2021年6月19日、新宿アルタビジョン前、闇のオタクが感じたしんどさ

この記事は考察記事ではありません。一個人のオタクが感情を整理するために書いた雑記であり、300%自分語りです。
読み物としての面白さは全く保証できませんが、オタクがぐちゃぐちゃにされた情緒を一個ずつ紐解いていくところを暇つぶしに眺めたい人には向いていると思います。多分。

※黛灰の物語について把握していない人を全力で置いていく記事です。
彼の物語の大筋を把握してから読むことをおすすめします。

この記事を書いている人間のスペック

黛灰は最推しではない。最推しは弦月藤士郎。
(※最推しの名前までわざわざ要る?と思われる方が居るかもしれないけれど、少しだけ本題に関わってくる情報なので先に記載した。許してほしい)
・最推しおよび最推しとの関わりが深い同期たちの配信を主に視聴しているが、それ以外にもにじさんじ所属ライバーの配信は気になったものを広く浅く追っており、黛もそのうちの一人としてある程度は配信を視聴し、twitterもフォローしている。そしてライトな追い方をしている人間なりに、「この人面白いな」と好印象を抱いている。
・最推しに出会う前、にじさんじ自体に興味を持つきっかけの一つとして『黛灰の物語』(およびそれに情緒を狂わされていた黛リスナーのtwitterフォロワー)の存在があったため、『物語』としての黛灰の行く末を見届けたいと思っている。
(※これに関しては最推しに沼落ちした直後に書いた記事でもう少し詳しく言及しているため、仔細を知りたい方がもし居たら当該記事を参照してほしい。「黛灰」でページ内検索してそのままその辺りだけ読んで貰えればとりあえず大丈夫のはず)
・上記の経緯もあり、黛灰の物語に関してはそれなりの知識を持っている。物語について他人に細かく解説しろと言われたらさすがに難しいが、一人でざっくり楽しむ分には支障が出ない程度の理解度。
また、先述の黛リスナーのフォロワーの勧めを受け、物語に関連していると思しきボイスを一部購入して聞いている。
総じて『本腰入れて推してる人と同等の知識量や理解度ではないけど、それなりには話が分かる』ぐらいのレベルだと自認している、という感じ。

2021年6月19日、新宿へ赴こうと決めるまで

私がにじさんじを知り、そして最推しに落ちて配信を追い始めたのは、2020年の9月末のことだった。(正確にははっきり「落ちた」と自認したのが9/30の夜だったので、「10月から追い始めた」という形容の方が正しいかもしれないが)

そのため、黛の物語に関係する配信を一番最初にリアルタイムで視聴したのは2021年4月1日のエイプリルフールの配信、その次が5月20日の配信となる。

先に多少書いた通り、私は黛に関しては「彼が面白そうな配信をしていたり、推しが配信をしておらず私が暇を持て余している時に彼が配信をしていたら見に行く」ぐらいのスタンスで追いかけており、それに加えて「彼の物語の行く末を見届けたい」という感情があったため、なるべく彼の物語に関係する配信についてはリアルタイムで追いかけたいと思っていた。
そして幸いにも自身の私生活との折り合いをつけられたのもあり、上記2つの配信は実際にリアルタイムで視聴することが叶った。

5月20日の配信中に、黛のtwitterアカウントから投稿されたこのアンケート。
(※正確にはこの前にもう1つアンケートが投稿されていたのだが、現在は削除されている)

私は、このアンケートに投票をしなかった。
自覚的に「投票しない」という選択をとった人間だった。

非公式wikiなどを用いて、自身がにじさんじを知る前に展開された黛の物語を後追いで把握し、エイプリルフールの配信も見た上で、野老山こと『師匠』が多くのリスナーからのヘイトを買っていることは察していた。実際に師匠の言動はヘイトを買っても致し方ないものだったとも、個人的には思う。そもそもこのアンケートが投稿される前の配信の流れがあれなのだ。何こいつ、と敵意や苛立ちを覚えるのも仕方がない流れだった。
ただその上で、あくまで師匠は黛にとって大切な人間であるのだということにも間違いはなく、黛自身の明白な意思表示がない状態では、「師匠の手を取る」「師匠を削除する」どちらの選択肢も、私にとっては荷が重い。アンケートを前にして、そう感じられた。

