカテゴリ部門

※この作品について
この幸福論は難解であり、心地よく読んでもらう事を想定して作ってはいない。また、長文である為あなたの大切な時間を奪う。以上の理由から非推奨である。
公開する理由は、作中私が発見した概念が世界にまだ知られていない知識であるため、社会的な意義があると思ったからだ。読むのであれば感謝しかないが、無理をせず途中で読むことをやめるようお願いする。



幸福論はなぜ生まれるのだろうか? これを書き終えた時に、それは人間が最も理解が出来ない概念だからに他ならないという事に気が付いた。人は新しい概念が生れた時に、言葉を駆使して既存のものに例えて理解する。初めて電気を知った人は「電気とは水のようなものだ」と例えた。言い得て妙である。しかし様々な要素が『当てはまりすぎるもの』や『人によって答えの変わるもの』を正しく理解することは難しい。電気は水のようなものでもあるし、お金のようでもあるとある人は言う。またある人は、電気とは光だと言っている。これでは電気とは何かを理解することは出来ないだろう。幸福という概念にも同じようなことが起こっているのだ。その為過去の賢者は「私の考えた幸福」を世に発表し続け今日に至る。

私の幸福論は素人ながら科学的でありたいと願いながら創っている。幸福を『人間の欲求』という形で本質を表現した心理学者がいる。アメリカの偉大なる心理学者アブラハム・マズローである。彼の提唱した理論は「マズローの5段階欲求」と呼ばれ現代でも人生の羅針盤にする人は少なくない。彼は著書『人間性の心理学』でこのような事を述べていた。

「私の主張は否定されなければならない。なぜならこれは科学だからだ」

これは、心理学がまだ科学としての地位を十分に得られていないという時代背景があった故の発言だ。科学とは、観察と実証を経て成立する。再現性は科学にとって重要だ。人類への貢献という感覚を科学者は少なからず持っている。再現性を高めるという事は、過去の説を否定する事でもある。そのような経緯があり、初めて社会に対し役割を果たすことが出来るからである。

今の私も時を越えて同じような気持ちになっているという事を、マズローに伝えたい。幸福を理解しやすい概念まで押し上げることは非常に重要である。定義するということは、つまり単純化するということと同義であり、また幸福を単純化するという事は『人間の本質』を単純化することでもある。

今回この『幸福について』で参考にしたものはあまりに膨大な量の判断材料であった為、最終的に導き出した結論は完全な単純化からはまだ遠く、実は自分自身『至っていない』という直感がある。それは純粋に能力の限界なのかもしれないし、科学的検証がまだ不十分な領域が存在する可能性も否定できない。もしかしたら、今後科学で新しい発見があった際、この幸福と呼ばれる概念を表すために必要なパズルのピースが十分に揃い、「幸福とは○○である」という表現が可能な真理が生まれることが起こりえるかもしれない。

私のこの完成品は、かつてのマズローが願ったように科学的な進歩の一部でありたいと切に願う。次の時代の懸け橋となるためこの幸福論は否定されなければならない。それが科学だからである。

 

幸福の歴史

先人たちが幸福をどのように捉えてきたのか。その歴史を知る必要がある。紀元前の哲学者、アリストテレスの著書『ニコマコス倫理学』が現代の幸福論に今でも影響を及ぼしている。人は幸福になるために生きていると考え、その中でよく生き、そして道徳的に生きることを『中庸』という言葉を用いて表した。『よく生きる』とは現代の私たちにはあまりなじみがない。幸福に生きるための要素として、規律や秩序、自制などの社会性をあり方として説く。それは時代に求められていた考え方であった。

また、アリストテレスは『運』や『人間関係』も非常に重要であると考えており、家族が死んだらそれは不運であり、また不幸であると位置づけた。彼は師匠のプラトンとは真逆の現実主義的な思想で幸福を捉えていたために、至った結論であり実にアリストテレスらしい。

幸福の歴史を考察するうえでこの『運』という観測できない第3の要素が人生において決して無視できない点であることは、現代でも十分通用する核心的部分である。

同じ時代背景を持つ哲学者のプラトンは、家族の死のような外的要因は幸福と関係ないと考え、知性とともに良く生きたら、それは幸福であると主張した、古代ギリシャにおいてはしばらくそれが主流となった。しかし、シカゴ大学の哲学者 マーサ・ナスバームはアリストテレスの研究で『幸運は幸福で生きるのに必要である』と結論を出した。私も幸福を研究するうえで不幸への理解は避けて通れない道であったため、このアリストテレスの現実的思想は大きな指針であった。

有り方の倫理学としてはカントの義務論が代表的だ。義務論とは『善行を行え』『感謝しろ』『他人を傷付けるな』といった、理性の有り方を示したものだ。18世紀ごろ時代では、まだ社会的な環境、それは法整備や公平さという倫理概念がインフラとして必ずしも機能しておらず、『秩序に重要性を持たせるということ』に対する価値が高かったと考える。つまり社会的役割として個人が持ち得る『あり方、生き方』という秩序の最大化が狙いとしてあったのではないかと推測できるのだ。これがカントの義務論が義務論たるゆえんであるのではないだろうか。彼はこの義務論になぜ従わなければならないのかという問いに対し「それが理性だからだ」以外の言葉を持たなかった。もし現代にカントが居たとした場合、このような根拠のない思想は嘲りの対象となってしまうかもしれない。しかし、このような熟慮された主観は時代の価値観に大きく依存しており、最適化された理論であるという考えが、最も整合性を保つことができる。逆説的に、時代の価値観にとらわれない現実的なアリストテレスの倫理学の方がより根源的で普遍的であると言える。

幸福論は様々な変遷を辿る。同じく古代ギリシャの哲学者、アリスティッポスの肉体的快楽が最大の善であるという快楽主義。ヘレニズム期の哲学者エピキュロスは、これに反するように家族との団らんなどに代表される穏やかな幸福こそが善であるという主張をした。

しかし、そのような主張が大きく一つの結論を迎えたのは、カントの生まれた24年後に誕生したジェレミー・ベンサムという男の時代である。

ジェレミー・ベンサムは『功利主義』と呼ばれる「最大多数個人の最大幸福」という思想を提唱し、それが現代の幸福感や倫理観の元となっている。カントの幸福感である『義務論』は保守主義であり伝統や文化、道徳(美徳)に高い価値を置くものである。それに対しベンサムの主張はリベラリズムに代表される自由主義の基本となっている。人権をまもり、自由で平等な世の中を目指す一つの原則として、後世の国際法学に大きな影響を与えた。この功利主義は後に門弟のジョン・スチュワート・ミルによって、修正、拡張される事となる。修正された部分は公平さと言われており、挙げられる例の一つとして拷問に対する考え方がある。ベンサムの功利主義では拷問される個人の不幸よりも、それによって幸福な人物が増えれば、それは道徳的となってしまうという批判が生まれたのだ。弁護するわけではないが後のベンサム研究において彼は多数の幸福のために少数を犠牲にすることを支持しない正義論を持っていたことが分かる。

しかし、この拷問の例も、切り取り方を変えればやはり道徳的なのではないかと考える。これは視点のスケールが異なると、最適な幸福も異なる為である。ルネサンス期のフィレンツェ外交官であるニッコロ・マキャベリが書いた『君主論』も彼なりの幸福論が元となっている。政治という広いスケールで考える『幸福』を現実主義的に考えるのであれば、加害も行う必要はあると考えた。結果生まれる犠牲はやむをえない。彼が考える正義とは、だからこそ『痛みは一瞬で』『後に生まれる恩恵を長期でしっかりと』という設計として表現される。このような視点であれば、初期の誤解を生んだ功利主義であっても、また一つの幸福観であると言えるのではないだろうか。

哲学者であるエドモンド・ピンコフスはカントの義務論、ベンサムの功利主義の違いをこう表現している。カントの義務論は『人物』に焦点を当てているがベンサムの功利主義は『行為』に焦点を当てていると述べた。ベンサムの功利主義は帰結主義と呼ばれる考えがもとになっている。帰結主義とは「評価をする際結果もしっかり見る事」である。この延長線上で生まれた『誰がみても正しい正義』のようなものが『能力主義』というまた別の苦しみを現代に生む結果になってしまったのは何とも皮肉な話である。

では、時代が流れなぜこのような思想の変化が生まれるのか。それは過去と現代の幸福を探る一つのヒントになるだろう。

ベンサムの合理的とも言える功利主義は現代と特に相性が良い。法治国家においては個人のモラルを十分に醸成せずとも、秩序を約束できる社会システム確立されていることが一つの理由として挙げられる。罪を犯した人間は、おおむね治安維持を目的とした各組織から然るべきペナルティを受ける。ベンサムの功利主義が生まれたきっかけもまさに未成熟な法政会に対する不満や矛盾がきっかけである。このような法機関のインフラ維持コストは時代とともに低くなり、また品質を上げてきた。結果、おそらく18世紀中ごろには人は『ありよう』から自由になり始めたのではないだろうか。功利主義の最大の功績は、その主義に反して幸福の総量の増加ではないと考える。それまで個人の感覚に依存していた秩序によって生み出された、矛盾や理不尽からの解放がこの主義の根本にはある。そのように捉えると功利主義の功績は悲しみの総量を減らしたことなのかもしれない。

この文脈で考えるとカントの義務論はすでに必要のないかというと、そうではない。功利主義一辺倒では失うものも大きい。それは、共同的幻想である。

カントの提供したものは人とはこうあるべきという普遍的な道徳観であった。この道徳観を共有する同士が同様の価値観を持っていた為にお互いの信頼関係を保持していたのだ。物理学的に波の共鳴度の関係をコヒーレンスと呼ぶことがあるが、文化心理学の概念でこの共同的幻想を『多層間コヒーレンス』とよぶ。これは何も特殊な思想ではない。私たちは他人が口をつけた箸をそのまま使用できない。相手の唾液成分を分析し、安全が証明されたとしても難しい。目の前で科学薬品を使用し丹念に洗浄したとしても、目の前で使われたその箸を再度使用するのは抵抗がある人も多いだろう。これは全く合理的ではない。しかし、当然私たちはこの幻想を優先させる。これが多層間コヒーレンスである。

功利主義が主流となった道徳観では、結果として共同体における喪失感を生むこととなる。人はより自由になり、また社会システムは功利主義の名のもとに前進する。反面コミュニティを長年にわたって維持してきた幻想を失ったのだ。その意味で、真の幸福論を考えるのならば、新しい義務論の発生はむしろ自然と言える。排他的な思想も人間には必要であるという寛容性は人間のデザインとなんら反発せず、必要な要素だ。私たちはもっと人間のデザインを知らなければならない。

 

肉体が持つ幸福デザイン

人は幸福を感じる時、どのようなホルモンが分泌されるのだろうか。そこには様々なものがあるが、代表的なものを一つ挙げなければならないのであれば、セロトニンを選ぶだろう。セロトニンは幸せホルモンとも呼ばれ分泌されると人は安らぎを感じることが出来る。

これらの95%は腸壁で作られ、人の好調、不調に大きな影響を与える。ストレス時に分泌されるコルチゾールもまた同様に腸内で分泌されるため腸は第2の脳とも呼ばれている。腸の神経系は神経伝達物質を持っており、体と心の両方の幸福感を調整し意思決定に影響する様はまさに脳と言えるだろう。

セロトニンの原料は体内で生成することの出来ない必須アミノ酸であるトリプトファンだ。合成過程でビタミンB6、鉄分でたんぱく質代謝を。ビタミンB12で脳神経の正常な働きをもたらす。トリプトファンの生成に必要な食物は肉、魚、豆が代表的で、ミネラルと呼ばれるカルシウムやマグネシウムとともに摂取すると効果的に神経伝達物質を放出することが出来る。下痢や便秘が起こるとセロトニンの生成は止まってしまうが、2週間以上続くこともないので、大きな弊害はないだろう。もし続くようであればそれは別の疾患を疑った方が良い。

セロトニンはうつ病の一般的な解決策として長い間、活躍している。抗うつ剤としてプロザックと呼ばれるセロトニン再取り込み阻害薬などが使用されてきた。セロトニンを増やす錠剤はうつ罹患者に対し大きな幸福感を与える。錠剤の使用には大きな二つのメリットがある。一つは簡単であることと、もう一つは症状の改善以上の効果をもたらすことだ。それは例えば罹患者の幸福の捉え方であったりする。罹患者が鬱を乗り越え、それから十数年たち客観的な視点で見ても充分に豊かになったとしよう。しかし、そのような家族と過ごし幸福を感じている時でさえ、セロトニン錠剤の超える幸福感はないと言わしめている。

ただ、勘違いしてはいけないのはそれが決して万能ではないということだ。鬱病に関しては様々な治療法があり、その全てが科学的に一定以上の信頼度を得ている。反して欧米では10人に1人がうつ病になっており毎年4万3000人近い自殺者がいることも忘れてはならない。1980年以降セロトニン再取り込み阻害薬のプロザックも効果が薄れ始め、同時にサイロピンなどに代表される幻覚剤の効果が有ることが分かり期待されている。

人には決して無視できない『適合性』という要素が存在する。個人の問題を解決する為にはこの適合性なしに語ることはできず、セロトニンさえあれば幸せというわけではないことは確かだ。実際うつ罹患者に常人よりセロトニンレベルの高い人は存在するし、かつ珍しいわけではない。

セロトニンは日々過ごす生活の一体どの部分に影響を与えているのだろうか。先に結論から述べてしまうと、それはコミュニティの形である。具体的に言及するのならば、文化の形に関わってくるのだ。分泌物の話から、文化形成に至るまでの道を記そう。

オックスフォード大学感情神経科学センターのエレーヌ・フォックスの研究だ。セロトニンを運ぶ遺伝子であるセロトニントランスポーターにはS型、L型がありその組み合わせが性格に影響を与えていることが分かっている。SとLはそのまま短「short」と長「long」の略であり、セロトニン受容体遺伝子の長さを表している。

前提として、幸せのホルモンであるセロトニンの分泌量は実は人種によってほとんど差はない。分泌に対する基本設計は一緒なのである。しかし、そのセロトニンを受け取る受容体(トランスポーター)には特徴が存在する。ⅬⅬ型、SⅬ型、SS型に分類されⅬⅬ型は最も多くセロトンを受け取ることが出来、SS型は比較すると優位に少ない。つまり、幸せになるためのエネルギーは、皆同様に体からあふれてくるが、それを受け止めるコップにはサイズが存在してしまうのだ。この場合、セロトニントランスポーターがコップの役目を果たしている。セロトニンの差はそのまま本人の気質に影響を及ぼす。それは楽観的、悲観的という生まれ持った気質として発露に至る。つまり我々人類は人種によって、ポジティブやネガティブ等の気質に差があるということに他ならない。

ロンドンの精神医学研究所チームの研究によるとⅬⅬ型の方が過去に起こったストレスによる鬱の耐性が高かく、SS型は低かった。最初はⅬⅬ型に優位性が存在し、SS型は下位互換であるかのような見解であった。しかし、研究を進めていくと、ⅬⅬ型はただ単に感覚処理感受性が鈍感なだけであったことが判明した。SS型は感覚が敏感な分、ポジティブな出来事にも大きく反応したのだ。これはHSPやギフテッドに代表されるマイノリティセンスを持つ感覚処理感受性が鋭敏な人間も同様のメカニズムであることを忘れてはならない。

カスピらが2003年のサイエンス誌に発表した論文である、逆境とセロトニントランスポーターの研究によると、この遺伝子の最もスコアに差異が発生したのは不運に対してである。不運が発生した場合、ⅬⅬ型の方がSS型と比較し、明らかに鬱に強いことが判明した。しかし、不運が起こらなかった群ではⅬⅬ型もSS型もうつ病になる確率は変わらなかった。個人レベルの観点から見れば、重大な悲劇さえなければ、この特性そのものは誤差の範囲に収まりそうではある。

この感覚処理感受性に影響を与えるセロトニントランスポーターの遺伝子が長い、つまりストレスに鈍感なⅬⅬ型は欧米で3割ほどに対し日本人は2%以下である。またセロトニントランスポーターの遺伝子が短い感覚処理感受性が敏感な遺伝子は欧米が2割以下に対し日本人は7割以上を占める。割合としてアフリカ>欧米>アジアの順でⅬⅬ型が減少している。

上述にあるセロトニントランスポーターを念頭に置き、東洋の文化的特徴が幸福的価値観にどのような影響を与えているのかを考えてみたい。それはつまり、人種によって楽観的、悲観的な気質の差異が存在するという観点で思考していく。東洋の仏教は世間の欲からの解脱、平常心、穏和な心を得ることを目指している。仏教の考えは諸行無常にある。物事は常に流動的であり、滅びるものを滅びないと信じ、執着することが苦しみの始まりであると説くのだ。このようにネガティビティバイアスからの解放をメインコンテンツに据えているのがアジアの宗教であると言える。人は常に心配や不安を抱えている。それは本能的に死を感じさせるものだからに他ならない。苦しみは最も人の意思決定に影響を与える。悲劇に敏感な民族であるがゆえ、心の平穏を追い求めることが幸福であると信じることは、至極自然な帰結であると言える。

日本人は身近なストレスに対し特に敏感で、それは特に人間関係に現れる。日本人の自意識は他国に比べ、より『相互依存』的であり関係性や役割を重視するのだ。

では人がストレスの軽減だけで幸せになれるのかというと、そうは思わない。人間とは何かに情熱を注がないと生きるに値しないというアリストテレス的前提があるからだ。

アメリカは多くの移民を受け入れており、そこに住む彼らは様々な人種の移住が前提の人間関係を長く続けてきた。なんと1年間に人口の20%もの人たちが住居を変えていくのだ。そのため独立性や社交性に対して価値を感じている。初対面の人と仲良く出来なければ一人前とは呼べない、という感覚があるのだ。人間関係の安定性がない代わり新しい人間関係の開拓は比較的容易であるため、社交性の価値が結果として高くなる。それは欧米のまるでビリヤードの玉のような個人主義の説明にもつながる。セロトニントランスポーターの影響はこのような移民受け入れに関して最も特徴的な差異を生んでいるのだ。

個人主義の強い西洋であるほど、友人関係の満足度と人生全般の満足度は相関関係にある。なぜなら対人関係の技量がある人は友人関係にも満足しているし、それが自尊心にもつながり人生全般の満足度も高くなる。

日本ではたまたまクラスを一緒に取ったからとか、一緒のサークルに在籍していたからという理由で友人関係が生まれることが多いため、簡単に逃げ出せるものでもない。そのため人生に満足している人はいても、友人関係への満足感との相関が低くなる。

このような違いは嫌悪の感情比較でもよくわかる。異文化間研究を行った際、社会的な事象の嫌悪をアメリカ人は残虐な行為や暴力、人種差別だと捉えるのに対し、日本人は他者との適切な調和や正しい関係が達成できないことに反応した。島国という他民族の存在しない中で文化の成熟が進んだ日本は、自国の民族や資源、思想への依存度の高さ、多様性や異文化を許容しない排他的性質を持ち、それを島国根性と揶揄されることがある。しかし、それは条件次第であるという事は知られている。日本人でも人間関係が流動的であり自分で新しい人間関係を切り開いていこうという意識の強い人では、アメリカ人のような独立的自意識を得ることがあるし、神経症傾向が敏感なアメリカ人もまた排他的な島国根性を見せることは決して珍しくない。

繰り返しになるが、セロトニントランスポーターの設計が民族文化の重要な要素となると私は考えている。アジア圏ではネガティブに弱く苦しみからの解放が重要視される。敏感であるため周りの些細なことが気になり、大局的な問題よりも人間関係の調和など、肌で感じる問題を重要視するのだ。反面ネガティブを感じづらい欧米圏では独立や自立に大きな価値が置かれ、個性の発揮こそが一人前の証であると考える文化が根付いた。

個人の肉体デザインを語るうえでセロトニントランスポーターは必ずしも重要な意味を持たない。しかし、それを民族のような集団で捉えた場合属性の総数が多いほど文化に対する影響度は当然膨れ上がっていく。世界の常識を創るマジョリティセンスの根幹はここから生まれるのだ。

