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偏った価値や無理をずっと自分に押しつけていた


私には知らないうちに自分を縛り付けるルールがたくさんあった。

例えば、新入社員で営業として働いていた頃、私は足のサイズが大きくヒールを履くのは苦しかったが、会社ではスーツ着用が義務づけられていたため、毎日ヒールを履いていた。

一日中歩き通しで毎日かなり足に負担がかかるので、同期の他の子たちはヒールの低い靴やペタンコ靴を履いていた。
しかし、私は就職活動の時に就活マナー講師にスーツには5cmヒールと言われたことが強く頭に残り、どんなに靴擦れを起こしてもヒールを変えるという選択をすることができなかった。

会社で靴の種類まで規定されていた訳ではないのに、自らの固定観念が違うものを選択する機会を奪っていたのだと思う。


また私にはなぜか「楽をしてはいけない」「自分を甘やかしてはいけない」という考えが常にあった。

今思うと偏った考えだとすぐに分かるのだが、当時は当たり前のルールのようにその思考から抜け出せずにいた。
ちょっとの工夫で良くなることも、そんな楽をしてはいけない。自分が我慢すればいい。と本当にどうでもいいようなことで毎日我慢をしていた。


なぜそんな思考になっていたのか…


思い返すと幼少期の両親の言葉が蘇る。


私はあまり両親に褒められた記憶がないのだが、両親は私を褒める代わりにいつもこれらの言葉を言ってきた。
「褒めたらつけ上がってロクなことにならない」「いつもオーバーなんだから、ちょっとくらい我慢しなさい」

つけ上がるってどんな状態?もしかしたら既に私は人から嫌な奴だと思われているかもしれない。
常に不安で自分を褒めることなど出来ず、我慢の尺度も分からない。
気づいた頃には必要以上に自分に我慢を強いて、無理をし続けていた。


当時の私の足はボロボロで、踵は皮膚がずり剥け、爪は割れて血だらけだった。それにも関わらず自分に快適や楽を許すことができなかった。


今振り返るとそんな状況耐えられないな〜と他人事のように思うが、当時は偏った考えに気づけなかった。ストイックにがむしゃらに頑張っていた自分の価値観を、今となっては評価する気になれない。当時の私は確かに頑張っていた。けれど、もうその我慢と努力はしなくていいと思う。

いつの瞬間の自分も大切にしたい、と思うようになった。何かの犠牲の上に立ち、気持ち良く結果が受け入れられると思えなくなっている今日この頃である。

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