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ヴィエンチャン事変

記録-------2023年 9月18日 19時47分
ヴィエンチャンにあるBIG ISLAND CAR RENT(レンタルバイク店)を中心に
その関係者・利用者について”ある情報”が拡散される


呪術全盛の時代

もう話題にもならなくなりましたがコロナウイルスは、リモートでの会議や飲み会など直接他者と会う機会を大幅に減らし、よりいっそうインターネットを中心とした非接触型のコミョニケーションを一般化させました。

このような非接触型のコミュニケーションが流行した時代が過去にもあり、それが平安時代になります。芥見下々が描く漫画「呪術廻戦」ではこの平安時代を「呪術全盛の時代」と紹介しています。

平安時代はひらがなが普及し、男女のコミュニケーションツールは手紙と和歌でした。この手紙や和歌に似たようなツールが現在ではLINEなどのアプリに変わっているだけで、基本的に構造は同じです。対面でのコミュニケーションと異なり、極めて制限された情報の中で相手の意図を読み取らなくてはいけません。そのため、時として誤解を生み、相手への負の感情を生み出します。

「呪術廻戦」では、呪いは「負の感情」から生まれるとされますが、平安時代も現代もまさに「負の感情」が生まれやすい世の中だと言えるでしょう。

呪いとは

ここで「呪術廻戦」の多くを語ることはしませんが、「呪術廻戦」は主に、
人間の負の感情などから生まれた人間に害をなす呪霊(呪い)、それを祓う呪術師とのバトル漫画となっています。

現実世界に呪霊は存在しませんが、羨望、嫉妬や憎悪など負の感情は様々なメディアで生身の個人を離れ、言葉として一人歩きを始めます。誰にも止められることなく、人を傷つけ、人が大切にしているものを壊し、美しいものに泥を塗る、呪いは破壊することを目指し、呪いを放った者の自尊感情を満たそうとしています。

現在クライマックスをむかえている「呪術廻戦」ですが、呪術師は呪いをもって呪霊(呪い)を祓っています。呪いで呪いを祓うことは根本的な問題解決にはならず、ぐるぐると問題を先延ばしにしている気がしてなりません。きっとその意味で本作のタイトルにある廻戦が選ばれているのではないかと思います。毒をもって毒を制するという諺がありますが、悪いものを取り除くのに、悪い方法を採用している限り根本の解決にはなり得ません。核保有に対しては核保有(数で競う)で対抗しても終わりがこないのと同じです。

ではどうしたら呪いが終わるのか、呪いの解き方がこの漫画の肝であり、原作では徐々に描かれ始めています。

破壊すること

呪いは破壊することを目的とします。何かを創り出すための「呪い」というものはありません。なぜ破壊すること(呪うこと)が優先的に選択されるかというと、創り出すより破壊する方が簡単だからです。

SNSでバズる(負の感情が集まる)ネタは、不祥事や炎上発言などに大きく偏っています。平和的な、幸せなネタがそれらよりバズらないのは「変化」の絶対値がそれらより遥かに低いからでしょう。破壊の方が簡単かつ大規模で印象的な出力をもらたらします。

1時間かけて作った料理を食べるのは30分もあれば十分です。1年がかりで築き上げた信頼関係を壊すのも1日あれば足りるでしょう。あるものを破壊するのに要するエネルギーは、それを創り出すために要したエネルギーの数百分の一で済みます。だから身の丈に合わない自尊感情を持ち、癒されない全能感に苦しんでいる人間は創造的な仕事を嫌い、それよりは何か破壊する方を選択します。

「・・・を叩き潰せ」というのは、そういう人たちが好んで選ぶ言葉づかいです。破壊する者の側に回れば、自分よりも遥かに社会的な実力がある、上位の人間と対等の立場に立つことができる考えるからです。

創造すること

何か新しいものを創り出すことは簡単なことではありません。それは創作者が誰かわかるタグのついた「現物」を人々の目の前に差し出して、その視線にさらし、評価の下るのを待つということです。いわば、完全無防備な自分の体を危険があるとわかっていながらも、さらけ出すということです。匿名性にも忘却にも逃れられない、自分で創ってしまった「物」がそこにあるのですから、逃げも隠れもできない。

ヴィエンチャン事変1

前置きがかなり長くなってしまいましたが、ヴィエンチャン事変(勝手に名付けました)の結末は誰も予想ができません。漫画の渋谷事変では悪の側がほぼ主人公である者を封印し、それを持ち去ることでいったんの終焉をむかえています。

私が言えることの一つには、破壊する人たちが示すのは、かつて存在したものの残骸だけです。何かがかつてそこにあったが、今はもうない。その事実だけが破壊という仕事の達成を証明してくれます。「あるはずのものがない」というかたちでその達成を示すのです。

ものを壊すというのは瞬間的な営みで「そこにあったものが、なくなる」瞬間だけ人々の注目を集める。でもその高揚は長い時間は続きません。舞台の上から象や虎を消して見せた奇術師は、消した瞬間は拍手や歓声を浴びますが、いずれ拍手は消える。拍手と歓声が欲しければ、また次のものを消すしかない。

当たり前ですが、壊すだけで創り出すことを誰もしなければ、いずれ世の中のすべては破壊し尽くされて、壊すものがなくなります。

ヴィエンチャン事変2

ヴィエンチャン事変がなぜ起きたのかその詳細、理由はわかりません。どちら側が呪術師で呪霊なのかもわかりません。しかし、「呪術廻戦」と同様なレールで進んでいる、双方が呪いで呪いを祓うことをしているのであれば根本的な問題解決にはならないように思います。そして廻戦を止める鍵となる呪いの解き方が原作では徐々に描かれ始めているように、ヴィエンチャン事変においても描かれるべきではないかと思います。



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