それを示唆する研究がある。ヴァージニア大学の心理学者である大石繁宏(おおいし しげひろ)准教授とエド・ディーナー教授の回顧的満足度調査というものがある。これは欧州系アメリカ人とアジア人の日々と過去一週間の満足度を比較したものだ。結果、欧州系アメリカ人の過去一週間の満足度は日々の平均値よりも大きい優位性を出した。一方アジア人は過去の満足度評価は日々の平均値とほとんど変わらなかった。なぜそのような事になったかという結論の考察として次のようなことが考えられる。過去を振り返るという事は細かいことは忘れているわけだから、個人の持つ自己概念や信条が基礎となり、幸福であると判断しているようなのだ。この「自己概念や信条」とは、バイアスがかかった個人のものであるという考え方が一般的だ。しかし、民族間でその「自己概念や信条」に影響があるという事は何を示唆しているのかというと、文化的な差異が幸福に影響していることは十分に考えられる。セロトニントランスポーターやそれが育んできた宗教を背景とした文化が意思決定に影響を及ぼしているという結論が、私の中で最も整合性が取れている説である。

幸福という概念が国ごとによって大きく変化しているのは、全てがこの人種間の肉体の特徴が原因なのだろうか。他の国の幸福論を知ることは幸福を定義するうえで一つの要素であるため、考えていきたい。

カリフォルニア大学リバーサード校のソニヤ・リュボマースキー教授はロシアの幸福観についての研究を行った。結論、ロシア人は幸福を『無垢ではかないもの』と捉えていることが分かった。ロシアの文学者、フョードル・ドストエフスキーの最後の長編小説『カラマーゾフの兄弟』、帝政ロシア末期の小説家レフ・トルストイの『戦争と平和』には共通点が存在する。それは両方とも幸福は子供を描写する際に使用している点だ。欧米は能力主義であるのに対し、ロシアは報酬に透明性がない。そのため幸福感は子供時代の一時的なものであると考えるのだ。

延世(ヨンセ)大学のソ・ウングック教授は韓国の幸福観を研究した。韓国人は一人の人間が一生の間で経験できる幸福感には限りがあり、今沢山幸福を感じている人は幸福感を使い果たしているという考えを持っていることを発見した。長く苦しいデフレの中で生きてきた我々日本人の感覚も、この幸福観とどこか似ている。努力を惜しまず、まじめに取り組めばいつか報われるという自分に都合の良い思い込みをしないと、苦しみの説明がつかないからだ。経済学者のジョン・メイナード・ケインズが言うように「長期的にみると私たちは皆死んでしまう」という事を皆忘れてしまうようだ。苦しみの許容を満足の遅延と同列に並べてしまうことは、大きな痛みを生むことだってある。ケインズはそのことは「最高級のオーディオ機器が買えるときに、もう音の違いは聞き分けられない」と表現している。

国ごとの幸福感は、人間という生物が特定の環境下に置かれた場合、どう適合するかという一種の試行錯誤の歴史が垣間見える。それは時に共感を生んだり、理解できない隔たりとなったりすることもあるかもしれない。しかし、それはあくまで俯瞰的な視点で見た場合のカテゴリーである事は覚えておかなければならない。本質的な幸福とは普遍的かつ汎用的でなければならない。人間の芯となる部分を知ることが出来たなら、このような多様な幸福論の全てが下位概念であることを理解できるだろう。

今度は民族単位ではなく個人単位。つまり実際の『あなたの肉体』のデザインが幸福とどこまで相関しているのかを考えていきたい。

それは遺伝子が幸福を決定づけるという説だ。ミネソタ大学の有名な心理学者デイヴィッド・リッケン教授、アウカ・テレガン教授の研究を参考にする。それによると、幸福とは約80%が遺伝で決まるという、なんとも衝撃的な論文に仕上がっている。これはアメリカ心理学会の公式ジャーナルである『サイコロジカル・サイエンス』という一流学会誌に出され、実際大きな物議をかもした。

一卵性双生児と二卵性双生児の幸福感の差を測定し、測定誤差を排除した結果、遺伝子影響率が80%という結果となったようなのだ。一卵性双生児と二卵性双生児の決定的な差は、受精卵の数である。どちらも双子であることに変わりはないが、一卵性双生児は二卵性と違い遺伝子が同じであるため、性別や血液型も同じになるのでる。そのため、遺伝子影響の優位性を観測するため、この一卵性の双子は例として良く取り上げられる。

この手の例題としては、双子のダフネとバーバラの話が有名だろう。彼女らは一卵性双生児で生まれた。しかし、生まれてすぐに別々の家族に引き取られ40歳になるまでお互い会う事はなかったのだ。そんな彼女たちには驚く符合がみられたのだ。

血や高所を怖がる。コーヒーは冷やしてから飲む。掌で鼻を押し上げる癖を『押し上げ』と呼ぶことなど。それ以外にも16歳で将来の夫と出会い、一度流産をしたのちに、二男一女をもうける。これらが全て一致していたのだ。出会った時も同じような服を着ているところさえ符合していた。

では本題の幸福感に関してはどうだったのだろうか。二人とも非常によく笑うポジティブな性格を持っており、人生への満足感も似ていたのだ。通常であれば環境が違えば幸福感とは異なって当たり前だという考えが一般的である。性格を決定しているものは大きく二つあると考えられている。まずは双子のダフネとバーバラの例でも分かる通り、遺伝的側面だ。環境から刺激を受ける前に決定的な方法で反応する傾向のことである。つまりはよく音が聞こえたり、太陽がまぶしいとくしゃみをしてしまったりするような、生物的反射で形成される人格の一部である。これは教育という環境によって形を変えることもあり得る。二つ目は個人が自らの発達を通して経験する教育実践と経験である。環境の物理的、社会的、文化的要因と相互作用しながら発達するのである。一言で言うのならば容姿、知性、人種や気質は両親から。それが時代によって形成が変化し性格を作り上げるのである。

彼女たちがどれだけ離れていたかは、実は重要ではなかったのだ。どの時代に生まれ、どのような教育を受け、どの時代で生きてきたかが性格に影響を及ぼすのである。概ね同じ時代であれば、ポジティブな性格遺伝子が幸福に大きく影響している、と言われるのも納得できる。先述のセロトニントランスポーターもその一つであるのだが、双生児研究ではもっとダイレクトに幸福感と結び付けている。人の平均幸福度における全分散の50~80%が人生経験よりもむしろ遺伝的な相違で説明できることを示したのだ。私たち人間は明日こそ幸福になろうと今泥水をすする選択肢を取る事の出来る生き物であるが、それが全くの無意味であるかのような論法は過激でまた、目を引く。

この遺伝子と幸福の相関は側面的には正しいが、すべてではないことは強く言いたい。私が幸福と遺伝子の関係性について正しいと思う部分は、実際私たちがぼんやりと想像している以上に遺伝子の影響は大きいという点である。例えば、ビーバーが知られているだろう。その独特で愛らしい見た目の彼らはいつも子供たちの人気者だ。家族群で生活するビーバーたちの最も代表的な習性と言えばダムづくりが挙げられる。ビーバーの子供は一人前になるまで、約2年の歳月を必要とする。その間子供をコヨーテなどの外的から守る為。また餌となる川魚を確保するためなどの理由でダムをつくる。人間以外唯一自分都合で自然環境を作り変える生き物であると言われているのだ。では、彼らは一体誰からあの複雑なダムづくりを教わったのだろう。それは、まさに遺伝子の力である。遺伝子は生物の設計書と言われているが、どうやらビーバーの遺伝子には建築の図面が埋め込まれているらしい。指導も言語もトレーニングもなしにあんなにも機能的なダムを作り上げることができるのだ。

では、遺伝子が一体どのように幸福と相関の高い、楽観性と関係してくるのだろうか。これはアメリカ心理学会の質問紙調査の研究で該当するものがある。内容は以下の2グループ群のどちらの方が自分に合っているかを調査するものだ。

 

Aグループ群

楽しいだろうと思えるのであれば、いつでも何か新しいことに挑戦したい。

欲しいものをつかみ取るチャンスに遭遇したら、私は即座に行動する。

何か良いことが起こると、それに強く影響される。

よくとっさの思い付きで行動する。

 

Bグループ群

失敗するのが怖い

批判や叱責にとても傷つく

何か重要なことが上手くいかなかったり、できなかったりした時のことを考えると不安になる。

他の友達に比べて私は怖がりだ。

 

Aグループが合っていると感じた人の脳は前頭左側において強い皮質活動を示し、Bグループの方が自分に合っていると感じた人は、前頭右側に強い皮質活動を示した。これが遺伝子の優位性と幸福感の証明となるというのだ。この前頭左側が強い場合人は楽観的であり、前頭右側が強い場合悲観的であると言われている。遺伝子をもとに作られた人間の肉体は、ビーバーがダムをつくるかのように、幸福の作り方をインプットしているのかもしれない。ポジティブとはつまり神経症傾向で言いなおすのならばそれは楽観性の事なのだが、楽観性と幸福はすこぶる相性が良い。それはセロトニントランスポーター研究で証明されたように、『ストレスを感じることに鈍感である』ため、結果として幸福を享受しやすいのである。

ただ、よく考えてほしい。例えば、逆境研究では人生にネガティブな出来事が少ない人は、生来のポジティブ、ネガティブ等の気質に関係なく幸福な人生であると感じることが分かっている。つまり、この研究は、『生来の気質』と『環境』の二つを比較した場合どちらが優位であるかという事しかわかっていないのである。生来の気質が環境と比較し強力であるという証明にはなっても、そのことと幸福は必ずしも相関していない。科学の歩みはあらゆる分野において公平ではない。特にそれは因果関係に対しどのように推論するかに大きな影響を持つ。科学とは常に推定と証明がマーブル模様のように層をなしており、どれほど客観性を持った数値があったとしても、それが因果であると結論を出すのは慎重にならなければならない。では、結局幸福とは一体何なのかという迷宮に迷い込んでしまうことだろう。多くの人はこのような、複雑性の壁に阻まれ思考を停止してしまう事だろうが、それに対して革新的なアプローチをした一人の科学者を紹介しなければならない。それは、肉体と幸福の関係を考えるうえで一つの答えである。

プリンストン大学のノーベル経済学賞を受賞しているダニエル・カーネマン名誉教授だ。彼の有名な実験の一つに収入と幸福度の相関を調査したものがある。人は収入が増えると基本的に幸福度は上昇していく。しかし、年収が800万円を超えたあたりで、幸福度の変化がほとんど変わらないことが判明した。注目すべきはカーネマンがどのような基準で『幸福』を定義化し観測したかだ。

幸福の歴史を少し思い返してみてほしい。ベンサムの功利主義である『最大個人による最大幸福』は『社会的な行為や意思決定』に関する思想だ。一方でカントの義務論では『あるべき生き方』を示し主観的な幸福を主軸に据えた。しかし、カーネマンはそれすら大きな『快楽』という報酬を得るためのルートであると考えたのだ。それは肉体の快楽だけでなく、効力感も、人生の意義を感じる行為も喜びを起こす以上は快楽であるととらえたのだ。

幸福論を語るうえで快楽主義はどちらかで言えば前時代的で退廃的な、いわば過ぎ去った思想の一つであると考えられていた。しかし、カーネマンの快楽主義的な思想の採用はそれゆえ煽情的であり、刺激的だった。幸福のある一つの特性を彼は知っていた。詰まるところ幸福論とは様々な偉人が『編集』しており、誰もが違う事を提案するが誰もが似通っている。幸福とは上位概念と下位概念が入り混じっており、まるでマーブル色をしたスライムだ。どこで切り取っても必ず違う色が混じってきてしまう。幸福の要素もまさにそれと同様に相互依存的であり、あらゆる幸福の観測に快楽は必ず付きまとってくる。その性質を利用したのだ。彼が求める研究の範囲内で使用する幸福はこれで十分であろう。現在でもウェルビーイング研究を行っている経済学者や実証心理学者の一部に絶大な支持を受けている。人生の意義のようなものを数値化する事はできないが、『快楽』や『幸福』はこの方法なら数値として測定可能であることも人気の一つだ。しかし、異論があるのはまさにその人生の意義というものに対してである。

ウィスコンシン大学のキャロル・リフらはこの快楽論に対して批判をしている。快楽を至上とする基準で見た場合ドラッグ擁護に繋がり、それは反社会的であると訴えたのだ。根拠は彼の研究結果にある。

「経験マシーン」と言う面白い思考実験だ。ここに人間が経験することが出来るあらゆる感覚を再現できる機械があるとする。それはあらゆる幸福感、快楽、それを引き立てるための苦しみも再現でき、現実の肉体は死ぬまで栄養や排せつの補助をしてくれる環境が整っている。現実では起こりえないような設定で素敵な夢を見せてくれるのだ。衰えず、死なず、途切れることの無い幸福感を味わい続けられるのならば、それは人類のゴールと呼べるものなのではないだろうか。しかし、実験に参加した多くの学生にとって死ぬまで幸福漬けの人生を良いとは思わなかったようだ。問いに対しほとんどの学生が嫌悪の反応を示したのだ。

なぜだろう。宝くじが当たる事と何が違うというのだろうか。単に幸福漬けがドラック漬けのアナロジーに感じたのかもしれない。だがそうではない。ネガティビティバイアスを払拭できないからである。私たちの行動原理で代表的な一つに『苦しみから解放されたい為に人は行動を変化させる』という特性がある。これは、肉体に大きく依存している。私たちはおなかが減り、排泄が必要で、適度な運動が無ければすぐ衰えてしまう。本能でこれらを無視することは、つまり死に向かっているという事である。不安や心配事ですぐ頭の中がいっぱいになってしまう人は少なくないだろう。これも本能がそれを放置すると命に係わるぞという、古代から受け継がれた信号が私たちを突き動かしているためである。スマートフォンに魂を奪われ、気が付いたら休日が終わってしまった日の夜、あなたはむなしくなったりしないだろうか。実際ミシガン大学の研究でFacebookの時間が長い学生の主観的幸福感が下がっていることが判明している。つまり、現在私たちは肉体があり、その肉体には明確な限界点が存在している。この一点が揺るがない以上幸福漬けとは同時に死を連想させる。少なくとも困難に立ち向かう力は大きくそがれてしまうだろう。人間は他の生物と違い極端に大きな大脳を発達させてきた。その賢い脳は言語や道具、芸術まで生み出した。だからこそ、直感的にわかることもある。世界はとてつもなく複雑なのだ。そのような複雑でランダム性の高い世界の中で一つの『経験マシーン』とやらに人生を依存させるのは理屈の上でも、直感的にも嫌悪の対象になりかねないことは容易に想像できる。また、これには倫理的問題点も発生している。幸福感は誰が上限を設定するのかという問題だ。実際医学専門雑誌に掲載されたドイツ人とアメリカ人の共同論文で同様の内容が取り上げられている。脳深部刺激を行うと人はそれだけで幸福感を得られることはすでに科学の歴史の中で証明されている。その幸福ボタンを押せる場合、上限を設けなければ薬物に取りつかれた廃人のようになることは想像できる。しかし、ここまでがあなたの幸福だと限界を決める権利が、赤の他人にあるのかは甚だ疑問である。少なくとも私にとって『経験マシーン』に入り、他人が介入する与えられた幸福を許容するということは、死と同義である。なぜならやはりそれは仮初の人生だからだ。生きていると言う事は出来ない。真の幸福とは苦しみにまみれた中で生まれるものであると考えている。もしそのような苦しみをも再現するマシーンが存在するとしたら、もはや現実と何ら差はなくなるため結局そのようなマシーンの存在意義は消え失せる。

唯一それを実現している生物はナマコである。ナマコは生まれてすぐ餌場を探しさまよう。良い餌場を見つけたら、まず彼らがすることは自分の脳を食べる事である。餌場があればもう脳の機能を必要としないからだ。果たしてこのような決断を人間が出来るだろうか。もしできる人がいたら、それは人間に必要な発達がなされていないか、人間によく似た別の生物だろう。私たちに肉体が存在する以上『完全に満足する幸福』は永遠にやってこない。

人間の欲望に際限が無いという逸話はこの肉体依存性の比喩に過ぎない。幸福を追い求めることを欲求というのならば、私たちは幸福から逃れることは出来ないというジレンマを抱えることなる。まるで囚人だ。諸行無常とはこのような事からの解放なのだろう。 


 側面的幸福

幸福はあまりに多様であるため、人はあきらめにも似た感情でそれと付き合っている。しかし、幸福を構成するカードを冷静に一枚ずつ並べていくと、上位概念と下位概念に分けられることが分かる。この下位概念を後生大事に抱えていても、真の幸福を把握することはかなわない。なぜなら、整合性がない部分が多すぎるからだ。ここでは様々な多様な幸福の形と整合性について述べたい。

賢人たちは何を基準に幸福を感じるのだろうか。ショーペンハウアーの幸福論も、マーティン・セリグマンの幸福の方程式も前野隆司氏(まえのたかし)の幸福の4つの因子も橘玲氏の幸福資本論も、各々が違う主張をし、一方でそれぞれが説得力を持っている。信者もいればアンチもいる。私自身納得できる部分もあれば、疑問に思う点もある。

なぜ、側面的幸福の段でこれらを取り上げたのか。もちろん貶める気は無く、シンプルに幸福論そのものが側面的であるという答えによるものだ。それは私が編集したものも例外ではない。結論から述べると、何を基準に幸福を感じるかは、『それぞれの適応性による』という科学的に最も避けなければならない地点に着地する。実際個別の問題を解決することに科学が役に立つことはほぼない。だからこそ私は再定義する事に意味があると考える。幸福の上位概念さえ誤らなければ、自然と幸福を定義することは難しくない。そのためには下位概念が一体どのようなものなのかを明確にしていく必要がある。

 自己啓発で言われる幸福とはなにか。自己啓発で用いられるテーマは多岐にわたる。ポジティブ思考や人生の意味の見つけ方、成功の法則、勝利するためのマインド。果たしてこれらに共通する点は一体どのようなものがあるのか。

 特定の自己啓発を例に出すのではなく、一般論的に分析していく。代表的なものはポジティブであることが幸福と相関するという理屈だ。

 アメリカ、ユタ州プロボにあるブリガムヤング大学の研究だ。100人を2グループ群に分かれてもらい4週間の日記をつけてもらった。A群はポジティブな出来事のみの日記を、B群には普通の日記を書いてもらった。結果ポジティブな日記を書いた方が、幸福度と満足度が高かった。このような研究をだしに使い、もしくは神聖化し人は『ポジティブでなければならない』という幻想を抱く。

では、本当の意味でポジティブな人間とはどのように生まれるか知っているだろうか。私は人間の五感の強度がセンスに大きく依存し、一少数派なセンスをもつ人間が一定数生まれるという考えを持ってい。幼児期の発達により適正化された感覚処理感受性が人のポジティブ、ネガティブを決定づける。このポジティブ、ネガティブを楽観性、悲観性と言い換えて説明を続けよう。

自己啓発におけるこのような『スキル』や『センス』の授業はよく見かけるが、では人類で最初に『スキルやセンス』の授業をした人は誰から教わったのだろう。長年の研究とトレーニングの末に楽観性を身につけたとでも言うのだろうか。それはとても愚かな誤りである。生物は皆大自然で生き残る為に、幅を持つようできている。つまり楽観性とは、元々一定数の人間が当たり前に生まれ持つ肉体のデザインである。ここで少しややこしいところは、状態としての『楽観』『悲観』はデザインと切り離されたところにある事だ。つまり、個人の素養として『悲観性』を持ってはいるが、楽観性にあこがれ、頑張って勉強しトレーニングの末『疑似楽観』を身につけることがあるという事だ。その先に幸福があった場合、自己啓発セミナーとやらに大金を支払う事もやぶさかではないのかもしれない。

しかし、皆さんの想像通り世界は嫌気がするほど複雑だ。複雑にしている要素の一つが遺伝子の『セットポイント』だ。自己啓発での決まり文句はなんと無くわかる。「あなたもきっと変われる! さあ今すぐ行動しよう。怖いものなど無いもない!」だろうか。そして、行動した先の先で待っているのは、結局何も変われなかったみじめな自分だ。この事に問題があるとすれば、その時の変化できなかった自分をどう理解するかを、多くに人が誤って認識している点だ。行動をしようとしても継続できなかった自分を責めるだろうか。継続しても変化のない自分の才能なさを責めるのだろうか。お金をもらって教えている側とすれば『達成出来ない人達全員に責任なんて持てない』という気持ちになるかもしれない。何のことはない。それが人間なのである。悲観性を持つ人間は遺伝子レベルで悲観性という個性をもつのだ。一時的に楽観性を手にしたとしても、空に向かって投げたボールのように、必ず手元に戻ってきてしまうのだ。ダイエットであろうと教育であろうとその願いは叶わない。二―バーの祈りをご存じだろうか。アメリカの神学者ラインボルト・ニーバーが作ったとされる祈りの一節だ。

