見出し画像

プレゼント/ポストゼント

人に何かをもらうと嬉しいのは、きっといつになっても変わらない。
小さい頃にもらったお人形も、大きくなってからもらった時計も、値段こそ違えど同じように嬉しいのは『誰かからもらったから』なんだろう。

人と人が何かを渡し合うことには不思議な力がある。
まるで付加価値がついたような。
値段以上の何かが宿っているような。
見えない気持ちが含まれているような。
そんな不思議がある。

今年は誰かに何かをあげられたかなと振り返る。
もらったものはたくさんあるから、来年はこれ以上に返せるようにと。

灯火好感

贈り物の価値を過剰に意識しすぎると、いつしか『プレゼント合戦』が始まってしまう。
最初は無償の気持ちを相手に伝えたくて形にしたのに、いつしかその返済のような、等価であることでバランスを保つような送り合いにすらなってしまうことだってある。

『ありがとう』は難しい。
ありがとうでお腹は膨らまないし、ありがとうで家賃は払えない。
だけどありがとうがないと、なんだか報われないし、ありがとうがないと頑張れない。
ギブアンドテイクの片方だけに触れていると、ありがとうの価値をつい考えてしまうことがある。
何百時間も何十万円もかけたお返しの『ありがとう』を受け取った時、自分にとってのその人が、自分が費やしたものほどの価値がないことを痛いほどに感じる。

だけど反対に、ありがとうのお返しから始まる関係性もある。
また会いたい人にプレゼントを渡す。
相手もまた会いたいと思うから、お返しは次に会う約束の口実になる。
そんな、また会う前の『プレゼント』と、また会うための『ポストゼント』を送り合える人がいたら、お互いの好感の灯火がぽっと暖炉に灯るような暖かさを感じられるはず。

そこにないもの

プレゼントが嬉しいのにはもうひとつ理由がある。
それは、一緒にいない時でも自分のことを考えてくれているという証明になるからだ。
もとより『persent』という英単語が『現在』という意味を持つからこそ、現在そこにいないのに、それでもたしかに私の現在にあなたはいるのだと、時を超えて届けられる贈り物。
あなたにも食べさせたいと思ったその時から、今までずっと、大事に持っていたその『かたちあるもの』

感謝の気持ちも、きっとそうやって続いていくんだろう。
どん底に落ちた時に救ってくれた友人は、その一瞬を乗り越えるためだけではなく、そのずっと先にある『一緒』のために助けてくれる。
当たり前にいるあなたがいなくなることの恐怖ではなく、当たり前にいるあなたのいる当たり前を、このままずっと当たり前にするための優しさを送り合う。
だから、プレゼントよりも、ありがとうを送り合いたいと思う。

美味しいディナーをご馳走する時、本当に返して欲しいものはなんだろうか?
いつか奢った分の金額を、お金が困ったときに借りれる債権ではない。
『次は私が』とまた会う予定が生まれることかもしれない。
目の前で美味しいと笑顔になる、その一瞬だったらもっといい。
間違っても、あなたがこの後無事に帰宅するための消費エネルギーではない。

人は何かを求める。
無意識に。無償のつもりで。
だけどきっと、本当の無償のプレゼントはなかなかないのだろうな。
だから感謝は、見せないといけない。伝えないといけない。そう思う。

美味しいヤミー

感謝の述べ方には、それぞれキャラクターも見えてくるけれど、結局はストレートに伝えるのが一番いいのではないかと思う今日この頃。
変なコールを考案しなくても、きっと感謝は伝わる。
だけど意外と、自分の気持ちを表す言葉をストレートに言わない人が多いことにも気づく。
『嬉しい』『楽しい』『幸せ』
その代わりに使われる『ありがとう』は、ちょっとだけ物足りない時もある。
ありがとうに、出来たらご一緒に『楽しい』もいかがですか?
と、苦手な笑顔で即席のハッピーセットをご案内したくなる。

本当に美味しい料理を食べた時、生産者の顔が気になるだろうか。
生産者は、本当に美味しいと感じた消費者の笑顔の内側に、自分の顔が浮かんでいて欲しいだろうか。
本当に嬉しいプレゼントの定義は、もしかしたら感謝すら忘れるものなのかもしれない。
感謝が2番目。その前に溢れるほどの幸せと、抑えられない胸の高鳴りと、自分の掌にあるそれがまるで世界の全てみたいにはしゃぐのが、1番目ならいい。

感謝の伝え方は難しい。
ありがとうも、使い過ぎれば文字通り『安く』なってしまう。
お返しも高ければいいというものでもない。
『元気でいればそれでいいよ』という両親に、元気であることを伝えるのも案外難しい。
必死に練習したフラッシュモブも、ダンスの上手さよりもその勇気が素晴らしいのだから、感謝は難しい。
シンプルに伝える『ありがとう』も、同じくらいに難しい。

欲しかった物リスト

彼女の髪が綺麗で、そんな美しい長い髪によく似合う髪飾りを買った彼。
彼の大切な時計に、新しい金のチェーンを買った彼女。

もしもこの2人が裕福だったら、プレゼントの価値は薄れたんだろうか。
後世に語り継がれる素敵な愛の物語も、中世のおっちょこちょいカップルの笑い話になっていたんだろうか。
欲しかったものがいらなくなるくらいに、相手を想うことも。
自分の大事なものよりも相手の大事なものを優先することも。
Amazonの欲しいものリストが、12月26日に『欲しかったものリスト』に変わることも。

口座の中にあるこの数字の羅列はいつか誰かの幸せに変わるんだろうかと、毎月末に足し引きされた四則演算の結果とにらめっこする。
あなたにあげたそのお土産は、私が寒い冬の日に残業して稼いだお金で買ったのか。
あなたに渡したその本は、私が飲み会の幹事をしてまとめて払った時のポイントで買ったのか。

ラスボスもいないのに合体して巨大化した『貯蓄』というロボットは、なんにせよ私の時間をエネルギーに変換して、稼いだお金で買ったご飯を食べて考えたアイデアで、巡り巡ってあなたに届いているのだと伝えたい。
その回る回る、永遠に回り続けると思っていた1人ぼっちのメリーゴーランドに、1周だけでもあなたが乗ってくれていることが嬉しいのだと。

最後に

感謝は、伝えておこう。プレゼントは、しておこう。
自分の中にあるものだけでは世界は動いていかないから、自分からはみ出したポジティブな気持ちを世界に少しずつ落としていこう。

いつか道に迷ったら、落としたパン屑を辿って助けに来てくれる人がいたら。
『あの時のありがとう』のお礼を言いにきたよと、本末転倒なプレゼントを渡せばいい。
サンタが帰ったら、次はうさぎがやってくるようだ。
月からくるのか。不思議の国から来るのか。どんなうさぎかはわからないけど、幸せを運ぶうさぎであってくれたらそれでいい。

一生でもらった感謝の数と、一生で渡した感謝の数は、多分数えきれない。
ましてや、誰かに渡した感謝は、自分に返ってくるとも限らない。
一生でもらったプレゼントの数と、一生で渡したプレゼントの数は、今からでも数えていけばいい。
その一生が終わる時に、今ここにいないあなたが残したものが、
多分本当の『ポストゼント』になる。
だから、この世界に生きている限り、
誰かと渡し合った全てのものがきっと、プレゼントなんだと思う。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?