読書メモ:『意識と本質-精神的東洋を索めて』

僕は一周目の読書では、その本の言わんとすることの上澄みさえ掬えない。「あーね」とか言っておいて、実際に書いてあることは全然違っていたりする。そのようなスカスカな記録を、残しておくのもよいかと思ったので書いておく。はじめの一歩の手前の「歩く意志」のようなもの。読み進めるごとに更新します。100年くらいかかります。

読んでる本

これ。怪しいオンラインサロンで怪しい人が勧めてたやつ。

まとめ(正しいとは言ってない)と感想


■まとめ 〜p.22
全然何言ってるかわかんないのになんとなくわかるような気がしてうける
・「聯」って「連」て読むんだ

・西洋的な哲学の考え方では、モノ(ある)を認識するために意識と本質がはたらいている。
・例えば、リンゴをリンゴと認識するとき、リンゴという本質(リンゴたらしめる特徴の理解)が人の中にあり、それを意識によって捉えている。
・本質は、世界からモノを切り取るためのもの。モノに与える固有の意味みたいなもの。モノを「ある(とする)」にする。
・故に本質が脱落すると、認識の世界がぐちゃぐちゃになってバグる(サルトル的『嘔吐』)

・これは、意識の視点的なものが「表層意識」に立っているから。経験の世界で「ある(とする)」理屈をコネコネしてる

・東洋哲学の考え方は、視点が「深層意識」にある
・つまり「ない」世界である深層意識から「ある(とする)」世界の表層意識を見つめている
・「ある」は「ない」とも言える。2つの世界は重なっていることを認めている
・故にサルトル的『嘔吐』は起こらない
・なんなら表層意識的「本質」は時々「妄念」などと呼ばれてちょい小馬鹿にされてる

■感想 〜p.22
・西洋的な「ある(とする)」も出発は「ない」からだったはずなのに嘔吐しちゃうのウケる。

生きられそうです