「神よ、変えることのできないものを静穏に受け入れる力を与えてください。
変えるべきものを変える勇気を、
そして、変えられないものと変えるべきものを区別する賢さを与えてください。」 

この「変えられないものと変えるべきものを区別する賢さを与えてください」こそが、自己啓発を受ける人にとって最も重要な要素であると考える。自己啓発において元々楽観性の感覚処理感受性を持つ人間がそれを最大化しているだけのコンテンツであると捉えると整合性がある。悲観性の人間はネガティブな反芻思考に嫌気がさした時、一時的な思考法として『楽観性』を学ぶことは良いことである。しかし、あたかも永続した効果が有るように誤解し、人生が変わったと誤解してしまうと、失望も大きい。価値のある自己啓発が多い反面、それが自分のものになるかは適合性によるところが大きいという事だ。

自己啓発は大衆心理学というものに分類される。人は自身の認識を通してでしか世界を見ることができない。だから解釈をコントロールすれば世界をコントロールできると説く。これも非常によく使われている理屈だ。例えばこのようなエピソードがある。 

『ある女性は子供のころ父親が家を出ていったしまったため、長い間悩み苦しんでいた。自分が嫌いになったのだろうかという自責の念。父親が憎いという憎悪。そのようなものが彼女を蝕んでいた。それを変えたくセミナーに行った彼女はこう問われる。

「お父さんはあなたを傷つけましたか」

父親は一度たりとも彼女を傷つけたことはなかった。ただ出ていっただけということに気が付き、結果長い苦しみから解放されたのだ。』

この後日談は知らないため、本当に彼女が救われたのかはわからない。しかし、彼女のようにもう変えることの出来ない苦しみに悩み続けている人にとっては効果的だ。なぜなら、これはうつ病の認知行動療法と同じような手法を用いているからである。

ペンシルベニア大学のアーロン・ベックは認知療法の創始者だ。患者の不合理で自己批判的な思考について彼は疑問を投げかけた。患者には共通した3つの歪んだ思考がある。『私はダメだ、世間はひどい、私の将来は暗い』という信念だ。これが体に満たされ機能不全に陥ることが鬱であると考えたのだ。この歪んだ思考に一つ一つ『なぜ』を投げかけていくことで患者の状態が上向くことを彼は発見した。歪んだ思考プロセス過程を取りまとめ、患者をトレーニングしたことが認知療法の始まりなのだ。

では一体なぜ認知療法が自己啓発と結びつくのか。それは、神経言語プログラミングという理論が橋渡しをしている。言語学者のジョン・グリンダ―とリチャード・バトラーによって提唱されたコミュニケーション、能力開発、心理療法にアプローチする学問である。個人の主観性、主観的な経験に大きく焦点を当てており、当初は心理療法とカウンセリングの重要な進歩ともてはやされた。しかしその効果を裏付ける質の高い研究は無く、複数の専門家からは疑似科学ともみなされてきた。結局クライアントにとって有効かどうかをという実用性を重要視しており実践者の多くも理論的根拠はないと考えられている。これが日本にやってきたのは1970年の終わりごろで、当時の臨床心理学者たちがカウンセリングの一種として翻訳・紹介していた。これを一部の自己啓発セミナーの関係者、元関係者らが積極的に導入しているため、現在の自己啓発セミナーでは珍しくない方法論となったのだ。

実際物事への正しい認知は歪んだ思考を取り除いてくれる。これで苦痛が和らぎ『救われた』と感じる人がいてもそれは珍しいことではない。自己啓発はある種『うさん臭い』の代名詞に感じられる節があるが、自己啓発が運用する大衆心理学には確かに価値はある。鬱と診断される前の鬱屈とした悩みを抱えている人間を、疑似認知療法で癒すことが出来るのだ。精神疾患予防という観点では非常に有用である。

成功も幸福もスキルもキャリアもお金も、この認知療法の延長線上にある。つまりお題目はさほど重要ではないのだ。認知療法として一時的にでも自分の不安を取り除くことが着地点となるため、本当に成功するとか幸福になることは重要ではなくなる。

自己啓発を受ける人を嘲笑したり、自己啓発そのものに嫌悪を感じたりする人もいる。それは、この大衆心理学的役割が大きくかかわってくる。まず前提として、うつ病の治療法は現在様々な方法が確立されている。運動、食事、ペット、認知、投薬等。この単語の後に『療法』という言葉が付き、いくつかの研究によればそれらは同程度に効果を発揮していることが分かっている。つまりは適合性の問題なのだ。人体と治療を語るうえで、この適合性が大きくかかわってくる。自己啓発セミナーで用いられる認知療法の一種である大衆心理学もこれから逃れることは出来ない。投薬と違い、効果を受講者本人に依存する形の治療法は結果的に理解者が減っていくだろう。それ故に才能のある奴だけついてこいというスタンスを取るのだ。そうすれば適合できた人間は優越感も同時に得ることができるだろう。自己啓発を促す人たちはそれを治療だと思っていない。それは成長や変化、成功と言う言葉で表現され、実際啓発を行う本人自身がそう信じている場合もある。この場合、認知療法の題材が『錯覚』であり肉体の欲求をある種『騙す』ことが目的であるため効果が得られなかった大半の人たちからは理解されなくて当然だろう。私がオカルトエコノミーの研究を行った際、錯覚に対し人はいくら支払えばよいのかという疑問を持ったことがある。結果として適正な価格がわからなくなるばかりか、高額を支払う可能性が高いことが分かっている。錯覚を用いて効果を謳うビジネスは多く存在する。超常系では、占い、オーラ、チャクラ、言霊、前世、波動、宇宙の力。マインド系では、引き寄せ、返報循環系、自己啓発が含まれる。自己啓発はさらに成長、成功、変化、解放等の細分化が存在している。錯覚を扱い利益を得ることに忠告があるとするならば、あまり欲張った金額設定にしない方が良いだろう。あとは説明のたびに「※ただし効果には個人差があります」もしくは「あくまでも個人の主観です。効果を保証するものではありません」と付け加えることをお勧めする。

自己啓発に限らず、大なり小なり人は救いを求める。苦しみから逃れたいという思いは人の悲願だ。しかし、物事にはどんなものでも必ずトレードオフの関係が存在する。もし今苦しんでいる人がいるとしたら社会学の創始者であるエミール・デュルケームの研究を知ってもらいたい。彼はヨーロッパ中からデータを集め、自殺率に影響する研究を行った。結果、束縛が低い人ほど自殺する可能性が高いことを発見した。デュルケームは「人は人生に意味と構造を与えるために、義務と束縛が必要である」とのべている。「人類の目的とはなにか」という問いに対し、私が出した答えは「人類に降りかかる問題を解決し続けること」である。悩み、苦しみ、変えられない。だからこそ人は輝き、卓越していく。それもまた幸福なのである。私はそれに気が付いてからはほんの少しだけだが苦しみを愛せるようになった。意外と悪くないものである。 


比較と幸福 

 もう一つ幸福について誤解を解いておかなければならない。それは幸せな記憶である。誰しもが子供の頃の幸せな時期を振り返り、その当時に戻りたいと願うだろう。この記憶の中の幸福は幸福で違いないのだが、どう扱えばよいのか誰もわからない。むしろ過去の良かった記憶にとらわれすぎることは、不幸であるとさえ言われている。私たちはそもそもなぜ幸せな記憶を大事に持ち続けているのだろうか。それは日常的に意思決定を行う際の引き合いで使用する為に他ならない。

このようなデータがある。
2019年の世界幸福度調査だ。

1位 フィンランド 2位 デンマーク 3位 ノルウェー

日本 156位中58位 アメリカ19位 韓国54位

一人当たりの国内総生産、一人当たりの国内総生産社会的支援の充実、健康寿命、人生の選択の自由度、寛容さ、社会の腐敗の少なさの6項目の総合で選ばれる。

中でも人生の選択の自由度は64%、寛容さは92位とかなり低い。これを見ると日本は、不寛容で選択肢が少ない国である。問題はここからだ。ではあなたは選べる選択肢が少なくて不幸だったか。あなたの周囲の人間、ないし環境は寛容ではなかったか。それが原因であなたは不幸と思ったことが最近一度でもあっただろうか。おそらくこのランキングほど感じてはいないはずだ。確かに改めてランキングを意識してみると、不寛容な社会だなと思い当たる節はある。しかし、このランキングを見なければ死ぬまで気が付かなかった不満かもしれない。人は幸福が漠然とし過ぎて何が幸せか全くわからないのだ。レモン何個分のビタミンCなのか、東京ドーム何個分の広さなのか。理解しづらいものを人は良く何かに例えたがる。むしろ例えることでしか人は理解することは出来ない。幸福は古今東西あらゆるものに例えられてきた。そのため、誰かが言い出した『これが幸福である』に引っ張られ、自身の幸福感をないがしろにしてしまう。

これを私は幸福のアンカリング課題と名付けた。過去の記憶は『何と比べて』幸福かという判断を行うためのアンカリングに過ぎないのである。アンカリングとは意思決定理論で主に使用される用語である。幸福のように情報の不完全領域が広い場合、その場に錨(アンカー)を降ろし意思決定を調整していく。私が参考にしているアンカーは過去の幸福論や研究である。アンカリングは、本物のアンカーと同じような機能も持っている。実際の船がアンカーを降ろした場合、船はその場を中心に一定範囲内しか動けなくなってしまう。私たちは専門性を持ちえない分野に対して、今所持している知識だけで判断する事しかできず、最も有効な知識をアンカーにしている。その範囲内でしか私たちは理解することが出来ないからだ。

そのアンカリングで代表的なものの一つが『成長』である。カナダのウォータール大学、マイケル・ロス教授の研究では、人間は過去の自分を未熟視することで現在の自分を良いものだと捉える節があるようだ。思い出すという事は、裏を返せば細かいことは忘れてしまうという事だ。つまり、幸福も成長も『実際記憶の中の出来事が再現されたとき、どう感じるか』は別物になるはずだ。記憶の中の出来事とは良くも悪くも、現在の意思決定における判断材料の一つでしかない。そこには目的も合理性もなく、本能のまま、ただただそのように機能する。

他にも研究で、過去の幸福度はその時の結果によって、現在の幸福に優位な相関を持つ事が分かっている。人はほとんどの場合、「今の自分の生活に満足しているか。今幸せか」という問いを聞かれて初めて考えるものである。参考にした実験では、学生を集め「幸福かどうか」のアンケートをとった。2週間後同じ人間に同じ質問をした際、幸福度の相関はわずかしかなかったのだ。つまり、人は過去の幸福度を評価する時、その時の気分や天気などにも左右されてしまういい加減なものであることが証明されてしまったのである。しかし、この研究には続きが存在する。トロント大学のウーリッヒ・シマック教授とヴァージニア大学大石繁宏准教授らの研究では、期間を空けてリテストを行った際、異なる結果が導きだされたのだ。それによると、過去の満足度を高いと評価した被験者は、現在の幸福度も高いと評価する割合が高かったのである。将来における重要な要素を獲得している場合、さらに長期のリテストでのスコアも近似値を出すことが出来たのだ。結果として、最近の研究では、回顧的自己報告はバイアスがあるものの、幸福に向かう意思決定の際には重要な役割を果たしていると考えられている。今までの人生幸福であったと思える人は、将来も幸福になりやすいということなのだ。その意味では、記憶の中の幸福は幸福の仲間に入れてあげても良いような思いはある。


 

快楽のカード お金と幸福

私は幸福が4つの概念で成り立つと考えている。この概念を身近な物質に例えるとするならば『カード』である。それは形状としてではなく、概念としての『手札』を意味する。ここから先はこのカードに対して理解を深め、幸福への本質へ迫っていこう。

快楽とは肉体への依存が高い。正確に記すならば、自分一人で完結する感覚性報酬を私は快楽であると定義する。この『快楽』というカードにはいくつかの前提が存在する。

消費者理論で主に使用される限界効用逓減の法則(ゴッセンの第1法則)というものがある。1870年以降の経済学では、限界効用という考え方に基づいて理論、主に消費者理論が作られている。その一つとして「限界効用逓減の法則」が成り立つ。限界効用とは効用関数の微分。つまり、X軸回数1におけるY軸効用の伸び率の変化である。逓減とはこの値が回数を重ねるごとに減少することを表す。

幼少期の頃だ。生まれて初めてハンバーガーを食べた日のことを私は今でも忘れない。こんなにおいしいものがあるのかと驚いた。しかし、2回目はさほどでもなかったことに少し落胆し、思い出を美化してしまったのかと自分を慰めた。皆さんもそのような経験はないだろうか。この『2回目は感動できなかった感覚』がこの限界効用逓減の法則を上手く表現している。快楽とは、効果が落ちていくものなのだ。脳は快楽を得るとそれをまた得るためにその時の記憶を脳へ強力に刻み込む習性がある。栄養の高い食べ物を『おいしい』という快楽に置き換えそれを習性として反芻させる生命の知恵なのだ。しかし、実際に得られる快楽は、期待値を下回る。脳内のドーパミン受容体と呼ばれる機能が次第に耐性のような機能を持ち始めることが原因だ。それ故に私たちは『あの時の忘れられない経験』と呼ばれるもう二度と来ない快楽を永遠に追い求めなければならなくなってしまう。

瞬間の快楽は強烈であることの引換えに、長期的な幸福への貢献度はさほど高くない。体感性報酬である快楽は、テレビや服などの『物質的消費』よりコンサートや旅行などの『体験的消費』の方が強い幸福度であることもヴァン・ボーヴェンの研究で分かっている。このボーウェンがカテゴリーした『物質的消費』と『体験的消費』は本質的にはどちらも『体感性報酬』ではある。ここで一つの仮説が成り立つ。この研究だけを見ると人体のマジョリティデザインは物質的なものより体験的な快楽の方が幸福により強い相関性を持つと言えるかもしれない。それでは、物質を所有する目的とは一体何なのかというと、それは全て体感性報酬のためであると言える。家族と一緒に映画を家で見るために大きいテレビを購入した人は、家族との関係性を幸福と感じているのであり、そこに物質のテレビがわずかに紐づけされているだけである。また、旅行に幸福を感じる人は、一人旅で美味しいグルメを思う存分満喫するためであった場合、それは食事という一時的な快楽に大きく依存してはいないだろうか。ボーウェンの分けたカテゴリーでは何ら幸福を分類することは出来ない。少なくとも、お金がからむからそれは全て同列であると考えるのは浅慮である。

本書では幸福のカテゴリーを『快楽』『役割』『卓越性』『心的サポート資源』の4つに分類している。本来であればこれらを網羅的に説明した後に具体例を使用するのだか、幸福は複雑にからまりあっており快楽の説明一つとるにもこれらなしに十分な理解は出来ない。そのため一時的に残りのカードを簡易的に説明する。『心的サポート資源』とは心の拠り所を指す。また『卓越性』は得意なこと、『役割』は社会的な立ち位置だと考えてもらって構わない。

これを用いた場合、説明は非常に明確にできる。家族と映画を見るために、購入した場合その幸福は『心的サポート資源』(心の拠り)への投資である。また一人グルメ旅行に行った場合の幸福は『快楽』であるが、それが社員旅行の幹事であり、やりがいを持って充実感を感じた場合『役割』が当てはまる。つまり、真の動機こそが幸福と紐づいているのであり、それ以外を幸福とした場合ミスリードであるか、側面的なものである可能性は高い。世界価値調査ウェブサイトによると1981年~1984年と2010年の幸福度を比較すると、総じて2010年の方が幸福だと感じる人が増えている。1981年はまだバブル期であり過去の日本において最も豊かだった時代である。つまり経済成長のようなものも幸福と相関はないのだ。必ずしもお金=幸福でないことを証明することは容易い。

今取り上げた快楽の特徴は非常に重要であり、また本質的である。快楽は長期的に見て幸福へ大きく貢献していない。それはこの後の幸福のカードの説明でより明確になるだろう。瞬間的な脳内の分泌物という意味で幸福を計測するのならば、高いスコアは出せるかもしれない。しかし、原則として快楽は効果が逓減していき、かつ維持、ないし購入コストが上がっていく。しかも幸福の持続性が短く一時的なものである。これは快楽を理解する上での前提となる。

これを理解したうえで快楽とお金の関係性について別の視点で述べていきたい。快楽とはそもそもあらゆる幸福と相互依存的であり、カーネマンが行った幸福度分析のように全ての欲求も苦しみも快楽と呼ぶことが出来てしまう。観察するという一点では優秀ではあるが、人間の複雑な本質を捉えるにはいささか単純すぎる。

このままカーネマンの幸福度調査を例に挙げて考えていきたい。収入の増加による幸福度の上昇には限度があるというものだ。正確には年収800万円を超えたあたりから、幸福度と収入は連動しなくなる。年収300万の人が年収600万に上がると収入と同様にほぼ倍の幸福度の変化が訪れた。

ではカーネマンはどのように幸福度を調査したのだろうか。カーネマンが用いたのはなるべくその時の主観に影響を受けないリアルタイムで報告を行う『経験抽出法』だ。これは経験サンプリング法とも呼ばれ調査対象者から一日数回×数日間にわたって繰り返しデータを取得するという調査方である。被験者はたとえ、食事中でも、シャワー中でも、恋人と愛し合っている時でさえ、カーネマンからの「今幸せか」の問いにこたえなければならない。この方法によってカーネマンは年収が一定額を超えると幸福との相関が逓減していくことを証明したのだ。

これだけを見ると、やはり人生お金より愛であるという、一種の道徳的な誘導となりそうなので、そこは否定したい。お金と幸福はそんなに単純ではない。

コーネル大学の経済学者であるロバート・フランクはカーネマンの幸福度調査に疑問を持った一人だ。彼は『人間はいったん基本的欲求を満たされてしまうと、お金はそれ以上の幸福を買う事が出来ないのではないか』と考えたのだ。証拠を注意深く考察した結果、年収が一定以上上昇した人は、単にどこの店に行けば良いか知らないだけであるという結論に達した。

年収が200万円以下で、毎日チェーン店の牛丼を食べた人間が年収600万になったら、うなぎを食べるかもしれないし、寿司を食べるかもしれない。800万になったら、そのグレードは上がるかもしれない。では倍の1600万になったら、次は何を食べるか答えられる人はいるだろうか。本来お金の価値は量で決まるが、それは受け止めることの出来る社会規模によって同じ100万円でも価値は全く異なるのだ。生活圏内にあるインフラ以上の価値をお金は提供するとこが出来ない。逆に、高い価値を提供する店を知っていれば、年収の増加と幸福度の相関は逓減が先送りされることもわかっているのだ。

ビジネス誌『フォーブス』に掲載された心理学者ビスワス・ディナーの研究でも同じようなことが分かっている。満足度7点満点で採点した場合、各地域の人間がどれくらいの点数をつけるか調査したのだ。

アメリカの大富豪 5.8

東アフリカマサイ族 5.4

ペンシルベニア州 アーミッシュ 5.1

(アーミッシュとは現代文明を否定する人たちのあつまり。家電や電話を使わず馬を使って農業を営み、家具などを作る。)

イリノイ大学学生平均 4.7

カリフォルニアのホームレス 2.8 

社会規模でお金の価値は変わるという仮説を一つ証明する形になった。アメリカの大富豪の次に幸福な人は東アフリカのマサイ族である。少なくともカリフォルニアの大学生よりは幸福に暮らしている。しかし、ホームレスはなぜこんなにも幸福度が低いのだろう。それは、金銭があるほど快楽を享受できる社会システムの存在と、すぐ目の前を歩いている子供の手を引きショッピングをしている笑顔の家族は幸福にみえるという高いアンカリングスコアの為だ。一般的に収入が増えても800万円ほどで幸福度は横ばいになるが、カルカッタの貧困地域では経済の豊かさと満足度の相関が非常に高く、収入が上がれば上がるほど幸福度は伸びていった。貧しいこと、そして社会インフラが整っていることが幸福感に非常に大きな影響を与えるのだ。イギリスのニューカッスル大学の行動心理学者、ダニエル・ネトル教授はお金や物質などの『地位財』による幸福は持続性が低く、健康、愛情自由などの『非地位財』による幸福は持続性が高いことを証明している。しかし、それも場所が変われば結果が変わる。もしカルカッタの貧困地域で同様の調査を行った場合、地位財の方がどんな非地位財よりはるかに幸福に結びつくのである。

私が幸福のカードに快楽を入れたのはそれが理由だ。日本は今以上に貧しくなるかもしれない。苦しくなるかもしれない。そのような『感覚』がすでに実感となり私たちの幸福に影響を与えてくる。少なくとも日本人にとって自己で完結できる『快楽』は今以上に重要な要素となるだろう。これを喜ぶべきか悲しむべきか、誰もが好きに決めていいが、その未来は少し寂しく感じる。

