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『貴族とは何か』から考える、日本の勘違い

『貴族とは何か ノブレス・オブリージュの光と影』君塚直隆著。新潮選書。2023年1月初版。をこの度読了しました。 

古代ギリシャと古代中国と中世ヨーロッパと英国と日本の明治以降の貴族について扱う本。それ以外の地域の貴族はとくに触れられていない。一部地域の貴族についてのマトメみたいな、300p弱くらいのレジュメみたいな感じの本。

君塚先生というと、皇位継承についての有識者会議に出られた方。「今後は皇室はますます(英国王室にならって)SNSで発信をしたらよいし、女系を容認し長子継承制にしよう」という意見を持っている。、、、これについては個人的に賛成していないですね。

さて、思うに、あんまり民主主義という外国の接ぎ木にこだわりすぎているから日本は日本として機能していない。日本はもともと民主主義国でもなんでもなかった。ハッキリ認めたらいい。そんなに西洋にかぶれるな。読んでてそう感じました。

それについての雑感。

勘違い

変な角度からぶった切って申し訳ないのですが、今の日本には、自分たちのことを英国人の亜種か何かだと勘違いしたい、あるいはしている人たちが多すぎるように思います。

負けたからでしょう。同じ島国でも、勝ちぬいたイギリスがうらやましいのでしょうか。でも、こういう英国かぶれというのは、明治のころからいたのだけれど。

彼らは明治維新でそれまでの日本の伝統を解体して、西洋のドレスに身を包ませる。そんな無茶をしてきた明治以降の日本。結果的に、自分たちは西洋人の亜種か何かだと勘違いしている。冷静に考えて。日本人は中国や朝鮮の亜種です。

長い伝統を維新によって解体したのに、半端に、もう一度西洋に倣って再構成しようとした結果、変なことになっちゃった。それが日本の貴族院とか華族制度と言っていい。

公家というのは特に政治的でない。儀礼的な人たちだ。宮中の料理だとか衣装だとか儀式だとかに詳しい人たち。そんな人たちにノブレス・オブリージュだとか政治の一機能としての貴族院議員としての職務を期待するほうが変だ。そんな明治の改革は「分」を無視した伝統の改悪にすぎなかった。

公家を機能させたいなら、公家として機能させるほうが良い。「伐氷の家にあっては牛羊をやしなわず」。「分」に応じて暮らすほうが良いでしょう。天皇も公家も京都に戻って、かくれて生きるほうがいい。

日本の貴人に、西洋の君主とか貴族院とかのような役割を担わせようというのがそもそもに変な視点だと思う。

そもそも、天皇制(この言い方は便利なので使わせていただく)というのは、中国の唐のシステムの名残だ。

皇帝がいて、優秀な人たちを任官する。というシステムをパクってきた結果、税の運搬と保管を担当するサムライのほうが力を持ってしまったので、彼らに政権が移ったのが日本。

この手の人たちがノブレス・オブリージュだなんだを志向するのは別に構わなかった。というか、そういうことを志向していた。二本松藩の石碑を見るとわかる。

サムライは文官にして武官だから、シビリアンコントロールなんざどこ吹く風だ。サムライのような軍事と外交が両刃の関係にあることを知っている人がまだかろうじて生きている間だけ、日本は大きな戦争を勝ち逃げした。このことは偶然ではないように思う。

昭和軍人の頃には組織が硬直化し、分掌に相次ぐ分掌によって、有機体として国が上手く力を発揮できなかった。たとえば海軍と陸軍が連携すればフルコンボを決められるところを、ドンもカッも自分勝手に音頭をとるものだから、スコアが伸びなかった。

権力は分掌されるに限るとしても、全ての状態を総覧したうえで、大局的決定を行う者がいなくてはならない。つまり、総覧者かつ実行責任者という独裁者がいないといけない。幕府の頃には3~4人くらいの大老が月番でその役割を得ていた。

立憲君主制になってからは、陛下が総覧者となる。総覧者となるものの、叱咤激励などの影響的権力しか使えないから、もどかしい気持ちのまま「太平洋はシナより広いぞ!」と激おこするも、戦争はすぐには止められなかった。

しかし、もうサムライはいない。三島由紀夫が最期に自衛隊に「君らは武士だろ?! シビリアンコントロールに毒されてんだ なぜ自分たちを否定する憲法を守る?!」と叫んでいたけど、自衛隊は武士ではないでしょ。自衛隊はせいぜい武官であって文官にして武官ではない。

文が武を完全制圧しているから、文は非常にだらしがなくなっている。

薩長土肥による藩閥政治と、西欧に行ってきたお偉方こそが言路をふさいでいると非難した『民選議院設立の建白書』というのがある。日本の民主主義は封建主義に対抗する形のときに力を持ってきたのだ。