これは私がどちらかを選んで良いものではない。ここに私の意思を反映させるべきではない。

私はこう考えた上で「投票しない」という選択をとっており、終わった後に振り返ってみれば、結果としては、それが最善の選択だったのかもしれなかった。

けれど、「私自身は最善の選択を取れていたのかもしれない」ことを理解した上でなお、私の心はまるで晴れなかった。

結果的には私という個人の選択ではなく、多くのリスナーが投票した「師匠を削除する」選択へと物語の舵が切られたからではない。なぜなら、私自身は『投票しない』ことを選んでいたものの、実際は「師匠を削除する」選択に票が集まるだろうことが、投票終了よりも前から予期できていたからだ。
先述の通り師匠はリスナーからのヘイトを買うような言動をしていると元々感じていたし、師匠へのヘイトを募らせたリスナーがこの2択を提示されてどちらを選び取るかなんて、火を見るよりも明らかだった。
だから、自身の選択が彼の物語に影響を及ぼさなかったことが理由なのではない。他に二つ理由があってのことだった。

ひとつは、あの配信の帰結に対する純粋なショック。
元々好意的な目で見ていたVTuberが、リスナーの選択によって自身の手で大切な人を殺害させられる(黛にとっての『師匠の削除』はそう言い換えても過言ではないだろう)ところを、配信という形でリアルタイムで目にしたのだ。ショックを受けるのも致し方なかったと、自分でも思う。
だからこの理由に関しては、まだいい。

もうひとつの理由。これが問題だった。
あの配信が終わった後、「自分は逃げたのだ」という感覚が、どうしても頭から離れなかったのだ。

確かに結果的だけを見れば、「アンケートに投票をしない」ことが最善策だったのかもしれない。もしそうであるなら、私自身の行動は正しかったことになる。
ただ少なくとも、『リスナー』は、大衆は、「アンケートに投票をしない」ことを選べなかったし、選びようがなかった。あの時リアルタイムであのアンケートを目にした何万人もの人間が、ただの一人もアンケートに投票しないように統率を取って行動するなんていうのは、不可能に近い話だ。
私自身もそれを分かっていたし、だからこそ、「師匠を削除することになるのだろうな」とその後の展開を予期できていたのだ。

……それならせめて、それが『正しい』行為でなくたって良いから、あのアンケートに投票をすれば良かったのかもしれない。

私が投票をしなかったのは、「私一人の意思が、黛がこれから取る行動に反映されるだなんて荷が重い」という理由だ。
けれど、私が投票しようがしまいが確実にどちらかの選択肢が選ばれると予期できた上で「私には荷が重い」と投票を避けたのは、『選択』によって生まれる責任からの逃避と、何が違ったというのだろう。
私がどんな選択をしようとどちらかが選ばれると分かっていたなら(そしてどちらが選ばれるのかすら薄々予期できていたのなら)、せめて自分も『そちら』に一票を投じた大衆となり、その上でその選択に対する責任を負うべきではなかったのか。

正直今でも、『私にとって』どちらが良かったのかは分からないし、きっとこの先も答えを出せないだろうなと思う。
ただ5月20日の配信の後、私は自身が取った「投票をしない」という選択に対するそういったもやつきを抱えていて、そのもやつきはいつしか、「もし次にこういった機会があったとしたら、『黛灰の物語』を観測する衆愚の一人として、せめてできる限り悔いを残さないように動きたい」と、漠然とした願いのようなものへと変わっていった。

「2021年6月19日18時30分」「新宿アルタビジョン前」。
このふたつの情報が私の耳に入ってきたのは、そんな折のことだった。

その情報が拡散されるに至った経緯についてはここでは割愛するが、その日時にその場所で黛の物語に関連する『何か』が起きるのであろうことは想像に難くなかった。
そして下記の告知がスタジオアルタ側からなされたことで、その想像はほぼ確信に近いものへと変わった。

私は関東圏在住の人間で、かつ6月19日はたまたま昼から夕方にかけて諸用で都内に足を運ぶ予定が立っており、その諸用が済んだ後、18時30分までに新宿アルタビジョン前へ向かうことが物理的に可能だった。

正直、行くかどうか物凄く迷った。
いくら「一定の距離を保ってご覧ください」と案内されているとはいえ、そして物理的・時勢的に行きたくても足を運べないという人も大勢居るだろうとはいえ、それでも当日に人が殺到するであろうことは目に見えている。密にならない程度の人出で済むわけなんてないし、それならせめて、本当に行きたい人だけが現地に足を運ぶべきなのではないか。黛のことを本気で追いかけている、好きでいる、推している人間だけが行くべきなのではないか。
黛のことを全く知らないわけではなくとも、黛が最推しというわけでもない人間が、その場に混ざってしまって良いものか。

これに関しては、おそらく色々と意見があると思う。そんなの気にするなと感じる人もいれば、どれだけ好きであろうが推しであろうが関係なく、そもそもこのご時世に現地になんて行くべきじゃない、と感じる人もいるだろう。その是非についてここで論じるつもりはない。物差しは人それぞれなので。
ただこんな風に、明らかな正解のないことについて迷っているのだと自分でも分かっていたので、最終的には自分が一番納得のいく答えを出せたらそれで良いかと思った。