 

役割のカード 仕事と幸福

二つ目の幸福のカードに『役割』を挙げる。役割とは自分以外の人間と接する時に生まれる全ての立場を示す。職業はもちろん家族内での父や母であるといった続柄も、スクールカースト内での立ち位置もそこには含まれる。ここで論じるべき役割とは、より直接的に社会と関わる立場を取り上げていきたい。役割の幸福は仕事の幸福を抜きに語ることは出来ないだろう。

仕事に関して「仕事の充実か、もしくはしっかりと休みを取ったプライベートの充実か」等の論争をよく聞く。ワークライフバランスという言葉のとおり、どちらも大切だからそれなりに両立させるべきか。いずれにせよ幸福を追求する場合各人に道が用意されている。

仕事のやりがいと呼ばれるものは、幸福を語るうえで白黒つけなければならない要素の一つだ。やりがいとは心理学用語で「効力感」と表現する。人は効力感に対して強い幸福感を感じる。効力感とは、必ずしも結果に対して生まれるものではなく、また誰かと競う必要もない。

仕事というカテゴリーでこの効力感を説明するにはハーバードビジネススクールの教授であるテレサ・アマビールとスティーブン・クレイマーの研究が例としてふさわしい。彼女らはビジネスの現場で、実際のビジネスマンが仕事に対するエネルギーをどこから得ているのかサーベイ(大規模調査)を行った。元々仕事のパフォーマンスは、仕事の満足度と相関が強いことはわかっている。一方で性格や教育、性別や在職期間などの個別な事情は仕事のパフォーマンスとの関連性は見られない。これはいわゆるエンゲージメント理論で言うところの、『能力よりも自発的な貢献度がビジネスにおける成果の大半に影響を及ぼす』ことを示している。

アマビールらのサーベイでは、ビジネスマンを抱える上司たちの95%以上は「仕事のどの部分から満足感を得ているか」を誤解していたことが判明したのだ。上司たちは部下のエンゲージに必要な要素を「フィードバック」や「目標の設定」、「リソースの提供」や「仕事の手助け」だと考えていたのだ。しかし、人が根本的に求めているものは効力感であったのだ。

代表的なエピソードがある。ある会社の倒産が決まった。その後処理を行う社員は本来であれば報われない。キャリアアップもなく昇給もない。難易度も高くうまく対処しても待ち受けるのは顧客からの不満の言葉だけである。しかし、彼らはチームで最善を尽くし最高のパフォーマンスでやり遂げることが出来たのだ。なぜならお互いが鼓舞しあい、自分の持てる最大限の力でタスクを全てこなすことが出来たからだ。人間の力を最大に引き出す要素は進捗することであることが証明されたのだ。

それは何も特別なものでは無い。スポーツであっても、読書であっても、楽器の演奏であっても、自分が上手くできたと感じる感覚は幸福である。キャラクターをレベルアップさせて攻略していくゲームのほとんどは進捗させる快楽を巧みに使用している。達成感だけならゲームで得られる。

つまり、人を介さずともそのものから得られる進捗が、最も人をやる気にさせる。根源的に持っている生命を輝かせるための条件を満たしているためだ。そして、それは仕事に限定されない。なぜならこの幸福感に金銭の報酬は存在しないためである。広義の遊びこそが幸福であり、それは卓越性と呼ばれるものだからだ。そう。これはミスリードである。仕事に最も重要と考えられていた「やりがい」という要素は「役割」の幸福ではないのである。

組織の目標が明確である事や、仲の良い同僚がいることもまた同様に「心的サポート資源」や「卓越性」といった人生に関わる幸福であり、その要素を「仕事の幸福」という言葉に置き換えただけなのである。人生という言葉は漠然として人はそれが何かわからない。しかし仕事の幸福というスケールまで落とし込まれればそれが何かをおぼろげながら理解することが出来る。仕事の幸福だと思っていたものが、実は丸々人生の幸福であるということはよくある。組織に属していればいつか人は退職するため、幸福の依存度は分散しておかなければならない。

天職だと感じて仕事に取り組むという事例のほとんどはこの延長線上にある。効力感が仕事の幸福に限定されないとしても、実際効力感を感じている現場にとってそんなことは些細な違いでしかない。ウェイターが接客に喜びを感じ、コックが調理するやりがいに日々充実した毎日を送っていることは当然あるだろう。問題があるとすれば、それは限定的であるという点である。

ミシガン州立大学の研究で『好きな事を仕事にするのは本当に幸せか』というこの文脈にふさわしい研究が存在する。好きな事を仕事にした場合、天職だと感じるような幸福感が高い状態は長くて5年までであることが分かっているのだ。徐々に好きになっていく仕事の方が最終的な幸福感は高いこともわかっている。しかし、これは幸福感の遅延に過ぎない。

もう一つの要素として、仕事の幸福感はルーティンであるかどうかに大きく左右されてしまう。その天職と呼ばれるものはつまり効力感を感じることが高い仕事であると予想されるが、長い年月の反復が業務の難易度を結果的に下げてしまう事がわかっているのだ。多くの仕事はこれに当てはまってしまうため、組織は異動や部署変更などを通して、この反復を意図的に減らしている。仕事を徐々に好きになるという期間は効力感を得るために必要な卓越性を育む期間である。しかし、一定以上のレベルで自分を表現できる卓越的な能力を身につけてしまうと、待っているのはやはり反復だ。ここで注目しなければいけないことは、この幸福にすら明確な期限が存在することだ。快楽の期限はわかりやすい。おなか一杯になれば終わりだ。しかし、肩書はもちろん仕事のやりがいに関しても期限があることは、幸福を語るうえで重要な点である。

では、本質的な仕事の幸福とは何かを消去法で探った場合、それは貢献であるという仮説に至った。人はなぜ貢献するのか。そして、なぜ人は役割を持ちたがるのだろうか。

元来人は群生生物であり、狩猟採集時代から集落を形成しながら生活していた。誰しも役割がありそれが存在意義だったのだ。役割がアイデンティティの大半を占めるのは現代でもそれはなんら変わらない。あなたは自分を紹介する際に役割以外で自己紹介できるだろうか? 大半の人間はサラリーマンである、主婦である、親である、友人であるといった、属性を説明することとなる。このような属性を自己と認識することを自己同一性とよび、アイデンティティと呼ばれる。役割を与えられない、もしくは役割を得られない人間は狩猟採集時代において決して長く生き残ることはできない。狩りをするのは男性であり、女性や子供は木の実などを採集していた。けがをした動けない人を看病したという形跡はあるので、見殺しという事もなさそうだが、何か役割をこなさないとそもそも生きていけない状況であることと、仮にその集落で必要のない人間であると判断された場合は確実に死が待っている。役割が無いことは死に直結するため、不安になり大きなストレスを抱えることとなる。現代でもこの不安とストレスだけは残念ながら健在だ。役割が無くても生きていける時代ではあるが、人は際限なく役割を求め続けていくのだ。

役割は人にとってなくてはならないものであることは理解できる。とはいえ役割であればなんでもよいかというとそんなことはない。家の風呂掃除当番と会社の代表取締役が同じということはないだろう。人によって役割とはそれぞれ価値がある。会社員にとって役職は一つの要素である。

古代ギリシャ語では幸福をユーダイモニアと呼ぶ。哲学的思想を持った言葉で本質的に『人間の繁栄・栄華・祝福』といった訳も提案されている。また、もう一つ重要な意味を持っている。それが『花開く』という意味だ。本当の幸福を味わえる人生とは何者かになるプロセスだという思想だ。仕事を通じて私たちは卓越性を得ることで社会に役割を設ける。それこそが人の輝くあり方であるという価値観は今も昔も変わらないのだ。では会社での役割とはどれほど幸福に影響があるのだろうか。

アイデンティティ概念の提唱者エリック・エリクソン、人間性心理学の著者アブラハム・マズロー、来談者中心療法を創始した臨床心理学者カール・ロジャースらはいずれもアメリカを代表する偉大な心理学者だ。彼らはみな同様に自己概念の一貫性が低い人。つまり役割があやふやな人は鬱傾向が強いという結果を出している。役割にも濃度があり強力な役割というものが存在する。社長と現場社員を思い浮かべてほしい。ここで重要な要素として『コントロール』という指標が必要となる。所謂裁量権である。社長だからと言って必ずしも多くの選択肢を持っているとも思わないが、少なくとも社内の一部には強力な裁量権を発動することが出来る。中小零細企業であればそれはより顕著になるだろう。組織において裁量権をより多くもつことが、不安や心配ごとを遠ざけることになり、結果として心理的リスクを回避しているという事だ。

人は裁量権を持っていることに大きな安心や快楽を得る。大自然の中で囲まれる古代の人類はいかに自分がコントロールできる割合を増やすかによって生存率を大きく変化させてきた。言葉が生まれた理由は、物事をカテゴリー化し理解するためであるが、それも現象をコントロールする一つの方法にすぎない。コントロール欲はハーバード大学の社会心理学者エレン・ランガーとジュディス・ロディンの有名な実験がある。老人に植木鉢の世話(植木鉢のコントロール)を任せた群の方が、世話をさせていない対照群と比べ寿命が顕著に伸びることが判明したのだ。これはコントロールを得る事に対してのメリットとして解釈することが出来る。しかし、調査が終わり、老人が世話を行っていた植木鉢を回収したとたん、予想されていたよりはるかに速いタイミングで、老人たちは寿命を迎えたのだ。私たちは何かを自由にできるという感覚を欲し続ける生き物なのだ。しかし、コントロールを失うことこそが、生物として避けなければいけないリスクなのだろう。本質的に役割を全う出来れば人は幸福であるにも関わらず、それは裁量権に随分と依存しているようだ。『好きを仕事に!』のyoutuberでもさほど幸福ではないと感じる人が多いらしいが、成果に縛られてしまうと結果的に休日のある会社員の方が自由である。つまり人生においての自分の裁量権は持っているとも言い変えられるからなのかもしれない。

鈴木祐氏の著書、『科学的な適職』では『仕事の幸福度を決める7つの徳目』という項目が存在する。

1,自由 裁量権があるか。

2,達成 前に進んでいる感覚は得られるか。

3,焦点 モチベーションタイプに合っている。

4,明確 なすべきこと、ビジョン、評価軸が明確である

5、多様 作業内容にバリエーションはある。

6、仲間 組織内に友人はいるか。

7,貢献 どれだけ世の中の役にたっているか。

自身と照らし合わせても、確かにこれが充実している会社に勤めることは幸福であるかもしれない。しかし、『仕事の幸福』という一点だけを見つめた場合果たしてそれはどこまで幸福と関係があるのか怪しいと考えている。仕事に限らずこの条件が満たされれば人は幸せであるということである場合、本質的な要素や優先順位が発生してしかるべきであるからだ。

まず前提として仕事に対するモチベーションに関してはアメリカの臨床心理学者、フレデリック・ハーズバーグの提唱する『二要因論』は純度の高い本質的な要因であると考えている。二要因論とは満足と不満足に関わる要因は別であり、衛生要因と呼ばれる『不満足』と動機付け要因と呼ばれる『満足』の二つで成り立つと提唱した。衛生要因とは「給与」「福利厚生」「経営理念」「同僚や上司との関係」が挙げられる。これは整備されたからと言って満足に繋がるとは限らないが、整備されないと従業員は不満を感じてしまう。対して動機付け要因とは、あればあるほど仕事のモチベーションが高まるものとされている。それは「達成する事」「承認されること」「仕事そのものへの興味」「責任と権限」「昇進や成長」だ。この不満と意欲は相反しないという部分がこの理論の特徴だ。衛生要因が満たされていないが、動機付け要因が満たされている場合、仕事に対し不満はあるが意欲もあるという状態になる。仕事に対する幸福論とはこの二要因論の掌の上でのみ存在するように考える。

動機付けとインセンティブに関する研究でこのようなものがある。簡単な荷運びのような軽度の作業に対して、5セントのインセンティブを与えるグループと、報酬はないが感謝をするグループに分け貢献度を調査した。結果、人は無料で感謝された方がより貢献度が高かった。これは内的動機付けと呼ばれ、人の意欲はインセンティブで失われるという一つの例だ。しかしこの実験には続きが存在する。同じ条件で作業負荷を上げたり、長時間拘束したりした場合インセンティブが発生する群の貢献度が高くなったのだ。人間は仕事に対して誰しも基本的な報酬ラインを設けている。給与や契約料、給付金などお金に関する項目で、不適切や不公平だと意欲をわからせるのは難しい。この報酬ラインの前提条件をないがしろにして、仕事の幸福論はあり得ない。その意味でハーズ・バーグの二要因論は抑えておくべきである。利己心と社会性の間に「公平性」が入るとそこに道徳の核が生まれる。自分だけが幸せならいいという気持ちになる人もいるかもしれない。しかし、それは周りの人があなたに危害を加えない条件で成り立っているのだ。「私を傷つけないでほしい」は「相手を傷つけてはいけない」と同義となり、究極的に自分の幸福追求は他人の幸福追求と差がなくなってしまう。自身の条件面だけみてそれが幸福であると定義することは社会的な役割として誤っている。しかしまた、社会に迎合し自己犠牲の果てに手に入れる給与に幸福の代替えは難しい。報酬ラインとはその「基準値」の役割を果たしているのだ。

オーストラリアにあるクイーンズランド大学のマシュー・ホーンセイは集団幸福と個人幸福に関する研究では次のことが分かっている。「私たちはグループの一員でありたい」という欲求と「他の人と一緒だと思われたくない」という欲求が存在する。この矛盾を解決するため人は「自分の属するグループは他のグループと違い特別だ」と思い込むという。これが職業に対する「誇り」の正体であると考える。『集団の特別性』という概念は本質的には存在せず、組織においては成長戦略の期間中に抱きやすい都合の良い錯覚に過ぎない。しかし、日本の長いデフレや企業の長寿化が結果としてこの共同的幻想を失わせてしまった。残されたのは未だに集団の特別性が消え去ったことに気づかず『集団幸福』の為の貢献が個人幸福より価値が高いと思い込んでいる悲しい人か、集団への貢献を拒むほどのリスクを取る事が出来ない個人主義者という、全員敗者の状態に近い。

幸福観で考えた場合、現代における役割の価値は急落していると言わざるを得ない。テキサス大学デイヴィッド・バス教授は進化論の立場から見た幸福論を語っている。

「狩猟採集時代で我々は小さい集団で暮らしていたので、訳に立つ場面が多々あり、また1番になることも多かったので自分の存在意義を見出すのは難しくなかった。現代ではAがだめならBに頼めばいいというように、同じ能力をもつ誰かに頼めばことが済んでしまう」というのだ。

たしかに人間性の性質上替えが効く役割は真の意味でアイデンティティとはならない。村一番の力持ちを誇れた時代の方が人は役割という点においてはるかに幸福である。SNSの登場で変えのきかない役割はかなり狭められてしまった。身近なもので自分だけが持っている限定的な役割を、もはや父である、娘である等の血縁以外で説明することはできない。習い事のスクール内でピアノの腕前が周りの誰よりも秀でていた。しかし、ふとネットを見ると同い年で自分の上位互換が、ひしめき合い、競争しているのが分かる。現実問題簡単に役割を与えてはもらえないのだ。そこでより顕著になってきたのが承認欲求である。承認欲求と他人から認められていという願望のことであり、アブラハム・マズローの5段階欲求で触れられている上位の欲求である。心理学の三大巨匠のひとりである、アルフレッド・アドラーや19世紀ドイツの哲学者であるショーペンハウアーもこの承認欲求については取り上げているが、いずれもこれに囚われることは人生を幸福から遠ざけるという思想を持っている。

そして、また現代日本においてこの思想が再評価され始めたことは役割の希薄化が進んだことと無関係とは考えづらい。承認欲求を一言で片づけてしまうのであればそれは『本能』である。狩猟採集時代から数万年をかけて人間の脳はそのように進化したのだ。食事は快楽である。そして、承認も快楽である。肉体で見ればそれだけのことだ。SNSのデメリットが役割の喪失だとすると、メリットは役割の細分化である。それは『イイネ』や『グッドボタン』に置き換えられ『コメント』が欲求を満たしてくれる。技術革新が人の役割の形が変えたと考えるのが自然なのかもしれない。

振り返ると、SNSが生まれる少し前まで承認の充足は『役割』が大きく肩代わりしていたという現実がある。それは良くも悪くも世の中の不透明性が人々を会社や肩書に縛り付けていたためだ。社会人とはこうあるべきだという思想を共同でかかげ、上の役職に対し幻想を抱かせることが出来た時代とも言える。敗戦と技術革新で日本人は宗教性の希薄化から免れることはできなかったが、片側で企業がその共同的幻想の一翼を担ってきた。合言葉は「豊かになろう」である。総中流家庭というユートピアのような目標も実現したため、会社で出世することや、勤め上げることは何より幸福に直結する事であった。

その後の日本はご存じの通り、長いデフレからの脱却が出来ず、また同時にスマホが普及し一般人がメディアを持つ事ができたため情報が簡単に拡散し、錯覚の靄が晴れてきてしまった。ひとは苦しむほど、また努力をするほど自分に都合の良い未来を思い描きたがる。しかし、出世しても給与はさほど上がらず、苦しみ続けてしまうという事がどうやら世間にバレ始めたのだ。結果「役職」の個人的価値は暴落した。実は西洋においてもっとも顕著ではあるが、1つの会社、ないし役職に幻想を抱いていた時代は終焉を迎えたのだ。現代は会社からSNSへ『役割』という幸福の価値が移り変わる過渡期なのだろう。


卓越性のカード 自己理解と幸福

おそらくこの卓越性と呼んでいる幸福の概念は説明するうえでシンプルでありながら最も難しく、かつ理解しがたいものかもしれない。私たちは、たくさんの言葉を持っている。しかし、そのいくつかは同じ事柄を指しているのにも関わらず、違う単語を使用していることが往々にしてある。卓越性を複雑にしているのもそのような特性があるからかもしれない。自尊心、拡張的知能感、成長ゴール、自己効力感、内的動機付け。これらの単語は全て卓越性を表現する要素であると考える。しかし、これが「遊ぶ」という単語とも同義であるとしたら厄介さが伝わるだろうか。

卓越性という言葉が思想として使用されたのは古代ギリシャの哲学者アリストテレスが有名である。アリストテレスは自身の哲学書『ニコマコス倫理学』でそれを使用している。それによると、栄養摂取や成長は馬でもできるが、大工や笛吹きが自分の能力を発揮することは人間固有のものであり、それこそが卓越性であるとしている。アリストテレスはこれこそ魂の活動だとし、卓越性が発揮されることが善であり幸福であると説いた。

後に近代経済学の父ピーター・F・ドラッカーもその著書で卓越性という言葉を使用している。ドラッカーは「自らの成長のために最も優先すべきは卓越性の追求である。そこから充実と自信が生まれる」と述べている。どちらもほぼ同様の意味であるが、ドラッカーは人間の強みをどのように組織に活かすか。また、どのような人事で成果を上げるか等の「卓越性の運用方法」についての記述が多い。私の考える卓越性とはその意味でアリストテレスの使用する概念に近しい。

アリストテレスやドラッカーはほぼ同様の意味で「卓越性」という言葉を使用しているが、私の引用元はここではない。フロリダ州立大学心理学者、アンダース・エリクソンの行った才能研究に関する書物で知る事となった、社会学者のダニエル・チャンブリスの言葉を引用している。彼は天才を「卓越性の日常化」と呼んでいる。卓越性とは結局のところ、最終的にそれが社会でどのような役割を担うかで意味が大きく変わっていく。それは長年書き溜めてきた漫画を編集者に見てもらうことと似ていて、それまで積み上げてきた「卓越性」が「役割」に変換されていく。漫画を描くことをゴールにするのではなく、漫画家になることをゴールだと考えると、人間は役割を得るために卓越性を磨くこととなってしまう。結果、人はわかりやすい「役割」にいつも飛びつき、依存していく。役割を最初に得て適応することで、後に卓越性を取得する場合を否定するつもりはない。しかし、真の才能とはやはりまず役割や成果とは無関係な場所で開花する。このことが個人の幸福にとっていかに重要であるかを、気付ける人はごくごく少数である。「卓越性」というワードが成果や役割と離れた、当たり前の日常の中から生まれることを示すに最もふさわしい言葉であると考え、幸福のカードの一つに入れた。

