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トマス・アクィナス🍆

人の生きる目的とは何かについてキリスト教徒はきっと簡単に答える。人間にとっての究極目的(至福 beatitude)は神を見ること(Visio Dei)だと。

『世界の名著 20 トマス・アクィナス』1980年。中央公論社。山田晶 著。を読みました。

トマス・アクィナス🍆(1225-1274)は中世イタリアの神学哲学者。親鸞と時代が近い。(1173-1263。承安3年 - 弘長2年)

🍆は神童だった。知恵を何でも吸収した。出世を期待された。🍆は母の期待を裏切ってドミニコ会に入会する。母は🍆を監禁し、若い女性を送り込んで🍆の意思をくじこうとしたりするが、🍆は負けなかった。

若いころから晩年まで、その頭の良さと神学への情熱は尽きなかった。名声はイタリア全土にとどろき、最期の最期まで王侯貴族が講義を受けたいと招待している。

しかし、🍆、1274年のある日、いつもの教会で一人でいたとき、「何か」を見てしまう。🍆、しばらく茫然自失とし、あれだけ情熱的だった神学への力が失せる。筆も折れた。健康状態も優れなくなる。教皇によばれ会議に出席する道中、立ち寄った教会にて亡くなる。49歳。

何を見たんだろう。

それはきっと、🍆に筆を折らせるだけの力を持った何かだったはずです。🍆は自分の書き物(神学大全)に決定的な誤りが含まれていることをそのとき悟った。

しかし、その誤りについて訂正するほどの気力もなかった。「何か」は、キリスト教に絶望させるものではなかったはずだ。むしろもっと、🍆自身を追い込む何かだったに違いない。きっと聖なる「何か」だったのではないか。

悪はなぜあるか

神は、実際には為さぬことがらをも為し得るという前提に立ってみます。全知全能らしいですから。すると神は、為し得る無限の可能性を持っていて、そのうち一つを現実的に為すことになる。そこで問題になるのは、あらゆる可能的世界の中からなぜこの世界が選ばれたのか、である。

その解答の一つとして最善主義(Optimism)がある。これは🍆よりずっと後輩のライプニッツの頃に復活した。🍆からすると復活してしまったといえる。🍆はこの説を採らない。

なぜなら、最善説でいくと、神の意思はその対象の最善性に因って決定されたことになり、創造における上の神の自由な意思を毀損するから。だから神はいまここにあるこれよりも、もっと良い世界も作れた。と🍆はいうわけです。

では「善い・悪い」とは何なんだろう。

存在するものは存在する限り善である

神が善性の存在なのだとしたら、どうしてこの世には悪があるんだろう。一度はみんな考えたかもしれない。

理論がこの点を打破しないと、ケンドーコバヤシみたいに、罪のない子どもが戦争で亡くなっていることを聞くと「神はいない」と思い、風俗嬢のおしりが自分の顔にカンペキにフィットしたときには「神はいる」と思うような気まぐれな人を出してしまう。

この説に最初にたちむかったのは、ギリシャ正教会の神父たちでした。この「悪」とは何かという問題に初期キリスト教の教父らが立ち向かったおかげで、マニ教の理論を撃退、さらに信徒をとりこむことができた。

その昔、キリスト教に対抗する力のあったマニ教は、善悪二元論という理論を実装した宗教だった。このような善悪二元論宗教は、現代においてほとんど信徒が少なくなっている。

「善の不在論」によって、善悪二元論は超越されることになる。これによって善悪二元論の理論的説得性はくじかれた。

悪は実際にあるのではない。だからどうして悪はあるんだろうという問いそのものが間違っている。というわけです。悪は善の不在だ。

トムとジェリーに出てくるようなチーズを想像してみる。あの三角形の、しかし穴がボコボコあいたチーズです。

私たちは、あのチーズを、穴を含めてチーズだと認識する。しかしながら、そのチーズ(可食部)には穴など存在していない。

この世界にはときに悪があると捉えられる。でも、神という絶対的善者がつくったこの世界には悪が埋め込まれているのではない。私たちがその時々に、あるべき何かが欠けているという意味の穴を認識する。

しかしここで、この世界の善を、神の善と同一だと述べることへは🍆は進まない。有るもの(被造物)全てが神になる汎神論へと落ち込むのを回避するためです。かといって、神の善と被造物の善が全く異なるものとするとき、神の善と被造物の善との関連は全く絶たれてしまう。

🍆はこの2つの道に陥らないように、慎重に論理を組み立てていく。

地上的な幸福=虚偽の幸福がそのままの形で神のうちにはない。しかし、それが虚偽のものとしても、人々が世の中で追及する幸福のうちには何か望ましいもの(desiderable)が含まれている。と🍆は捉える。

それはかすかにでも真の幸福、つまり至福(beatitude)の類似をもつ。その完全で霊的なありかたは、ただ神のうちにある。

よって、地上の幸福も無下に斥けられるものではない。🍆は、そこへ至福への通路を見出します。

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🍆からデカルトの時代までは200数十年ある。そのころ🍆の守りたかったものが退潮してしまう。デカルトやマルブランシュによって第一原因は理性によってすぐさま肯定されてしまう。

これを斥けるはカントの登場をまたねばならなかったが、カントはデカルトの自己自体を斥けたのみならず、神を哲学の外へと追放する。

🍆の理論はデカルトほど進まず、しかしカントほど引きこもったものではなかったが、その中庸へ回帰する道はカントによってしばらく絶たれた。

「哲学は神学の婢」。🍆の言葉。これがカントによって駆逐される。🍆が復権するには、戦後キリスト教哲学を待つことになる。

今日、哲学は終わった学問だと捉える人がいる。科学の伸長甚だしい時代では、哲学は役立たぬ文系学問だと。

だとするなら、哲学はもう一度形而上学に仕えるものとなるべきでしょう。今日の形而下的知性主義の暴走に対して形而上的反知性が逆行する。しかし、二つの対立に調和をもたらすには、形而上的知性が必要だろうと思います。

IMAGE BY 200 Degrees FROM Pixabay








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