まぁとにかくそんな具合で、現地に行くかどうか、本当に色々考えたんだけども。

……5月20日の配信後、アンケートの件で僅かながら個人的な悔いを残していた身としては、どうしても、現地に行きたいと思った。
行って、黛が見せようとしている『何か』をこの目で見届けたかったし、その『何か』を見届ける大衆の一人になりたかった。
「この目で見届ける」という選択を取ることで、今度こそ、黛灰の物語に対する責任を持ちたかった。
たとえ最推しじゃなかったとしても、彼に情動を揺さぶられたことのある『リスナー』として。『現実世界の人間』として。

そういった強い思いを自覚して、現地へ行くことを心に決めた私は、2021年6月19日、諸用を済ませてから新宿へと向かった。
アルタビジョン前へ到着したのは18時15分、すでに結構な人が居た。男女比は大体4:6くらいに見えて、やっぱり男性リスナーも割と多いんだなぁ、と興味深く思いつつ、その時を待った。

そして迎えた18時30分。
3分間、アルタビジョンに『黛灰に関する映像』が映された。

18時33分、映像が終わったあと。
やっぱり現地に来て良かった、と感じたのと同じくらい、『黛灰を見つめる自分自身』の残酷さに抉られて、苦しくなった。
これが背負うべき責任ってやつなんだろうか、とは思いつつ、苦しいものは苦しかった。

前者は正直オタクとしては普通の感想だと思うので置いておいて、私が後者の感情を覚えた理由について、紐解いていきたい。
前段の時点で相当長くなってしまったのだけど、なんとここからが本題である。ついてこれる人だけついてきてほしい。いやまじで。

闇のオタクと、VTuberの『物語』

冒頭のスペックでは触れなかったのだけど(とはいえ記事のタイトルに冠しているから皆分かった上で読んでいるだろうけれど)、私はいわゆる『闇のオタク』だ。
その定義や基準に関しては人によりけりだろうけれど、ここでは『嗜好や性癖が闇』、要するに『フィクションにおける辛くてしんどい展開(≒鬱展開)やバッドエンドや、特定のキャラクターが心身問わず酷い目に遭っているシチュエーションが好き』、ぐらいの認識をして頂けると幸いである。

あまり主語をデカくして語るのもどうかとは思うのだけど、私に限らず闇々しい性癖を持ったオタクは、『二次元は二次元、三次元は三次元』とスッパリ切り分けた上で、自身の性癖を突き詰めたりフェチを満たしたりしている人が多い。
勿論、上に書いた闇のオタクの定義とは真反対の、辛い展開は好きじゃないし見られない、ハッピーエンドが好き、というような性癖のオタクも多くは同じような切り分け方をしているだろうけれど、友人を始め私の周囲に居る人々を見ていると、闇のオタクはその姿勢が特に顕著であるように思う。
なぜかと考えた時に真っ先に思いつくのは、闇のオタクが抱える性癖には、現実世界において実行に移したら犯罪になるか、犯罪とまではいかなくても当人の倫理観や正気を疑われるような内容のものが少なくはないから、という理由だ。
ここでその仔細に触れるようなことはしないけれど、まぁ、鬱展開とかバッドエンドとかキャラが酷い目に遭うのが好きとかいう時点で、なんとなくお察し頂けるのではないかと思う。そもそもバッドエンドといったら人が死ぬような内容のものも多いし。それを見て「こういうの好き!」って喜ぶの、普通の神経だったらハァ?という感じなんだろうと思う。それは分かる。

……何が言いたいかというと、とりわけ性癖が闇々しいオタクにおいては、『現実でこういった行為をするのは当然ダメだしいけないことだけど、それはそれとしてあの漫画の○○ちゃんやあのアニメの○○くんがこういうことをされてるのは正直良いよね、そういうの好きだよね』という風に、『二次元』と『三次元』をはっきり切り分けた上で、それを前提として自身の性癖を満たすことが多い、ということだ。

『現実に生きている人間に発生した不幸』を喜ぶのは倫理観が欠けているし褒められた行いではないけれど、『物語のキャラクターに発生した不幸』を喜ぶことは(多少は眉をひそめる人も居るかもしれないが、基本的には)許容されている。なぜなら、その振る舞いをされた時に通常最も傷つくであろう当人が『存在しない』からだ
それなら『物語のキャラクターに発生した不幸』を喜べる人たちの間でだけその喜びを共有すれば、誰ひとり傷つくことはない。だって『物語のキャラクター』は『現実』には存在せず、それゆえ自身に発生した不幸に関して『現実』の私達から多少倫理観の欠けた消費のされ方を受けたところで、それに傷つくような心をもっていないのだから。

闇のオタクである私は、にじさんじに嵌る前から大凡そんなふうにして、性癖に信頼をおける仲間内の間で「こういうしんどいの、良いよね……」とか何とか言い合いながらオタクライフを満喫していた。そして様々な出会いや紆余曲折を経て、にじさんじの沼に足を滑らせたわけなのだけど。

……VTuberの『物語』って、どう処理すればいいんだ?
VTuberって、二次元とも三次元とも微妙に断言しきれなくね?