そもそも卓越性は幸福と関係があるかどうかを考えなければならない。卓越性を幸福とするかどうかは、ダニエル・カーネマンの「経験抽出法」で幸福を観測したときに判明したことが一つの理由となる。人は幸福な経験。それは体感性報酬と呼ばれ、家族との団らんであったり、旅行であったりするのだが、それよりも記憶の中の充実感の方が長く幸福を感じることが分かっている。寝る間もなく、絶え間ないプレッシャーのなか、自分の能力をフル活用して難題を乗り切ったという経験は人に大きな幸福感を与えるのだ。

反対に困難やストレス、変化を避け続けると人は「何かできたのではないか」という自己批判にじわじわと追いかけられる。これは肉体の幸福でも述べたが、人は様々なものに限界点を持っており、それに抗う能力をそがれることを本能で嫌悪するためだ。記憶の中の「あの時自分は輝いていたな」という日々を思い返してほしい。必ずしも快楽を伴っていないはずだ。繰り返される困難の中、それを乗り越えてきたはずだ。アンカリング課題で幸福な記憶とは現状を把握するための意思決定の材料の一つであると述べた。しかし、役割にも成果にも結果にも結び付いていない、自分だけが知っている「充実の日々」は効力感がそう感じさせているのだ。これは、全ての人類が感じる事の出来る重要な幸福感である。

ではこの「卓越性」が効力感、自尊心、内的動機付けとどう符合するのかをこれから述べていく。

卓越性をマインドという観点から研究した例を挙げる。スタンフォード大学キャロル・ドゥエックの研究だ。彼の著書「マインドセット やればできる!の研究」を参考にする。

ドゥエック曰く人は知能に関して二つの考え方を持っているという。一つは「固定的知能感」だ。固定的知能感の人間は「個々の知能とは持って生まれたものとして固定されている」と考える。つまりこのような人物にとって失敗とは、「自分の能力が無い、もしくは誰かのせいである」という思考に陥る原因となりうる。一方で「拡張的知能感」を持つ人は、「能力とは経験や努力を重ねることによって高めることが出来る」と考える。そのため、失敗が起こった場合、何が足りなかったかを考えるようになるという。出来ない事でも「私には無理だ」と思わず「『今の私』には無理だ」と前向きの捉えるのだ。

この固定的知能感や拡張的知能感と似たような概念の「証明ゴール」「成長ゴール」という言葉を用いた、リーハイ大学とトロント大学の研究も合わせて確認していく。

証明ゴールとは、能力の証明に視点を置くことである。思考として「今、何が出来るのか」を重視する。つまり「今すでにあるもの」という固定的な要素を使用しているから、証明とは成り立つという思考を用いているのだ。一方成長ゴールは能力の向上を重視し、「何ができるようになりたいか」という思考の持ち主であるという。判断材料に拡張的な要素が含まれているため、成長が見込めるのだ。証明ゴール、成長ゴールはそのまま固定的知能感と拡張的知能感に置き換えても問題なさそうではある。

リーハイ大学の研究ではまず学生に難易度の高いテストを行い、その難易度をどんどんあげていくというものだ。証明ゴールのタイプはモチベーションと共に成績は下がり、下がった成績はそのままであった。一方で成長ゴールの学生はモチベーションが高いまま維持することが出来た。逆境に対して「証明ゴール」よりも「成長ゴール」の思考を持つ人物が効果を発揮することが分かったのである。

トロント大学の実験も同様に学生に難易度の高い推論の問題を用意した。証明ゴールを持つ、いわゆるネガティブな人にその問題を複数回与え、どのような反応を示すかを観察したのだ。1回目のテストで「上位39%に入った」事を伝えると一様に問題解決の方法やコツを教えてもらい、ポジティブな行動をとった。2回目のテストで対照群を分ける。Aグループは「成績が前回と変わらなかった」と伝え、Bグループには「上位9%に入った」と伝えたのだ。本来であれば喜ばしいことなのだが、Bグループの人たちは大きな不安を訴えたのだ。「あり得ないことが起きてしまった」と嘆き、その後かなりの成績の低下がみられてしまった。

ここまで見ていくと、「証明ゴール」の思考を大半の人が持っており、それは挑戦に対して大概ネガティブな結果をもたらしてしまい、一方「成長ゴール」はあきらめず、結果を出し続けていくという何ともわかりやすい結論が見て取れる。それはまるで子供向けアニメのような勧善懲悪で、成長ゴールこそが至高であるというミスリードになりかねない。しかし、安心してほしい。世界はもっと複雑だ。

セロトニントランスポーターの段を思い出してほしい。人の楽観性、悲観性はそもそも個人の神経症傾向に依存しており、それをコントロールすることは出来ない。楽観性と悲観性に幸福という視点で点数をつけるとしたら、それは楽観性が勝ってしまうことは避けようがない。悪と正義で争った場合に最後必ず正義が勝ってしまうのと同じような事である。望ましい結果である事と、不自然な歪さも同時に内包しているように思える。「成長ゴール」に対する主張を補強する論文は他にも多くあり、それどれもが悲観性と比較するものだ。しかし、そのようなコントロール出来ない項目に関して楽観の優位を主張することに大きな意味はない。楽観とはつまり「鈍く、感じづらい」の裏返しである。故にルーティンが重要な職場では悲観性の方が成果を上げることが現場ではよく起こる。「挑戦し続けなければならない」や「逆境に立ち向かわなければならない」という主語を用いるのならばそれは楽観性の優位は揺るがないが、「安定している環境で成果を出す」事や「リスクを先読みして行動を起こす」能力で悲観性が負けることはない。つまり証明ゴールも成長ゴールもタロットと同様に、常に二つの意味を含んだ一枚のカードであるという事なのである。ここで重要なことは「どちらが良い」という比較ではなく、どちらに適性があるかという一点が重要なのである。敵を知るより己を知る事の方が、何かを成し遂げるためには必要だ。

次は自尊心という観点から卓越性を考えていきたい。自尊心に対し決定的な要素となる論文がある。心理学者、ロイ・バウマイスターのレヴュー論文だ。長らくアカデミアにおいて自尊心というものは、子供にポジティブな結果をもたらすとされてきた。それまでは、自尊心と学歴、キャリアに相関があった為、とにかく子供の自尊心を高めることが重要視されていた。しかし、1万5000件もの研究をレヴューしたところ、自尊心を養っても学業やキャリアに何ら影響を与えないことが判明したのだ。それまでは10代で妊娠してしまった人や、薬物依存等の問題行動を起こす人にもそのような自尊心を高めるような方法が良いとされていたのだ。しかしそれは50メートル走で最下位だった子供に1位のトロフィーをあげることと同様に整合性の無い行動である。そのような形で自尊心を養っても、学歴やキャリアが向上することはなく、それ以外でも何らポジティブな効果はないことが今では分かっている。他の研究者のメタ分析でも同様の結果が出たことで、現在ではまともな心理学者は「自尊心が子供の成長に重要だ」と言わなくなった。結局実証されたことは「上手くいくと自尊心が高まり、失敗すると自尊心が下がる」ということなのだ。

この自尊心を得るための最初の要素こそが卓越性なのだ。最初我々は何の保証もない状態で熱心に自制心を持ち物事に取り組む必要がある。それは幼児期のお絵描きかもしれないし、クラブでのサッカーにおいてかもしれない。ただ楽しい。もしくは遊びの延長線上で何度も反復することとなる。そこで人は自分がとびぬけて秀でていることを自覚し「卓越性」を感じることが出来る。卓越性とはつまり自己理解の過程である。勝負をするわけでも競技に参加するでもなく、主観的に他人と比較するのだ。理解とはすでに知っている他のものを基準にして判断する。自分を理解する為に、他人を基準にし続けるのだ。

ここで一つの問題が発生する。自尊心には安定性という要素が大きくかかわってくるのだ。自尊心が高い状態とは「自分の卓越性はちょっとやそっとでは覆らない」という根拠に基づいている。そのため自尊心が高い人間は穏やかである。一方で自尊心が高い人間は暴力的であるという研究も存在する。自尊心が低いため暴力的ではない。自尊心が高く、暴力的なのである。この矛盾は一体どこから生まれてくるのだろうか?ここで「安定性」という概念をもちいると説明が可能である。

「自尊心が高い+かつ安定している=穏やか」

「自尊心が高い+しかし安定していない=暴力的」

この安定性についてそれがどのようなものかまで特定されていないが、不安定な状態とは自身の優位性を言語化出来ない、また社会との関りを通し感覚でのみ自尊心を得ている場合がそれにあたると考えられる。なぜ自分が優れているのかを言語化できないと、似たような才能の人が現れた際に危機感から攻撃的になるのだろう。もしあなたが会社員だったとして、全員同じような業務を割り振られたとする。あなたは他の人より効率よく成果をだせるし、他人が取るに足らない小石に躓いてしまう事が不思議でならない。しかし、それが根源的にどのような要素で成り立つのかを知らないとすると、人は結果に縛られてしまう。もしかしたら似たような結果を出す人間を排除しにかかるかもしれない。結局自尊心の不安定とは自己理解が少ないがゆえなのである。その意味で卓越性とは安定した自尊心であると言える。

自尊心の安定性についてはアメリカの心理学者ボスとヘザートンの研究も押さえておきたい。彼らはあらかじめ大学生を標準的な自尊心テストでカテゴライズした。その後制限時間4分の難解な知能テスト12問をあえて出題する。もちろんほとんどの学生が答えられるわけもなく、平均得点は1点であった。

ここからが仕掛けだ。個別に呼び出し目の前で採点し、自分が1点である事実と平均が9点であることを告げる。もちろんその平均9点の答案用紙も偽造されたものだ。次に適正テストを行い、自分が何に適性があるかの質疑時間を設ける。しかしそこでも仕掛けがあり、時間が無いため10項目のうちで一つだけ質問を選ばせたのだ。あらかじめのテストで自尊心が高いとされていた学生は「どのような職業で活躍できるか」などといった能力に関する項目を選んだ。一方で自尊心の低い学生は「他の人はあなたをどうみているか」などの対人関係を選んだのだ。結果自尊心の高い学生は個人主義になり低い学生は集団主義となった。この自尊心に脅威を与えられた状態で次の実験を行う。同カテゴリーの学生を議論させると、個人主義の学生は好感度が下がり、集団主義の学生の好感度は高くなることがわかった。一見自尊心を持って優位性を保つ事はポジティブな作用があると考えられる。しかし本質的には個人主義による孤立や不安定さも抱えることが条件となる為、特性をよく理解しなければ幸福は遠ざかるだろう。

では一体どのようにして卓越性を伸ばしていけばよいのだろうか。遺伝子研究が進んだ昨今では才能も遺伝などの固定的要素が大きいと考えられている。そのことを研究したのは知能研究の大家、ロバート・スターンバーグだ。卓越性とは高度な専門性を身につける事であるのだが、最大の決め手は遺伝などの固定的な能力ではなく目的に即してどこまで能力を伸ばしていけるかにあると結論付けた。テストのスコア目標がクラス1位、学年1位、全国1位のどれに設定するかで、能力の伸び方は違うという事だ。クラスで1位を目指し結果クラスで4位だった場合能力の限界を感じるかもしれない。しかし、全国1位を目標に設定にした場合クラスで1位になる確率は決して低くないという事だ。私たちの人生は短い。何かを成し遂げるには短すぎる期間だ。だとしたら、「この為に自分は生まれてきた」と思えるほどスケールの大きな課題を持っても良いかもしれない。卓越性とはつまり比較し優位性を確認することなのだが、能力を伸ばそうと考えも同様に現時点での能力を把握することが大切な要素として挙げられる。

卓越性の源泉を潜在能力というわかりやすい言葉におきかえるとしたら、その潜在能力とやらを活かすのにはずいぶん時間がかかる。教育心理学者のベンジャミン・ブルームはピアニスト・彫刻家・オリンピック選手・数学者等の実績を持つ120名を調査した。ここで分かったことは大多数が幼少期には凡庸であったことだ。思春期の段階でもだれもそのすごさはわからなかった。NBA公式サイトで「史上最高のバスケットボール選手」とされるマイケル・ジョーダンもそのような一人だ。彼は至上最高のバスケットボール選手であると同時に、史上最高の努力の人であると言われている。ジョーダンはずっとバスケをしていたが高校代表のメンバーにも選ばれなかった。また、有望な選手は通常大学から声がかかるのにもかかわらず、大学進学の時期にも声はかからなかった。ここで彼がとった行動とは徹底的に自分を鍛えなおすことだった。決めるべきシュートをミスしたときには、それを100本くりかえしたのだ。そうして彼は成果を出していった。その意味で彼に先天的な才能は無かったのかもしれない。卓越性とは間違いなく反復と継続の先にある。

反復そのものも幸福を生んでいる。ハーバード大学の心理学者、キリングズワースとギルバートの研究だ。13ヵ国、18歳から88歳までの5000人を対象に調査したのだ。「今何をしていますか」「今何を考えていますか」「今やっている事以外のことを考えていますか」という質問に対し46.9%の人が「何かをしている時、そのこととは関係ないことを考えている」と答えたのだ。人間は全て自分の思い通りに動いているつもりだが、生活のほとんどは自動的に無意識で動いている。ある程度複雑な動きを行っている時も、心がそこにあるとは限らないのだ。出かける時家の鍵をかけたかわからなくなったり、帰宅した瞬間ビールを欲したりするのは、大体無意識が主導権を握っているためである。一方で思考を無意識に支配されず行動と思考が一致している時のほうが、人は幸せを感じているである。反復を行う場合、継続させる大切な要素として、心と体の一貫性は非常に重要なのだ。生まれ持った才能よりも、大きなスケールで目標を立てる事と、大人になってからもあきらめず集中し続けることの方が、大切な事を成し遂げる為にははるかに重要なようだ。

次は効力感と卓越性の関係について考えていきたい。効力感とは社会心理学者であるアルバート・バンデューラの提唱した概念で、一般的には自己効力感とよばれ、自分がある状況において必要な行動がとれることであるとされている。効力感については「役割」の説明時に例に出したテレサ・アマビールとスティーブン・クレイマーの研究は最も代表的である。多くのビジネスマンにとって『進捗』が今の仕事の原動力である理由がまさに効力感なのである。人はある場面で適切な行動がとれ、進捗することが出来たら大きな幸福を感じる。分かりづらい部分であるのだが、達成は効力感において非常に重要な要素ではあるのだが、それは成果に必ずしも結びつかなくてよい。人は成果に縛られた瞬間から、卓越性のもつ輝きを失うからである。

提唱者であるアルバート・バンデューラは自己効力感を「私はそれをやり遂げる力がある」という言葉でまとめている。理解を深める為に彼の提唱する、自己効力感を高める要素4つを挙げる。

1,直接的達成経験 → 成功体験の事。「良い成績を出せたから次も頑張る!」

2,代理経験 → 他人の経験から学ぶ「映画の頑張る主人公に影響されて努力する」

3,言語的説得 →他者からの保障や警告。「あなたならできる!」「今やらなきゃ」

4,生理的・情動的喚起 →その時々の私たちの気分。寝不足、悲しい等でやる気が変わる。

彼の功績は自己効力感という概念を生み出したことだ。そして、効力感研究は科学によって進歩している。テレサ・アマビールの「進捗」もそうであるし、ロイ・バウマイスターが証明した、『自尊心は結果に依存する』という発見もその一つだ。

自尊心が結果に対して依存するのであれば、この効力感を高める要素の4つは必ずしも幸福に対し整合性を持たない。他人がいくら励ましの言葉を使おうと、映画に影響されて気分が高揚したとしても、結果が伴わなければ人生に良い影響をもたらさないからである。その意味で卓越性とは狭義の効力感であるのだろう。

これは定義の問題であることは認識している。バンデューラの定義する「私はそれをやり遂げる力がある」という言葉そのものが効力感であるとした場合、4つの要素は何ら矛盾しない。ここで我々が幸福になるために考えなければならない重要な要素とは「継続性」である。なぜなら効力感や自尊心も含め一時的なものであれば、その心地よさに結果が伴う事はない。それは錯覚と何がちがうのだろう。

人間の記憶にはアクセス可能性という概念があり、意思決定に使用できる記憶の保持の期間がおおよそ過去2か月分程度だという事が分かっている。他人に励まされたり、映画を見て気分が高揚したりしたとしても、持って2か月である。バンデューラの効力感を得る4つの要素で幸福を模索した場合、この効力感を維持するという事どういうことか考えたい。それは映画や他人の励ましに依存するという事になってしまうだろう。コストの問題も発生するだろうし、最終的に自分のコントロールも失い結果継続とは程遠いものとなってしまうだろう。

カリフォルニア州立大学の研究によると難易度に関係なく、内的動機付けを発揮できると継続力が変わることが分かっている。対照群AとBに分けて課題難易度と好奇心が継続時間とどのような相関があるのかを調べたのだ。Aの「大変だけれど興味のある課題」とBの「比較的簡単だけど、興味を持てないつまらない課題」を比較した場合、難易度は高いが興味の持てるAの方が、より多くの努力を傾け、成績もよかったのだ。

バンデューラ、アマビールとバウマイスターの論文をもとに考えるのなら卓越性とは、自己理解による幸福との同一化であると言える。弁護するわけではないが、バンデューラは偉大な心理学者である。彼の理論は半世紀を超えてもなお伝わり続け、またこの卓越性の本質を示すような実験も行っていた。

まず子供たちに自発的学習型の講座を受けてもらう。ここでどのような目標設定を行うかで成績のスコアを比較した。

目標設定

1,短期的な目標を繰り返す

2,長期的な目標

3,目標無し

4,目標も練習もなし

4つのパターンのうち、最も効果が有ったのは1の短期的な目標の繰り返しであった。自尊心と効力感が高まったためである。これは人間の変えられないデザインであることを我々は知らなければならない。

この効力感が人に与える影響は大きい。シェフィールド大学による「記録の効果」の実験がそれを物語っている。研究テーマは「記録で健康は改善するか?」である。結果、人間は毎日の行動を記録した方が、健康的な食事の量は増える。また、記録の回数は多ければ多いほど食習慣は改善することが分かっている。統計的効果量は「d⁺=0.40」という値なのだが、一言で表すなら、多くの人間にとって十分に効果的であることの証明となる。効果がでるまで最低2か月という条件はあるものの、記録をつけ進捗していく様子は人の効力感を高める。ダイエットでも度々用いられる方法であり、低コストで高い効果を出すことが出来る。

バンデューラはこの自己効力感を持って成果を上げる事のできる人物像を『現実的な楽観主義者である』と表現している。「ある人が成功出来るかどうかの最も信頼できる指標とは、その人が心から成功できると信じているかどうかにある」と述べた。これは私のようなどうしようもない人間を勇気づける美談などではない。科学である。

ベイズ統計学的推論と呼ばれる証拠の強さを扱う確率の法則が存在する。目的達成の成功率を上げていくための推論で、いかにしてアップデートしていけば良いかの指標となる。式自体は次のとおりである。

事後確率(データを見た後の確立) = 事前確立(基準率)×データの尤度(ゆうど)(観測して当たりの確立)/周辺確立(それが起こりうる頻度)

これだけではかなり理解しづらいだろう。ひとつ例を用いる。夢を追いかけている一人の若者がいたとする。その若者の夢が叶う確立を考えていこう。

この場合の事後確率とは、実際夢が叶ったかどうかを確立に変換する。事前確立とは夢が叶うであろうと主観的に信じる確立、データの尤度とは夢が叶う情報の信頼度。周辺確立とは実際のその夢にエントリーした人間の夢が叶う確率となる。式は次の通りとなる。

夢が叶う確立=夢が叶うと信じる根拠×根拠となる情報の信頼度/一般的な人間の夢が叶う確率

ここで仮に夢が叶わなかったとしても、仮説とデータが有用なモノであれば、事後確率がそのまま事前確立へ移行し、次にエントリーした際成功する確立が上昇するというものだ。人は新しい事実を知る、また新しい証拠を観測したときに「どの程度確立を修正するか」を考える事が出来る。これは進化論的な考えが最もしっくりくる。たとえ環境に上手く適応できず、3年で死んだとしても、命をつなぐことが出来れば生物は適応していき、次は3年と2週間生きることが出来るかもしれない。その少し寿命が延びた個体同士の掛け合わせによりその生物はさらに進化するだろう。人間の意思決定も同様に進化することが出来るという事だ。