しかし、今は民主主義が弛緩するほどに行き渡ってしまっている。民主主義は封建主義というヒールに屹立しないと濡れたアンパンマンくらいに力が出ない。与野党も同じ。どちらも、相手を制しようとする相克によって互いに活発なる緊張が生まれる。もし、野党がただ3分の1の議席のみを確保してさえいればいいという考え方に陥り、政権を取ろうという気概がないなら、政党政治は緊張を失う。

では政党政治の不機能を上から俯瞰するような英国貴族院のような存在があればいいというのか。

お金の好きな政治屋さんが増えてしまったと先輩達からお聞きしました。参議院を廃止して、無給の貴族院を復活させてほしいです。

https://www.chunichi.co.jp/article/24983

と、3年前高須クリニック院長が言ったとさ。賛成できない。イエス!と言えない。確かに、参議院は衆議院のカーボンコピーとさえ言われる。しかし、これは議員の選出方法が直接国民の選挙にかかることになっているのが大きい。衆議院と選出のされ方が違う必要がある。どこの先進国も上下両院で同じ選出方法を採っている国は無い

シェイエスが『第三階級とは何か』の中で一院制を主張したのは、「その国の民がただ一つしか階級をもたないなら、一つの院で事足りる」ということでした。

だから現代日本人が、「日本はすごく平等な共和国です。」と認めるのであれば、一院でも問題はない。となりの台湾は一院制。韓国は一院と二院制を行ったり来たりしている。

もし、「日本には”差別しゃべつ”があります。”地方”があります。だから、違う利害を持った人がいます」と認めるのであれば、院は複数なければならない。

真に改革するべきは衆議院でしょう。衆議院に出るための供託金を下げる。するとわりかしビンボーな人でも政治の場に出てくるかもしれない。参議院は議員数を縮小させるも、高額な供託金、衆議院よりも厳しい被選挙条件は変えなくてもいいでしょう。つまりカネモチ院にしたらいい。

逆でもいい。

「裕福な人のほうが、まだ教養と良識が期待できる」というのなら、衆議院のほうが高い供託金で、参議院がビンボーを代表する院でも構わない。「下院の優越」があるから。下院を貧乏で無教養な人たちの巣にしてしまうと、とんでもないことになる可能性もある。無論、お金持ちや成り上がりに教養を100%期待することはできないのはみんな知っている。あいつとんでもないです。

もし、この二つの院でもまだ、日本には異なる階級があるというのならば、そのときには更に院を作る必要があるかもしれない。日本には院の数が足りてないのかもしれない。議員は余ってる気がするけど。

ダニエル・A・ベルは「日本ではコロコロ変わる議員の裏から、国民による選出もされず、コロリとは変わらない官僚が魔法の権力で政治を動かしている」と指摘し、そんなんだったら高度な政治知識と技術とを兼ね備えた人だけが入れる「科挙院」でも作って、彼らを表舞台に出したほうがいいとしている。

現代版の貴族院、たとえば党を超えて大局に立つ血統のよい富裕者で、国民の選出を受けない議院。が必要だというのなら、それはもはや期待できないことです。もうこの国の誰にも貴族の役目を期待できる人はいない。あんまり封建の遺風を保存せずにしてきたものだから、その役務に”似合う人”がもういないと見える。

その役務を君塚先生は皇族に見出そうとしているように見受けられる。君塚先生は皇族を女系容認によって増やし、公務も、公務の担い手も増やすべきだと考えている様子。さらに、天皇家はSNSかなんかで国民とより身近になったらいいと考えているようです。

マキャベリの『君主論』ではオープンな王室よりも閉じていて神秘的な王室のほうが「硬い」としている。大正天皇のころから英国の開かれた王室にならってきた日本だが、めちゃくちゃ間違えている。

明治以降の止まることをしらない「おっぴろげ」のおかげで、天皇となんの関係もない民草でさえ、帝室に勝手に親近感を抱き、勝手に裏切られたと思えば、手前勝手に帝室を叩く。帝室とくれば帝室のほうも、ヤフーのコメント欄なんか見なくてもいいのに、わざわざ検見されたらしい。

皇室はどんどんクローズな皇室になったらよいと思います。儀礼は行うべきだとしても、表に出てくる必要が無い。天皇に英国やプロイセンの君主のような役割を担わせようとしたこと自体が間違っていた。それを将軍という仮の皇帝にやらせようというのであればよかったものを。

さて、日本にはフランスの王党派のような、反民主主義的な主張をもつ団体がいない。参政党やごぼうの党は江戸時代へ回帰したいような思想的そぶりを見せるものの、「民主主義=絶対善」の枠外へ出られない思想ならば、今後も社会に大きな変革を起こすことはないでしょう

IMAGE BY leo leung FROM Pixabay


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