無意味な行動を経て意味を創造する

ドゥルーズの思想において、「意味」と「無意味」の問題は大きな位置を占めています。

ドゥルーズは、世界に前与の意味や本質があると考える形而上学的な見方に強く批判的でした。彼にとって、「意味」とは事物に内在する不変の本質ではなく、むしろ常に生成変化し続けるプロセスそのものでした。

つまり、ドゥルーズが重視したのは、意味の生成そのものの運動です。意味は事物の内側から発するのではなく、差異化や反復を通じて外側から生み出されていくのです。この意味生成の過程では、一時的な無意味の領域を通過する必要があります。

無意味とは、既存の意味から解放された場所です。ドゥルーズはこの無意味の領域こそが、新しい意味と可能性が切り拓かれる場所だと考えました。芸術や思索、出会いといった強度体験は、私たちをその無意味の領域に導き、意味生成の渦に投げ込むのです。

ですから無意味は、単なる欠如ではなく、創造の契機なのです。ドゥルーズは、既存の意味から離脱し、無意味の境地を受け入れ、そこから新たな意味生成へと踏み出すことの重要性を説きました。

しかしその一方で、ドゥルーズはこのプロセスの困難さも自覚していました。無意味との遭遇は危険を伴い、私たちを無秩序な混沌に陥れかねません。そのため、批判的な距離を保ちながら、新たな意味づけ=コード化を行っていく作業が不可欠だと考えられていました。

このようにドゥルーズにとって、意味と無意味は二つの円環を描いていました。意味は常に無意味に開かれ、無意味は新たな意味を生み出す。この終わりなき循環のダイナミズムが、生成変化の根源的な運動だったのです。

ドゥルーズは私たちに、既存の意味体系に安住することなく、常にその外部を志向し、無意味の領域に踏み込む勇気を促しているのかもしれません。危うさを孕みつつも、そこから新しい意味の地平が切り拓かれていくはずです。

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