この中で「事前確立」と呼ばれるものがバンデューラのいう「成功できると信じる心」にあたる。人は必ずしも成功の根拠を明確に言語化する事は出来ない。また、証拠を見る前に何かを信じるという事は非合理の典型だと感じることすらある。なぜなら人の主観には、バイアス、ドグマ、正統主義、先入観が存在するためだ。しかし、これすら過去の事後確率の積み上げであると捉えなおすことが出来る。これをダニエル・カーネマンは「ベイズ更新」と呼び、経験にも質がありそれによっては主観的な事前確立を高めることが、最も事後確率を上げることが出来ることを発表した。これこそアルバート・バンデューラの「その人が心から信じることが出来るのならば、成功できる」と言える根拠となるのだ。

最後に卓越性を表現する別の言葉で私は「内発的動機付け」を選ぶ。心理学者のエドワード・Ⅼ・デシの研究をもとに考える。

学生たちを集め、二グループに分け30分間パズルを解かせた。Aのグループではパズルを解くと金銭的報酬の1ドルが受け取れる。対してBのグループは金銭的報酬を受けとれない状態でパズルを解かせた。30分経過した後、監督官が実験の終了を告げ離席する。その後が実験の本番である。監督官の離席した自由時間に学生が何をするかを観測することが目的だったのだ。パズル以外にも雑誌など置かれていたが、Aグループはあまりパズルに取り組まなくなってしまった。一方でBグループの学生は比較的長くパズルに取り組んだのである。人は報酬や競争にしてしまうと途端に興味を失ってしまう事がある。一方で内発的な動機付けは行動そのものに大きな満足感を与える。また別の特徴としてこの動機に上限や限界が設定されていないという特徴も兼ね備えている。それは歴史上でしばしば献身や超越などと呼ばれてきたものだ。しかし、競争や報酬が発生する「役割」の世界にひとたび踏み入れれば途端に限界が生れてしまい、社会的序列の一部となってしまう。

私たちはこれに似たものを昔から知っている。それは遊びや笑いである。生物においてそれは狩りや攻撃の予行練習でありゲームだ。ハーバード大学心理学者のロバート・ホワイトによれば、効力動機とは環境と交わり能力を発揮させ、制御していく欲求であるとしている。人間とは環境と交わった際、効果的に関わり有能でありたいといいう欲求を強烈に持っているのだ。その有能でありたいという欲求そのものが「卓越性」の原動力であり、内発的動機付けなのである。

ここまで卓越性の要素を上げてきたがこの幸福にデメリットはないのだろうか。注意深く様々な書物を読み解いていくと、卓越性の状態とはいわゆる精神疾患である躁病に近しい症状を発症していることが分かった。うつ病の認知が広がる一方で躁病はさほど取り沙汰されないのは、その特徴が理由の一つに挙げられる。一般的に躁病とはほとんど眠らなくなり、ギラギラしていて24時間生気がみなぎった状態である。急に人格が変わったようになり、理路整然と大量の言葉を使用し、辛辣で、カリスマ的で、人を鼓舞し、啓蒙する。食欲旺盛で性欲過剰になり生活は競争のように感動的で魅力的になる。この部分だけならメリットしかないようにも感じる。実際卓越性を身につけようとする人は、多かれ少なかれこの経験をするようだ。アブラハム・マズローは自己実現欲求を発露した人間の特徴を多く上げているが、躁病の症状と一致する点が多いことと、その状態は一度収まると二度と起こらないともその著書「人間性の心理学」でも述べていた。しかし、それは軽躁病と呼ばれ、入院を必要としない気分高揚状態なのである。それがこじれると再発性自発性躁病などに症状が進行してしまう。これは発作ごとに重症度が増し、猟奇的にさえなり、現実の認知まで崩壊して治療を受けなければ最終的に認知症のような状態にまでなってしまう。

卓越性に傾向する人の特徴として、高い神経症スコア表れる。大雑把に「天才」と括っても構わない人たちだ。しかし、同時に彼らは一様に低い自尊心を持っている。卓越する者とは自分自身の考え、発明、リーダーシップが世界に影響を与えるまで、自分自身を信じ続けなければならないからだ。ギフテッド研究の結論によると「真の卓越には代償が伴う。そして仲間や家族との親密さが損なわれるはずで、とても難しい選択である」とされている。家族と才能。どちらかしか得られないとするのならば、我々は一体どちらを選ぶべきなのだろうか。


 心的サポート資源のカード 家族と幸福 

多くの人にとって心的サポート資源は聞きなじみのない言葉だろう。元々心理学用語の一つであり、本書においてそれは「心の拠り所」を意味すると思ってよい。家族、友人、恋人のような強い結びつきの関係性はもちろん、推しのアイドルやペット等、あらゆる支えはこれに該当する。

心的サポート資源と似た用語もある。「ソーシャルサポート」と呼ばれ、個人を取り巻く人間関係から得られる、あらゆる支援がそれに含まれる。自分以外の関わるものすべてが対象だ。ソーシャルサポートは共感、安心、愛着、尊敬の提供といった「情緒的サポート」、サービスの提供や仕事の援助といった「道具的サポート」、問題解決の手助けや情報の提供といった「情報的サポート」、肯定的な評価の提供といった「評価的サポート」の全てが含まれている。人間は継続して自分に利益をもたらしてくれる、信頼の蓄積したものに依存する特徴にある。その条件さえ満たすことが出来るのならば、石ころですら人は心のよりどころとなるだろう。しかし、当たり前に存在するインフラに対してそれを心のよりどころにする人は多くないのはなぜだろうか。電気や福祉、警察にどれだけ助けられても人間は多くの幸福を得ることは出来ない。なぜならばインフラとは分け隔てなくほぼすべての国民が使用できるためだ。どれだけ貧困であっても、最低限の文化的な暮らしが日本では保障されている。幸福であるかは、そのものに心地よさを感じるか、もしくは秀でる必要がある。ソーシャルサポートはその条件を満たしてはおらず厳密には心的サポート資源と同義とはならない。

それでは、この心的サポート資源が幸福に一体どれだけ貢献しているのだろうか。ハーバード大学で行われた「成人発達研究」がこのことを表すには最も有名な例になるだろう。

この実験は1939年からスタートし724人を対象に行われた。特筆すべきはその実験期間である。驚くことに80年間724人を追跡調査し続けたのだ。現在これを取りまとめているのは、4代目研究員であるロバート・ウェルディンガー教授である。彼らは体調、幸福度、職業、カルテ、家族との会話を全てパッケージ化したうえで「人間の幸福にとって最も大事なものとは何か?」の答えを数字で割り出そうとしたのだ。富、名声、働くこと。そのどれもが幸福に優位な相関を示すことはなかった。人間は最終的に「良い人間関係」が最も幸福度と健康に良い影響を与えることが分かったのだ。友人が多くても、結婚をしていても孤独な人は存在する。友人の数や夫婦という肩書ではなく信頼できる質の高い人間関係を持つ人こそ幸福度が高いのだ。一方で孤独感を感じる人間は慢性的にストレスを抱えることとなるため、ストレスのホルモンであるコルチゾールが原因となり体が炎症反応を起こし、結果的に体調がくずれ、最終的に寿命が短くなってしまう。孤独が不幸なことは何も情緒的な理由だけではなく、現実的な体調も要素の一つとなっているのだろう。

イリノイ大学、エド・ディーナー教授の提唱する人生の満足尺度と言うものが存在する。これは幸福度の測定を簡単な質問紙調査で行い、今どのくらい幸福を感じているかという主観的幸福度を知ることが出来る。主観的幸福感の結論という点で、この実験結果もハーバード大学の成人発達研究を裏付ける一つの要素となっている。

下記のとおりである。良かったらやってみるといい。

1,ほとんどの面で、私の人生は私の理想に近い

2,私の人生は、とても素晴らしい状態だ

3,私は自分の人生に満足している

4,私はこれまで、自分の人生に求める大切なモノを得てきた。

5,もう一度人生をやり直せるとしても、ほとんど何も変えないだろう。

これに対しそれぞれ下記の評価を行い総合得点で幸福度を判断する。
 

1,まったく当てはまらない

2,ほとんど当てはまらない

3,あまり当てはまらない

4,どちらとも言えない

5,少し当てはまる

6,だいたい当てはまる

7,非常によく当てはまる

 

最高得点は35点で30点を超える人は非常に幸せな人であると示す。この調査により様々な事が分かるのだが、ここでは「非常に幸せな人」と「まあまあ幸せな人」の差はどのようなものがあるかを述べていきたい。その差とは、友人、恋人、家族と過ごす時間が多いことが要因であることが示されたのだ。人は親密な関係が幸福と相関が高いことはハーバードの成人発達研究と同様の結論である。実際の友人や家族にもその関係が親密であることは確認できているため、幸福とは分け合えるものなのだろう。

では、質の高い人間関係同士において、カテゴリーで幸福感に差はないのだろうか。友人や家族との間で幸福度を考えていきたい。

トロント大学の経済学者 リチャード・フロリダは現代社会のライフスタイルを調査した。結果現代のビジネスマンは転職などを理由に非常に流動的であり、多くのエリート層は広く浅い友人関係を好むことが分かっている。時代が持つ特徴として私たちは土地に縛られることが無い分、友人関係が幸福に寄与する割合は減っているのかもしれない。

では夫婦関係はどうだろう。仲の良いパートナーとの結婚とは一体どれだけ幸福なのか、数値にしたものがある。基準は収入アップから得られる幸福である。これを1とした場合、仲の良いパートナーから得られる幸福は767%も大きいことが分かっている。一方で離婚や失職による幸福の低下率は収入が3分の2に減った時の幸福度に匹敵する。

エビデンスを並べると、心的サポート資源と卓越性は幸福度の関係性がよく逆転する。ある時は、心の支えが人にとって最大の幸福とされる一方、充実感を得る事こそが人の最も根源的なものであると言われることもある。これは各人の適合性がもちろん関わっているのだが、決してそれだけではない。そのわかりやすい例として子供の存在がある。多くの夫婦にとって子供とは幸福の象徴的なものであり、実際子供の為なら他の何を失っても構わないほどの愛を傾ける人は多く存在する。一方で子供をもうけることが夫婦の満足度を下げる例が存在する。高所得の夫婦における子供や、共通の趣味を持つ夫婦における子供の誕生は歓迎されていないことが分かっているのだ。誕生とともに幸福度が下がるだけでなく、第2子、第3子と増えていくたびに幸福度は顕著に下がった。これは子供誕生前の幸福のアンカリング位置が通常よりも高位に設定されているためである。自由恋愛が歓迎されていない時代の「お見合い」等、もともと強い結びつきのない状態での結婚はむしろ子供がお互いの関係をつなぎとめる共通の、かつ重要な要素であった。そのため多くの家庭において子供という存在は総合的に幸福度を高めてきたのだ。どの幸福と適合があるのか。また幸福の基準がどこにあるのかという2つの要素が、幸福同士の優劣を失わせている。ただ、多くの人にとって生物としてのデザイン上子孫を増やすことは本能的に幸福を感じることの出来る要素であることに疑いはなく、この心的サポート資源は幸福の中でもマジョリティであることは確かだろう。

結婚生活が人生全般の満足度とどれだけ相関をもっているか、イスラエルのテルアビブ大学准教授、ダニエル・ヘラーらの研究で判明している。結果は以下のとおりである。 

健康と人生の満足度 相関0・28

仕事と人生の満足度 相関0.35

対し結婚生活と人生の満足度 相関0.51

 

この値はかなり高い数値と言える。この研究からもわかる通り、結婚生活の満足度を知ることは、心的サポート資源の中でも重要な位置づけであると言える。この後は、夫婦関係と幸福の関係。またその問題点について取り上げていく。

そもそも良い夫婦関係とは一体どのような要因が関係していのか、ラッセルとウェルズが1991年に発表した論文「性格の類似性と結婚の質問」で判明している。例えば税金やリサイクルの問題に関しては一致していないと、良い夫婦関係は築けないことが分かっている。また、趣味の一致も幸福感と相関がみられた。これは一緒に楽しいことをして過ごす時間がそうさせているのだろう。一方で、おしゃべりである事や、心配性であることなどは夫婦の幸福度とは相関がみられなかった。これによって分かったことは、夫婦同士で仲が良い人達は性格や気質が全く異なっていても、自分たちは似ていると考えていることが分かったのだ。

同様のことがドイツ社会経済学のパネルスタディでも判明している。これはドイツの社会科学データセンターが運営するドイツの家計を対象とした縦断調査だ。縦断調査とは同じ対象を一定期間ごとに調査することで変化の過程を追跡する調査方法である。調査内容はもちろん幸福についてだ。遺伝子由来の気質によって決定された幸福と、様々な領域で満足度が高い人ではどちらが幸福と相関が強いか調査したのだ。これによると性格の全く違う夫婦でも、各領域の良し悪しが総合的な満足度と高い相関を示したのだ。例えば、妻の笑顔が素敵であることも、夫の日曜大工が有用であることも夫婦生活において決して馬鹿に出来ないのだ。夫婦間において価値観の一致や、日々の小さな満足度は良いパートナーシップを育むうえで随分と重要な役割を担っているのである。

ここで発生する問題は「マッチングコスト」である。私たちは将来のパートナーに惹かれた時、必ずしも相手の全てを知っているわけではない。食事に誘い、交際期間を経て、結婚をしたとしても自分の思い描いていた相手とは全く違う価値観を持つ人物であった場合、夫婦関係は満足いくものにはならないだろう。研究では性格の違いよりもむしろ価値観の一致こそが、お互いを似ていると判断する。人間は複雑である。相手のことが分からないばかりか、自分自身の価値観すら上手く言語化出来ない人間があまりにも多い。そのため「夫婦間の相性」という、考えても答えが出ない問題は「運命」という言葉に置き換えて思考を放棄してしまうのだ。

オーストリアの心理学者であるヘディとウィアリーによると、あらゆる出来事は短期的に幸福度に影響を与えるが、長期的影響は限られているそうだ。宝くじに当たっても、恋人と別れても、婚約したとしても、その幸福感は最初の3か月に限られていたのだ。認知社会学の基礎研究概念でいうところのアクセス可能性と呼ばれる、人が意思決定に使用できる記憶の保持期限が人を幸福から遠ざけていると考えられる。それは幸福に限らない。アメリカ、ノースウェスタン大学のフィリップ・ブルックマンは宝くじの高額当選者の幸福が長続きしないように、事故で下半身まひになった不幸も日常に溶け込んでしまうという事を突き止めた。

しかし、ここで整合性が取れない要素があるとすれば幸福も不幸も日常に溶け込むのにも関わらず、『家族』と呼ばれる得難い幸福は長期にわたり自分を助けてくれるという点である。それはどちらかが息絶えるか、自我を失うか、もしくは裏切るまで持続する。なぜ「家族」という存在は私たちの幸福を長期に保証してくれるのだろうか。関係が継続するという事は、一定の間隔で利益を受け取る必要がある。それにはコストが発生し双方に満足がいくことが理想的である。しかし、良い夫婦関係を保っている同士でそのようなコストと利益のバランスを意識している人は少ないはずだ。相手に惹かれるとはどういう事か。それはその先に自分の好む利益が潜んでいると仮定されるのだ。例えば、妻のよく笑うところが好きだとしよう。妻は誰かに強制されて笑うわけではないので、自身の支払うコストが1だとする。しかし、笑顔を向けられた相手がそのことに3の幸福感を得た場合家庭内の幸福感は相乗効果的に高まっていく。一体どの部分にそれを感じるかは個別の話だが、おおむね良好な夫婦関係とはそのようにして成り立つのだ。価値観と体調は、長い間一緒に暮らすと同調していくため、時間の経過とともにこの維持コストの値は下がっていく。双方にある程度歩み寄りがあれば、夫婦間の幸福はそう得難いものでは無いのかもしれない。

夫婦間で考えなければならない最も重要な問題は、相手を失う事である。その一つに裏切りが存在する。人はなぜ不倫してしまうのか。そのためには「愛」を知る必要がある。人間は機能としてそれを用いることで繁栄してきた。まず、代表的なものが子供に対しての愛着である。親は子供に、また子供は親に愛を求める。これは生物としての本能がそうさせている。ウィスコンシン大学、ハリー・ハーロウの「代理母実験」というものがある。生まれたばかりの子供のアカゲザルを2種類の代理母模型があるカゴで飼育するのだ。1体の代理母は針金で作られており、その代わりミルクが設置してある。もう一体は布製でかつ暖かみのある代理母だがミルクを飲むことは出来ない。結果子ザルはおなかが空いた時だけ針金製の母猿の所へ行き、普段は温かみのある布製の母猿の所にいたのだ。つまり、スキンシップによる安心感が愛着形成に関わるのは、本能であり生物の十分な発達には必要なのである。人間も子ザルもその点で多くの類似点が存在する。しがみつき、吸いつき、取り残されると泣いてしまう。出来る限り後を追い、手を伸ばして『抱っこして』と合図するのだ。この時親もまた幸せホルモンのオキシトシンが多量に分泌されており、行動に変化が起こる。これが人間に備わった「養育システム」である。例えば友人や、また兄弟へ向かう愛に似た「情」もこの養育システムと愛着理論が土台となっている。これに文化的な要素である、尊重や気遣い、親しみが合わさった場合、なじみのある「友情」や「兄弟愛」と呼ばれるものとなる。

私は最初このぬくもりを求める愛着の本能こそが愛だと考えていた。しかし、そうではなかった。ヴァージニア大学、メアリー・エインズワースの研究で分かったことだ。様々な実験の検証の結果、親子の「愛」と呼ばれるものは「遺伝子による個性」や「育児方法」との相関関係が低いことが分かったのだ。母親と一緒に知らないおもちゃがたくさんある場所で遊ぶと、通常子供は遊びながらも何度か母親に触れるためにもどってくる。そして、安心したらまた遊び始めるのだ。その場合、子供は遺伝的特性とも言える愛着の本能どおりの行動を必ずしもとるわけではない。おおらかな子供は母親のいる、いないに関わらず遊びを続ける場合がある。また、ほとんど母親から離れず密着維持を続ける子供もいる。子供に対する育児方法でもここでの反応は変化するのだが、それと「愛着関係の形成」との相関関係が低かったのだ。ここで立てられて仮説が一つある。それは、愛とは一つの要素でなく、ぬくもりを求める愛着の本能と、子供を思う養育システムの『蓄積』なのではないかということだ。私たちは励ましの言葉や、スキンシップ、気遣いなど様々なものにぬくもりを感じることができる。それを長い間提供してくれた人物に対し「信頼」という感情を持つ。それが愛である。またこれは蓄積していくタイプの価値の高め方となるため、友情が家族愛を上回るケースも発生する。このぬくもりの累計で意思決定を行うという要素が、愛というものを複雑にしている一つの要素なのだろう。

愛を理解した所で、話をもとに戻そう。不倫のような夫婦間の裏切りは、不貞の相手に何を求め、そして何を得ているのだろうか。なぜ、裏切ってしまうのかという問いに関しての答えは、生物としての「交配システム」が単純に強力な為であるという他ない。最も人に近い種のサルでさえ、子供を産んだら次の出産まで数年を要する。しかし、人間は出産後一年経過するとすぐ次の出産が可能になるのだ。また、発情期とされる交配期間も異常に長い。人類は幾度となく絶滅の危機に瀕してきたが、雑食性と繁殖力という原始的だが万能性の高い突出した能力で生き延びてきた。交配はオーガズムと共にドーパミンと呼ばれる直接的な快楽物質を得られるため、その点に注目されがちだが、オキシトシンと呼ばれるホルモンも、異性と関わる流れの中で活発になり人を恋愛の渦に巻き込んでいく。ホルモン比較でいくと、ドーパミンの快楽は他に類を見ない。この世に生まれている麻薬はその脳内麻薬の代用品に過ぎないのだ。いかに強力かが分かるだろうか。そのため、心的サポート資源から得られるわずかな利益と、交配システムの中で得られる報酬ではどうしても後者の方が優位になってしまう。自制心が強いであるとか、真に家族を思っているためそのような事をしない人がいることももちろん知っている。しかし、それはあくまで条件の変更によって容易にぐらつく脆弱なものであるという事を知らなければならない。家族になるために費やしたエントリーコストや維持コストと不貞の相手を比較したとき、家族を失うコストが高くつく為に不貞行為をしないという思考は合理的であり多数派だ。ここで覚えていなければならないことは、リスクという言葉とは「どうなるかわからない揺蕩っている状態」であり、「危険」であることや「害」であることは実はあまり関係がないことだろう。10個の箱の中身が6個の幸福と4個の不幸であったとすると、それはリスクではないのだ。10個の箱の中身が「何がはいっているかわからない状態」をリスクと呼ぶ。つまり、リスクを確定させてしまうと簡単に意思決定してしまうのが人間だという事だ。例えば妻に、「あなた、浮気をしたら罰金で1回ごとに10万円を払ってもらうわ。誓約書にもサインをして」と言われたとする。その次の日、10億円の宝くじが当たったら、あなたは浮気しないだろうか。妻よりも魅力的な女性にアプローチをかけられたとする。そしてその頻度が異常に多い場合あなたはわずかでも邪な考えを抱かないだろうか。リスク計算で最もシンプルなものは『毒性』×『頻度』で表すことが出来る。二つの例のうち、最初の罰金10万円の方は翌日に宝くじが当たったことで失う事のリスクが最小化されている。頻繁にアプローチをかけてくる魅力的な女性の存在は魅力的である事という『毒性』と『高頻度』のアプローチというリスクフルな状況であると考えることが出来る。そもそもパートナーとの関係に常に問題を抱えている状態は、幸福のアンカリングが低いため、特にこのような行為に流れやすい。人間には限界点というものが存在することで、このリスクは時間とともに縮小していくという特性もあるが、一方で選択がある環境に価値がついてしまい、結果意思決定を誤ってしまうこともあるだろう。自分の魅力があるうちに、やれることはやってしまおうという短絡的思考にプレミアムがついてしまうのだ。また、このリスクは究極の所でゼロにならないため、仮にリスクにさらされている状況が無限回続く場合理論上人は必ず裏切りを選択してしまう。どれだけ価値観が一致した素晴らしいパートナーだと信じていたとしても、本当にその価値観が共有されているかどうかは本人以外誰も確認できない。「信じることは美しいことだ」という言葉と同時に「美しいものは儚い」という言葉も想起されるのが夫婦間の信頼関係なのかもしれない。

