エクスタシーとドゥルーズ

エクスタシーとドゥルーズ

ジル・ドゥルーズの思想には、常に生、変容、創造性への賛美がある。彼の眼差しは、存在の未知の可能性へと向けられていた。そしてそこに、「エクスタシー」という概念が潜んでいるように思われる。

エクスタシーとは、字義通り「外に立つ」ということだ。つまり日常的な枠組みや構造を超越し、新しい地平に出ていくという意味である。ドゥルーズの思索はまさにその「外に立つ」営みそのものだったと言えよう。

彼はまず、実体や本質、同一性といった伝統的な形而上学の観念を脱構築した。実在とは決して不変の存在ではなく、つねに変容しつづける生成の渦なのだと説いた。そしてその生成をひきおこす「出来事」や「強度」の力学に着目した。出来事とは私たちを規範的な存在から引き剥がし、別の可能性へと導く出力である。

さらにドゥルーズは、主体の観点からの「エクスタシー」に言及している。主体はつねに自己同一性から逸脱し、別の主体的領域へと至らざるを得ない。それが「主体化と脱中心化」の過程である。自己が絶えず相対化され、非人称的な生の力学へと還元されていく運動こそ、主体のエクスタシーと呼ぶべきことなのだろう。

この主体のエクスタシーを実践するため、ドゥルーズはさまざまな「フィギュール」への着目を試みた。動物、機械、分子といった様々な存在様態から、主体に対する発条を見出そうとした。その際彼は意図的に、人間中心主義を離れ、ヘテロな他者性へと思考を導いていった。

こうした試みを通じて、ドゥルーズが目指したのは、常に日常的な構造を超え出て、生の別の可能性に開かれることだった。彼にとってエクスタシーとは、既存の枠を飛び越えて新しい領域に至る精神の踊りそのものを指していたのではないだろうか。

つまるところ、ドゥルーズの思索は、根源的なエクスタシー、存在の自己超越を導く探求の軌跡であったと言えよう。彼が私たちに示したのは、つねに生の未知の境地へと至ろうとする姿勢であり、そこに創造性の源泉があることを教えてくれたのである。

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