こうなると、人類の最も支持する愛に関する幸福が最も不幸な選択肢になってしまいかねない。そのように嘆かれるかもしれないが、安心してほしい。具体的に、このことには対応ができうるのが人間だ。

裏切りには錯覚が効果的であるという研究が存在する。ニューヨーク州立大学 バッファロー校のサンドレ・マレイ教授の研究だ。既婚のカップルと交際中のカップルを被験者に調査を行った。それぞれ自己評価とパートナー評価をさせた結果、相手を理想化する夫婦の結婚生活への満足度は非常に高く、また離婚の確立も低いことが分かった。

夫婦コミュニケーションの第一人者であるワシントン大学のジョン・ゴットマン教授の研究でも同様の結果がうかがえる。夫婦関係が良好なカップルは相手への誉め言葉は、批判的な言葉の5倍あったこともわかっている。つまり、相手を理想化し肯定的な言葉を多く使用することと、良い夫婦関係は非常に相関が高いことが分かる。このゴットマン教授の離婚予測という面白い話がある。彼は研究に参加したてくれた、パートナーを批判する夫婦の将来離婚する確立を予想したのだが、その的中率は実に90%であるというのだ。幸福にどこまで効果が有るかはわからないが、不幸を回避するためには重要な要素であるという裏付けともとれる。

 愛とはつまりぬくもりの蓄積であるとした場合、言葉もまた重要な『ぬくもり』であると考えられる。基本的に自己に対し肯定的な幻想をする場合低い評価が付く。

君の友人が

「私は本気で小説家になりたい。とにかくストーリーを作るのが得意なんだ。自分で分かる。私にはきっと才能があるに違いない。クリエイティブなことが出来る仕事を紹介してくれないか」

と言い出した。しかし、よくよく話を聞いてみると、今まで作品を一つでも仕上げたことはなく、具体的な取り組みすらまともになかったとしたら、どう思うだろうか。あきれてしまうかもしれないし、あるいは叱責してでもまともな道に進ませねばと責任感を燃やすかもしれない。どちらにしろ、自分を客観視できていない人間が何を言ってもなかなか信頼されない。

実は、このように現実を正確に理解しないことは、危機が訪れた時に大きな利益を生む行動となる。人類にとっては生存確率を上げるための一つの選択肢として自己の肯定的幻想は効果的である。自己に肯定的な幻想を抱かない人は、戦いの場で自分が犠牲になっても戦況にほとんど変化が無いと知ったら、全く動かなくなってしまうかもしれない。しかし、肯定的幻想を抱ける人は、自分が突撃することで世界が救われると信じて行動を起こし、結果そのようなアクションで道は切り開けることだってある。

しかし、他人に肯定的幻想を抱くことは、危機が訪れた時真逆の効果を持つ。『あいつは責任感が強いから、逃げずに最後まで戦うだろう』と思っていた人が一番に逃亡していて、被害が膨らんでしまっては目も当てられない。

では、平常時の夫婦関係においてはどうだろうか。他者への肯定的幻想が実に効果的にうまく機能する。肯定的であることが重要ではない。肯定的でかつ錯覚であることが重要なのである。その為に必要な要素とは相手を正確に観察しないとこが重要になってくる。人間は二つの大きなバイアスという鎖に縛られている。1つ目は最も強力なバイアスである『マイサイドバイアス』である。私が私でいることを防ぐことは出来ない。それと同時に自分や自分の仲間は特別であると考える事を避けることが出来ない。主観、客観とは広く用いられる日常的な語彙である。しかし、厳密に考えれば客観とは『こう考える事は客観性が担保されているに違いない』という主観での判断となる。そうすると客観性は存在しないという事になる。もう一つが『ネガティビティバイアス』である。人類は、多く繁殖する事や行動範囲を広げることで繁栄してきたが、何より大切な事は死なない事である。このような死から遠ざかりたい本能が、ネガティブなものに敏感に反応できるように現在でも機能している。死を連想させるものは様々なものがあるが、野生において必要以上にエネルギーを使用することもその仲間なのである。結果私たちは自分のエネルギーを使用させてくる相手に対し、嫌悪を抱く。また、自分はエネルギーを使用したくないが、相手にはしてほしいという構図を図らずも生んでしまうのだ。

結果、たとえ相手が十分に自分を幸福にしてくれるパートナーにさえ、『もっと〇〇だったらいいのに』と欲を出してしまう生き物なのだ。人とは真摯に向き合うほど、相手の至らない部分を正確に発見してくれる生物なのだ。

夫婦関係において重要な事を尋ねるとそれはコミュニケーションであるとか、感謝であるとかそれらしいことを言う人は多いが、それにもまして相手をよく見ない事。そして相手を妄信的に好ましい存在として思い込むことが、夫婦間の裏切りを防止するには無視できない要素を担っている。

所詮錯覚だと侮ってはいけない。ヴァージニア大学、ジェイムズ・コアン教授の実験でそれが証明されている。まず、妻である一人の女性に電流を流し、その恐怖の状態をFMRⅠと呼ばれる装置を用いて脳波を観察したのだ。その後、知らない男子学生の手をにぎり電気ショックを受けた場合、強い恐怖反応が見て取れた。一方、夫の手を握り電気ショックを受けると実際恐怖ばかりか痛みも和らいだのだ。これは自己報告だが、脳の反応と同様の一致が見られた為、効果が認められた。実際に人は絆のような目に見えない概念であっても、物理的に相手を助けることも少なくないのだ。『あいては裏切らず、かつ素晴らしい人間だ』という幻想を抱くことが出来たのなら、それはお互いにとって健康的な状態を作り出すだろう。

ここで、もう一歩踏み込んで裏切りへの対処について考えていきたい。この肯定的錯覚は確かに重要な要素ではあるが、家族という大きな幸福を失うリスクを前にすると、いささか心もとなく、決定的であるとは言えない。重要な要素ではあるが、人間に最も有効的な方法論は万能性が必要不可欠である。汎用的で万能的な裏切りを防ぐ方法はどのようなものがあるだろうか。信頼学における裏切りを防ぐ方法のようなものはある程度確立されており、それはこのような主観に頼るものでは無い。

意思決定において人が何かをやり遂げる事に関して、1つの真実が存在する。それは『それ以外に選択肢を持ちえないこと』だ。この「最後までやり遂げる」というカテゴリーの中に夫婦関係を入れても全く同様である。自分が選択肢を捨てるという行為は存外たやすいが、相手の選択肢を奪うということは非常に難しい。理想的な状況とは、相手が失っても不快に思わないような『自立手段』を奪うことである。又は自立手段の肩代わりをすることで、自分に依存させることである。自分も相手に依存し相互依存の関係を築くことは、肯定的錯覚よりも現実的な手段であると言える。

選択肢の手段を奪う、ないし肩代わりするということを日本人は長い間歴史の中で行ってきた。女性の社会進出を妨げる事である。今では信じられないが、東大を出ても女性だというだけでアルバイトしか職がない時代があったことを多くの人は覚えていない。性別にかぎられたことではないが、経済的自立を妨げた場合相手への依存度は当然高くなる。今女性の社会進出を例に挙げたが、例えば夫である男性が小遣い制で生活を運用していた場合も、選択肢はある程度奪われていることになる。このように経済上の制限をお互いに設けることは、相手の選択肢を効果的に奪うには有効である。ただし、このことにお互いの納得感は絶対条件である。毎月小遣い2万1千円であることに、納得感を持って使用しているか、不満を持ってしぶしぶ行っているかという要素がこの関係を左右してしまう。この経済的な自立を手放すことに強い抵抗感を持つ人がいるとしたら、相手の裏切りは時間の問題である。手段としては有効であることは間違いないが、ひとつ間違えるとモラハラや経済的DV等の重大な問題にも発展しやすいため、使用には注意が必要だ。

最後は王道かつ合理的な方法を考えよう。私たちが相手を繋ぎ止める最も効果的なやり方は、相手にとっての自分の価値を高める事である。行動や言葉はもちろん、収入や見た目でも構わないだろう。相手の価値感を知ろうとするからこそ、価値の共有はなされる。家族になるということは本来、それだけで一定以上の強い結びつきを生む。家族とはこの世で最も小さい閉じた文化圏である。外に敵がある場合仲間意識は強くなり団結は強固になる。性格の不一致は円満な夫婦関係と相関がないことはわかっている。しかし、神経症傾向が同じマイノリティである場合、社会に対してお互い高いエントリーコストを支払わなければいけないという共通点が、結びつきを強くすると考える。HSPであることと、ギフテッドであることは一見何の共通点も持たないように思える。しかし、その特異な感覚処理感受性はマジョリティとは異なっており、一定以上の生きづらさを抱えている。結果、家族という文化圏に外敵が存在する構図が形成され結びつきを強くするのだ。駆け落ちを想像するとわかりやすいかもしれない。個性に対する理解者は社会が存在する以上公平ではない。また、理解することと、共に隣人として生きて行くことは全くの別問題である。一緒に生きて行く人がいる事。それだけで、人は本来喜びを感じていくのだろう

裏切りのリスクを全て回避し、ここまで取りあげた様々な条件を整え、幸せな家庭を築いたとする。しかし、まだ我々は重大な問題をまだ抱えている。最後に取り扱うのは死別についてである。

アリストテレスは家族が死んだらそれは不幸であり、元に戻すことは出来ないと結論付けた。つまり、愛する人が死んだらその先の人生は不幸でしかないということだ。ある日愛しい人が事故で突然死んだらと想像するだけで、私も正気を保てる自信がない。

では、実際交通事故や自殺で家族を失った人はどれほどつらいのだろうか。夫、妻、子供を交通事故で亡くした人へのインタビュー調査がある。今も家族がいる人と、不幸にも家族を失ってしまった人の二グループへ聞き取りを行った。それによると、家族を失ったグループは4年後、7年後でも対照群にくらべ鬱傾向が高く、日常生活における楽しみが少ないことが分かった。

一方でその死が緩やかであった場合、人は死を受け入れることができるものなのだろうか。病気や老衰などで予期できる別れの幸福度をミシガン州立大学のリチャード・ルーカス教授が調査した。結論として夫や妻に先立たれた人は幸福度が死別前に比べ4分の1から5分の1ほど低くなった。分かれまでの幸福度を100だとした場合85ほどにおちこみ、死別後5年たっても満足度は優位に低かった。仮に幸せそうな最後を本人が迎えたとしても、送る側がつらいのはさほど変わりはしないようだ。

人は悲劇によっていくつかわかることがある。それは自分が思うほど人は悲劇に対して弱くはないということと、取り返しのつかないことがこの世に存在すると身をもって知る事だ。20代の若いうちにパートナーを事故などで亡くした場合、その後の選択次第では十分に幸福をリカバリーすることは可能だ。しかし、長年連れ添った最良のパートナーを80代で失った場合、そのパートナーの代わりとなるような人とまた新たに出会い家族を作り幸福を回復させることはできるだろうか。それは限りなく難しいことである。人は限定的な幸福の中で生きている。歩いて20分かかる道があったとして、近道を探る時間に20分以上かけることは愚かである。人の意思決定は最低限の条件だけを満たした妥協にも似た決断で構成されている。もし人生をかけて得た幸福を失ってしまった場合、それは取り戻すことは出来ないのである。

しかし、全く救いが無いわけではない。フィンランドにあるヘルシンキ大学、ジャッコ・カプリオは配偶者を亡くした9万5647名を追跡調査した。この時驚くことが分かった。男性の44%、女性の49.2%は配偶者を亡くしてから一週間以内に亡くなっていることが分かったのだ。死因の1位は虚血性心疾患である。配偶者を亡くしたショックが心臓に大きな負担となり、亡くなるのだ。

家族が亡くなった時に発生する深い悲しみは、愛の深さと比例し、結果として一緒に旅立つ切符の代わりとなるのならば、それは悪いものでは無いのかもしれない。

 

不幸から考える幸福 

 「我々は幸福になるためよりも、幸福だと思わせるために四苦八苦しているのである」

これはフランスの貴族で文学者のラ・ロシュフコーの言葉である。人は昔から他人と比べる幸福に苦しめられてきた。幸福になりたければ、他者との比較をやめなければならないという話を一度は聞いたことがあるのではないだろうか。しかし、本当に他人と比較することが不幸なのかカリフォルニア大学リバーサイド校のリュボマースキーとロスが実験を行っている。まず学生に適性検査を行い幸福度が高い学生と、低い学生に分類する。その後サクラと被験者でテストを行い競わせるのだ。問題はわざと難度の高いものに設定しており簡単に解けることはない。一方サクラの学生は事前に答案を知らされている。これによると幸福度の元々高い人は隣で自分の知らない問題を誰かがスラスラ解いていてもまったく気にしなった。幸福度が低い人が、気になり自分に低い評価と幸福度を付けたのである。これが意味することとは、結局他者と比較するから不幸なのではなく、不幸な人が他者と比較しているのだということが分かるのだ。優先順位を誤ることは、本質から遠ざかる行為である。私たちは人との比較をやめる前に不幸をやめなければならないという、なんとも現実的な結末だ。

卓越性でも述べた通り、人はただ比較することは楽しく、優位性を感じることで幸福感を得る。ボン大学、アルミン・ファルクらの実験で比較についての知見が得られる。対象者二人に対して問題を出す。これはクイズ番組のような対決方式で行われ、正解したらお金がもらえるというものだ。ここで少し特殊なルールを入れ込む。二人ともが正解であった場合30~120ユーロをランダムで分配するのだ。問題出題中にドーパミンの測定を行い、どのパターンで人が最も幸福を感じているかを調べた。結果は下記の通りになった。

1位 大差をつけてランダム報酬が多かった。

2位 ランダム報酬で買ったが、差は少し

3位 自分が正解したらお金もらう

つまり、人は幸福を相対の自己認知で感じているのである。比較することは自己認知にしか過ぎないため、それは確かに人を不幸にすることはあるが、同時に幸福にすることもあるのである。その意味で、比較が理由で不幸な人たちと言うのは、いかに自分が不幸であるかを皆言語化したがっているかのようである。

不幸に関しては、もう一つ重大な問題がある。それは死についてである。自分の死は不幸なのだろうか。私たちは生活のシーンで死を感じる事などまずない。そのためあたかも死は特別であり、非日常であるかのように感じてしまうが、そうではない。不安や心配の源泉とは死が関係している。狩猟採集時代において『なぜそうなるかわからないもの』に近づくことはひどい痛みを伴う場合がほとんどであり、それは死ともつながっていた。日頃身の回りにある大自然ですら、全く見たこともないような表情をすることだってある。いつも穏やかな水面が、津波となり襲い掛かってきたり、恵みを与えてくれる山林が突如として燃え上がってしまったりするのだ。人間は全てを自分の思うように動かしたいという原始的な欲求はここからきている。コントロール出来ないものとは大自然のような畏怖の対象であるのだ。

結果不安や心配には大きなストレスが伴う。その際コルチゾールと呼ばれるストレスホルモンが分泌されると脈拍や血圧が上昇し緊張状態に体が移行するのである。このコルチゾールの量は幸福感と実は強い相関を持っているため、この分泌量によって幸福か否かを判断する研究がある。過去の研究では、朝から夕方にかけてコルチゾールの量の変化を観察した。75歳以上では人生の目的をしっかり持っているひとや、自分が未だに成長していると感じている『卓越性』を育む人は幸福であるためコルチゾールの量の変化が少なかった。一方で末期の乳がん患者と、同じ年代の健康な一般人を比較した場合、がん患者の方がコルチゾール量の変化が少なかったのだ。この研究はここで終わっておりコルチゾールを幸福の指標として用いるのは疑問が残るという結論に至った。

しかし、私はそうは考えない。ストレスはほとんどの場合幸福感に影響を与える。ストレスとは薄められた死であることは先ほど説明した通りであるが、では本質的に私たちは『死』を理解しているのかというとそうではない。物事を正しく理解するには、ある程度ルールがある。それは一度でも体験することと、同じようなわかりやすい比較対照が存在する事である。理想は何度も同じ経験をすることでそのものに対するパターン学習を積み上げなければならない。それが理解と呼ばれるものである。その点、死はそのどれも条件を満たすことは出来ないのだ。つまり、死に抗うとは人間が積み上げてきた『危険である』ことのパターン学習であり、やはり死そのものと同義とはならない。つまり、死に対してストレスを持つほど人はそれを正しく認識出来ていないのだ。がん患者のストレスが下がる理由は理解できる。死が何かはわからないが、自分が今抱えている心配ごとや不安は全て終わる事だけは分かるのだ。結果、人生で抱えていた荷物をおろすことで楽になれるという認識が人をストレスから解放するのだ。その意味で死そのものに人は不幸を感じることはない。死に向かう過程にある苦しみに我々はおびえているのだ。

では、人は死の後に不幸は残されていないのだろうか。もちろん生命としての終了はあらゆる感覚概念の終了であるため、死んだ本人に幸福は存在しない。考えていきたいのは、死ぬ間際の後悔とは何なのだろうかという点である。死んでも死にきれない、いわゆる『無念』だ。私もまだ死んだことも死ぬほどの苦境に陥ったこともないため一般論にとどめておくが、人の遺伝子は自分の形に似たものを残そうとする抗いがたい本能が存在する。そのまま受け取るならば、それは子孫を残すということになるが、そのような単純な話ではない。子を授かる事こそが至上の幸福とするならば、人間以外の動物は全て幸福となりむしろ人間はどちらかというと苦しみが多い分不幸になってしまう。もちろんそうではない。『交換記憶』(トランザクティブ・メモリー)と呼ばれる要素がこの問題を紐解くヒントになる。ヴァージニア大学の心理学者ダニエル・ウェグナーの研究だ。人は他人を通して情報を蓄える性質がある。それは特別な事ではなく、日々の生活の場面でよく起こる。新しいスマホを家族で扱う時に、最も適性のある子供がそのスマホ係に任命されたりするようなことだ。また、自分のことを他人に理解されることを、人はこの上ないくらい喜ぶ。自分の銅像を建てたり、自分の名前で本を出版したりすることも同様である。『自分という存在を示すあらゆる要素』が残る行為に人は無差別かつ本能的な幸福を感じるのだ。鼻がくすぐったいとくしゃみをしてしまうように、日中の明るいところでは猫の瞳孔が細長くなってしまうように、自分の遺伝的情報のバックアップが社会になされたら人は幸福なのだ。離婚のつらさの一つの要因として、人は外部記憶システムが失われたことを嘆いているのかもしれない。銅像や本を残せなくても、家族の記憶の中に自分が存在することは幸福なのである。
フランスの女性画家 マリー・ローランサンの

「死んだ女より もっとかわいそうなのは 忘れられた女です」

という誰もが一度は聞いたことのある言葉は、真実の側面をとらえていた。他者の記憶に生きる自分とはもう一つの自己の誕生であり、忘れ去られるという事は間接的なもう一人の自己の死を意味するのだろう。

では、残された人はこの不幸をどう乗り越えれば良いのだろうか。このような逆境に関しては、楽観的な神経症傾向が有利に動くことはわかっている。基本的に人は危機に面したときに3つの方法で対処する。1つは能動的対処。問題解決の為の直接行動を起こすのだ。2つ目は再評価。自分の思考をバージョンアップし、希望の兆しを見つけるための再観察を行う。3つ目は回避的対処だ。否定したり、避けたりする。お酒などで気を紛らわすこともこれに当たる。楽観主義者は1と2を行ったり来たりして解決へ向かう。悲観主義者は3を選びがちになるというものだ。この説にはわずかに疑問が残るが、人体の構造、人類の歴史や文化を見ていくと楽観性がこのような逆境に強いことは十分に証明されている。一時的な思考法だとしても楽観を取り込むことは、手段として無視することは出来ない。また、トラウマになるほどの逆境を研究したとき、この被害規模は事後の対応で大きく変わる事が分かっている。ジミー・ペネベーカーの著書『オープニングアップ』によると子供時代の性的虐待とその後の健康被害について、トラウマになる被害を受けたことよりも、その後の行動が重要であるというのだ。一人で抱え込んだり対処しない人より、支援団体と関わったりセラピストと会話した方が健康被害の影響から大幅に逃れていた。

私が示したいことは、この点だ。現代において悲観主義者は楽観主義者よりもステップが多いだけで、同じような再起する力を得ることが可能なのだ。社会的なネットワークは苦痛を軽減してくれるだけではなく、意味や目的を見つける手段も提供してくれる。逆境は人を不幸に向かわせるが、抗う事をやめてはならない。

逆境研究を通して全てに共通していることは、体験した人は自分が思っていることほど弱くはないとうことに気がつくという点があげられる。死別の不幸は逃れられないかもしれない。それでも人は生きて行かなければならない。子を失った親の悲しみや苦しみは想像を絶する。それに抗ってきたのは人類の知恵である。

地蔵信仰研究で有名な『賽の河原』というものがなぜ存在するか考えたことはあるだろうか。親より早く死んでしまった子供は、賽の河原と呼ばれる三途の川の手前の河原で石を積まなければならない。これは石を積み仏塔を作っているのだが、積みあがりそうになると鬼が来て鉄の棒やムチでそれを壊してしまうのだ。子供は石に擦れた手足がただれ、指から血がしたたり「お父さん、お母さん、助けて。どうして助けてくれないの」と泣くのだ。これは、子供に長生きをしなければならないという教訓めいた話として使用される場面があるが、そうではない。実はこの子供たちを救う条件が存在するのだ。それは親がもう亡くなった我が子のことで、泣かず、苦しまないで幸せな人生を歩み始めると、ようやく子供はその責め苦から解放されるのである。

最初これを知った時、なんと美しいのだろうかと感動した。親は子を思うがゆえに苦しむ。子が亡くなった時のことを幾度となく反芻し、自分を責め涙するのだ。しかし、その子を救うためには子を思い苦しむことをやめなければならないのだ。幸福への枷となっていた子供への愛の強さが、大きければ大きいほど、そのまま自分を鼓舞し奮い立たせる力となるのだ。実はこの賽の河原は俗信であり、聖人の教えなどではない。たった一つのルールを入れ込むだけで、絶対不可能と思われた問題を解決させるロジックが、人類の生み出した知恵でなくなんであろうか。

突然人は不幸になるかもしれない。しかし、人は弱くはない。それは現代に生きる子孫の我々は誇っていい。

  

幸福の特徴

ここからは、幸福の本質に迫っていく。幅広く研究したが故に、結果として単純化した事象を羅列してくこととなるだろう。私たちが知りたいことは、結局自分にとって何が優先すべきで、どの要素に比率が高いかを知る事だ。それが幸福を知る、そして攻略していくことに他ならない。

要素1、幸福は4種類に分けられる。

『快楽』『役割』『卓越性』『心的サポート資源』 

要素2、4種類の幸福は個人の適合性によって相性が存在する。

主に神経症傾向が個人の気質を分ける。この4つは本質的に同質のものはなく、どれほど偏った幸福にも一定の需要が存在する。仮に複数の人が同じ『心的サポート資源』を選んだとしても、幸福のスコアは相性の良い人間の方が高い。

要素3、幸福には期限がある。

効用が切れる期限が長いほどに人は価値を感じる。手に入れるには、長い時間をかけて投資を行い関係性や技術、知識を得て初めて成り立つ。 

要素4、幸福の効果と期間は反比例する。

食事の快楽も10年後の社会的地位も等しく幸福である。また、目の前の快楽の方が直接的に幸福感を感じやすい。食事は幸福であるが、満腹になればおしまいだ。社会的地位に感じる幸福は長くとも10年あれば失われる。一方、愛する家族から日々得られる幸福の質量は言葉にすることも難しいほど、薄く少ない。しかし、長い年月をかけて手に入れたその幸福は、パートナーを失うその時まで維持されるだろう。卓越性は、自身の存在が幸福と一体化するため、自分の何に依存するかで期間が決まる。 

要素5,運が絡む

家族や社会的地位は欲したから手に入るものでは無く、また本人の落ち度と関係なく失う事もある。突然の不幸を避けることはできないが、人間はそれほど弱くないことを知る事はできる。

要素6,記憶の中の幸福

記憶の中の幸福はどのようなものであれ、現在の意思決定の材料である。幸福だったころの記憶という尺度が、次の幸福に向かう意思決定に必要なのだ。

  

幸福の優先順位

幸福の前提にあるものを述べていきたい。シカゴ大学経済学者、スティーブン・レヴィットは「人生の重要な選択の場面において、自分で決断できない人はどう判断するべきか」というテーマを取り扱った。

なんと実験に参加した4000人は人生の重要な判断をコインにゆだねたのだ。それは例えば、仕事をやめるべきかどうか、離婚をするべきかどうかといった内容の事柄である。結果としてコインに従った人は全体の63%であった。レヴィットはコインに従った人とそうでない人で幸福度を調査した際面白いことを発見した。それはコインに従うにしろそうでないにしろ、自分で選択した人の方が、半年後幸福度が高いことが分かったのだ。私たちは自分の元を去っていく人の未来は不幸であってほしいと願ったりする。自分と別れた人はその後まともな人とは付き合えないと考えがちなのだ。職場をやめていく同僚は、次の職場では給与も低いしよりきついに違いないと思いたい。人生における選択があった場合どちらの方に幸福があるかと考えたくなるものである。しかし、極端な事を言えば幸福はどのルートにも存在する。ただ、少なくとも『じぶんで選択したという事実』は幸福と強く相関することは分かった。これが一般的な幸福へのエントリーコストなのだろう。

人生の重要な選択の場面で自己決定を行う事は、結果を問わなければさほど難しいことではない。しかし、どの幸福を選ぶことが素晴らしいのか、どれが最も効用の高い幸福であるのかを特定することは不可能である。なぜなら幸福という個別最適化という流れの中で考えるならば、科学はほぼ無意味だからである。だが、人間の個性は私たちが思っている以上に狭いものである。いわゆる性格が人生においてどれだけ重要な要素なのかを考える必要がある。ここで我々が知らなければならない事は、『根本的属性認識錯誤』(ファンダメンタル・アトリビューション・エラー)である。人間はいつも性格的特徴を過大評価し、状況や背景の重要性を過小評価するという思い込みも持っている。なにが幸福かを決めるのは個人の性格や特徴などではない。人の性格は時代という環境の変化を受け一律に変化していくものなのである。どの時代にも賢人が存在するのにも関わらず、なぜ戦争が起来てしまうのかという問いがあったとしよう。答えは単純で、時代の価値観は全ての人に影響するからである。

これを踏まえた上で、自分とは何か。個性とは何か。そして幸福とどう関係しているのか。幸福とは何かをまとめる流れで一つの式に行き着いた。これは独断と偏見にあふれたものだが、面白い結果なので是非見てほしい。

個人における幸福度との相関式

『環境≒人生経験<遺伝≒性格<環境』という結果になった。一卵性の双子、ダフネとバーバラの遺伝子影響度の話は覚えているだろうか。彼女らは住んでいる町も環境も人生経験もことなったが、遺伝子の影響で同じような幸福度を示していた。これが式の前半部分「環境≒人生経験<遺伝≒性格」となる。遺伝の形成がほぼ個人の性格や幸福感を決めていることを否定することは難しい。しかし、『根本的属性認識錯誤』を考慮にいれるのであれば式は最終的に『環境≒人生経験<遺伝≒性格<環境』となる。最初の「環境」と、最後の「環境」は別の言葉に置き換えるのならば「生活する現場」と「時代」となるがこの違いはスケールの差でしかなく、時代が生活する現場に影響を及ぼさないことはなく、逆もまた然りである。

重要な事はこの式が閉じていることにある。まるで無限ループのように、個人に与える影響度の大きいものを追い求めるといつの間にか最初に戻っており、いつまでも答えにたどり着くことが出来ないのである。実はこの式は不完全であり、私は最後にこの要素を付け足して完成としている。

(環境≒人生経験<遺伝≒性格<環境)<役割

アイデンティティとなる役割はそのどれも上回るのだ。一体個人の幸せには何が最も影響力を持つのかという問に対し、我々は無限ループの迷宮に入りやすい。しかし、役割とはその全てを上書きするほどの『わかりやすさ』が存在する。東大に入った。医者になった。大企業の役員に任命された。そのどれもが社会に認められ与えられた役割である。変人であることや、貧困な家庭のうまれである事。不良であった事実も含めて、その全てがその人の得ることが出来た役割で覆い隠されてしまうのである。これに関しては多くの人が、感覚で分かるのではないだろうか。校長、社長、芸能人。近くにいると一般人である我々は浮足立ってしまう。同様に、私たちの目指す幸福とはその役割を得る事『でしかない』と思いこんでしまうのである。『役割』が幸福であることは疑いようもない。だが、やはり私はこの言葉を使わなければならない。世界は複雑にできている。

心理学者、ロバート・エモンズの逆境研究で分かったことがある。まず、彼は大半の人が思い求める人生の目標を4つまで絞り込んだ。

1,仕事と業績

2,人間関係と親しさ

3,宗教と精神性

4,生成力(財産を成したり、社会に貢献したりする)

まず、富を示す4を人生の目標に選ぶ人は幸福感が低くなりやすいことが証明されている。一方悲劇に直面した者は4への価値が変わり、1~3を選びやすくなったのだ。この研究の結論として、新たな目標はさらなる幸福を人にもたらすが平均的には富を減らしていることが分かったのだ。悲劇とは人生における『優先順位』を明確にわかりやすくしてくれる。命に係わる病気を患った人の、人生観が変わるという話は、何も珍しいものでは無い。そのタイミングで人が富に重要性を感じないのだとしたら、それはその人たちにとっては正解なのだろう。ただ、そこで問題が発生する。自分の幸福における優先順位を明確にするための通過点に、不幸が含まれてしまうのだ。この幸福になるためには不幸が必要であるという受け入れがたい結論を、我々は許容するべきなのかもしれないと考えてしまう。なぜならば、人の行動変化の起点は常に苦しみだからである。苦しみとその解放を繰り返し人は歴史を歩んできた。その先に幸福があることは、極めて標準的な生物の仕組みであるようにも感じる。本で読んだり人から聞いたりした話と比べ、人間は自身が体験した知識でないと価値は感じないようにできている。人生において幸福になる。つまり人生の優先順位や目標を明確にするほどの価値を感じるには悲劇が必要なのだろう。

では、卓越性の幸福の優先度は何番目に位置するのだろうか。ハンガリー出身のアメリカの心理学者、ミハイ・チクセントミハイの研究で参考にすべきものがある。その前にまずは彼のフロー理論に触れなければならない。フロー理論とは自分のスキルとチャレンジが見合う、時間や空間の意識がなくなるほど自分の行動に意識が集中し、一種の恍惚とした幸福感を得られる領域を持つという考え方だ。超集中の代名詞であり、トップアスリート間では珍しくない没入状態である。フロー状態の充足感。いわゆる「のっている状態」は卓越性の領域であることは間違いない。彼の幸福の観測方法は経験標本抽出法と呼ばれるものを使用している。なおカーネマンの幸福測定方法はここから用いられている。この実験の対象者には、まずポケベルを渡すところから始まる。被験者は一日のいかなる場面であってもその時、何をどのように楽しんでいたかをメモを取ってもらったのだ。ここで興味深いのは食事や恋人と愛し合う快楽よりも、わずかにフロー状態である卓越性が楽しさで上回ったことだ。

ここまでの優先順位を一度まとめてみよう。もしも4つのカードを多数であることを軸にして幸福の序列をつけるのならばおそらく左記のようになるだろう。

『快楽<役割<心的サポート資源?卓越性』

では、心的サポート資源と卓越性の関係はどのようなものなのだろうか。

もう一度卓越性の特徴と共に考える必要がある。卓越性とは役割に向かうまでの成長の過程である。この行為そのものに幸福を感じることが卓越性の本質である。役割に到達していなくても、その効力感は自尊心を築き精神を安定させる。卓越性の本質とは幸福である行為と自己との同一化だ。そして、その為に必須の要素が自己理解なのである。

あらゆる幸福には期限がついているが、どの卓越性の期限はどのようなものだろうか。アスリートとして現役で活躍できるのは30代~40代が限界と言われている。肉体に依存する役割は40代に差し掛かると、大体が限界を迎えてしまう。一方で知識は限界が長い。厳密に述べるのであれば、限界を迎えたかの観測が極めて難しい。しかし、一般的に老いた人間の脳の処理は、スピードを求めなければ、十分に価値を発揮できることは知られている。では、卓越性の期限は本当にそこなのかという事を考える。アスリートが前線に立てないことは「役割」の期限である。知識を扱う人の活躍期間も、時代の変化に合わせてアップデートしていく必要がある為盤石とは言い難い。知識も「役割」としてはいつかどこかで時代遅れになる。それは卓越性とは、全く別のものだ。期限を決めるのも限界を決めるのも、全て役割である。絵を描くことが楽しい子供に「絵画コンクールの期間は終わったから絵を描くのは無意味だ」と言うのは野暮である。それを決めるのは他人ではない。つまり、唯一卓越性だけが限りなく期限の見えない幸福であることが推定される。優先順位を確定させよう。

『快楽<役割<心的サポート資源<卓越性』

エド・ディーナー博士の人生の満足度調査の設問をもう一度思い返してみよう。

1,ほとんどの面で、私の人生は私の理想に近い。

2,私の人生は、とても素晴らしい状態だ

3,私は自分の人生に満足している

4,私はこれまで、自分の人生に求める大切なモノを得てきた。

5,もう一度人生をやり直せるとしても、ほとんど何も変えないだろう。

文化心理学の研究において、実はこの4と5を除いて論じることが多い。特に設問4「私はこれまで、自分の人生に求める大切なモノを得てきた。」は各個人のバイアスがかかるため、論理を複雑かつ、間違えた方向へ向かわせる要素と捉えられているようだ。私はこの流れに大いに異議を唱える。4番こそ、幸福を考察するうえで最も重要な要素であると考える。それはつまり、幸福を数値で表すことに対する是非でもある。前提として幸福を数値化するということに関しては、好ましく思っているし、するべきだと考える。しかし、それは単純化してはいけないのだ。おそらく、単純化した幸福の観察で得られるデータの価値は限界がきている。設問4の「私はこれまで、自分の人生に求める大切なものを得てきた」の答えは家族であったり、ようやくつけた地位であったり、日々得られる知的興奮であったりする。これこそが4つの幸福のどこに適性があるかを示す唯一の設問である。しかし、その幸福には刺激の強さや幸福の期間が絡みあうだろうし、手にする幸福の適正が一つとも限らない。現状の問題点として一人一人の幸福デザインを解き明かし、数をこなすには手間というコストがかかりすぎるのだ。幸福という研究対象は他の科学と比較し、圧倒的に取り組みの歴史が短い。現在も科学者が幸福を題材に研究することは決して多くない。ビジネスやテクノロジーをどう活かすかの重要性と比べて魅力が少ないと思われている。端的にいうならばどれくらい短期的利益を生むかを無視して研究をすることは、いつの時代も困難であるのだ。

だが、人類には必要である。大規模に展開するのならば、国ごとのデータベースでどの幸福が多数派かを特定するとよいのではないだろうか。多数の人間が何に価値を置いているかを知ることは、世界を変えうることの出来る情報である。それが、常識を創り、ルールを作り、善と悪を作っている。マジョリティを動かすとは、世界を動かすことである。未来の子供たちが生きる世界を良い方向に変えたいという願望を納得させる方法は、人類が正しく幸福を理解することでしか成し得ないものなのではないだろうか。

  

幸福とは何か? 

科学的でありたいと書き続けた、最後の章で私見を述べる事は心苦しく、また醜い。私が幸福論を述べることは統計学的にサンプル数1でありそれは何の意味も持たない。この事を念頭において、それでもここから先はギフテッドである私がどのような視点で考え、また感じたかを書くことが作家としての『役割』であろうと考えたため、蛇足ではあるが述べていく。

結局幸福とはなんなのか? どれだけ調べても上手く言語化できないもどかしさがある。私が望むことはただ一つ。『幸福の単純化』であり、また『人間とは何かを定義する事』に尽きる。純然たる好奇心が私を突き動かした。つまり構造を十全に理解したうえで既存の概念や物質に置き換えることが出来ないかと試みたのである。最初は車を想像した。ブレーキやアクセル、ギアとの関係が構造上一致する部分があると考えたのだ。また、カードゲームのように、複数の要素を扱うものともよく似ていた。しかし、それは構造を表す単語をただ単に置き換えただけで、不十分なものであった。

ただ、この思考実験は無駄ではなかった。この二つの構造を念頭に置いて、再度俯瞰する時に共通する欠陥が見つかったのだ。それは『幸福に勝利条件は存在しない』という事である。30歳までこの世で最も贅沢な期間を過ごし、その後落ちぶれたらその人は幸福でないと言えるのか。人生が終わりを迎えるその日まで、ささやかな幸福を失うことなく大事に持ち続けたら、それは本当に良いことなのだろうか。

ここで使用してはいけない言葉がある。それは「幸福を決めるのは自分自身だ」という思考を停止させる戯言である。私は合理的選択理論の信者と呼べるかもしれない。この世は全て利益とコストで説明できる。もちろんこの理論は人間を表すうえでも同様に機能する。人は皆合理的な選択を行い、そしていつも最大値をもらおうとする生き物である。

人間の『適合性』がここで登場する。タバコを吸う事は長期的にみるとガン発症のリスクが存在する。一見愚かに見えるが、長生きするよりも今タバコを吸って少しでも漫画を執筆することの方が重要である人もいる。孫が車で人を引いてしまったとの電話があり、今すぐコンビニへ振り込みに行かなければいかない老人がいる。事前に詐欺の手口を知っていたり、孫に連絡を取る手段があれば防げたかもしれないが、その時の老人にとってその金額は『孫が助かる対価』として妥当性があり、その時点で合理性があれば迷わず選択するのだ。それらを愚かだと決めつけ見下すのは勝手だが幸福の総量が下回っていると決めつけるには、軽率だと考える。この視点では自ら命を絶つ事ですら、愚かな行為であると呼ぶことは出来ない。幸福はそれまでの総得点で競うわけでもなければ、看取られる時の状況で決まるわけでもないためだ。

では幸福とはなんなのかと、極限まで思考を圧縮していく。そうすると幸福の存在とは『今ここ』にしかないという事になってしまう。厄介なことがあるとすれば、人間にはあまり頼りにならない推論という能力があり、それが未来と連続性を持っているため『今ここ』だけが重要ではなく、未来でも幸福でありたいと願う事だ。つまり、それが人間の生きる目的である。

「来年の夏こそは皆で旅行に行き、美味しいものを食べたい。その為に大変だが仕事を増やそう」

このような考え方は、ジョン・メイナード・ケインズの述べた満足の遅延であり、受け取ることが出来ないかもしれないリスクもある。では、人はどうしてこのような満足の遅延と言う苦しみを受け入れるのだろうか。それは、現状が苦しく、また悲しいためである。生きることは苦しみの許容だ。つまり構造上人間は、幸福を得るために苦しむのではない。
結論を述べよう。

幸福とは『今ここにしか存在しない刹那的な錯覚』であり

人間とは『どこでどのように苦しむのかを選択できる生物』なのだ。

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