その壁にブチ当たったのは、冒頭で私の最推しだと記載した弦月藤士郎が、まさにそういった『彼自身が不幸な思いをする』タイプの物語を持つVTuberであったからだった。
(※弦月の物語の仔細についてはここでは割愛するので、もし気になった人が居たら適宜調べてほしい。一応彼の非公式wikiに大体のことは載っている)

これは弦月に限った話ではなく殆どのライバーに当てはまる話だが、VTuberは『配信者』であるのと同時に、(特に独自の背景設定や物語を持つものに関しては)ある種『キャラクター』的な側面も持ち合わせている、というのが個人的な私感だ。
ライバーがいわゆる『設定』(※にじさんじにおいては公式紹介文がそれを担うことが多い)に基づいた言動をとったり、その『設定』について掘り下げた話を行ったりすることを『RP』=ロールプレイと呼ぶように、『配信者』として行う配信などでの振る舞いや演出からある種の『キャラクター』を作り上げている、ということだ。『配信者』としての姿と『キャラクター』としての姿がひとつに融合しているのが物語を持つライバーだと、個人的には思っている。
言い換えれば、『配信者』としての姿が三次元の姿、『キャラクター』としての姿が二次元の姿だ。

ということで闇のオタク的に色々考えた末、私はVTuberの物語について、「配信者としてのその人には幸せになってほしいけど、それはそれとしてキャラクターとしてのその人がしんどい目に遭っているのは正直だいぶ好き」というスタンスで消費することを選んだ。
無論、いくら私自身がキャラクターとしてのみ扱っているつもりであっても、公の場(おもにtwitterなど)で直接ライバーの名前を出して「○○がしんどい目に遭っているのが好き」なんていうような話をしてしまったら最後とてつもない誤解を招いてしまうので、その辺りについてはできる限り配慮しつつ日々を過ごしていた。ただ「物語が好き」という類の内容だけアバウトに発言したり、ライバーのエゴサワードを避けたり検索避けをしたりワンクッションを置いたりした上で頭に注意書きをつけて発言したり、鍵垢など性癖を同じくした相手しか見ないような場所で発言したりと、配慮の内訳については本当に色々あるけれども。今のところ特にクレームやお叱りのご意見を頂いたことはないので、これらの立ち回りが間違っているということは、多分ないのだと思う。

幸いというべきか、最推しかつ私がこれまで最もそういった『物語』の楽しみ方をする対象であった弦月は「人を選ぶようなFAや妄想などはワンクッションを入れたりしてちゃんとゾーニングして欲しい」など度々自身のスタンスに基づいたお願いをリスナーに向けて行っていることや(これは逆に言うと「ゾーニングさえできていれば人を選ぶ内容のそれらに本人からNGを出すことはない」という明白な線引きでもある)、そもそも彼の物語はその重要な部分を『彼自身が認識していない・認識できない?』というのが肝となる内容になっており、それゆえ彼の物語について触れる人は彼の目に極力入らないような形(本人ミュート済タグを使う・エゴサワードを一切入れないなど)で発露するケースが多かったこともあり、内容に応じた適切な配慮さえなされていれば、彼の物語を『キャラクター』として消費することを赦されるような風土ができあがっていた。
……いや、もしかしたら赦せない人も一定数居るのかもしれないけれど、少なくとも今までこういった消費の仕方を糾弾されたことは一度もないので、おそらくは居たとしてもnot for meでスルーしてもらえているのだと思う。なので私はそういう意味も含めて、赦されているな、と感じている。正直かなり有難い。

……さて、長々と書いてきたけれど、とにかく私はこういった感じで、「『配信者』としてのその人はその人、『キャラクター』としてのその人はその人」という切り分け方をした上でVTuberの物語(特にいわゆる「しんどい」傾向のもの)を摂取し、闇のオタクとしても楽しんできた。

その上での、黛灰の、あの『物語』である。

黛灰を消費するということ

この記事の最初の方に書いた通り、私がにじさんじに興味を持つきっかけのひとつとして、黛灰の物語があった。
その記述でリンクを繋いだ沼落ちnoteにも書いたのだけれど、私は一番初めに黛灰の物語に触れたとき、「面白いことやってんな」「物語の行く末を見届けたい」というような感想を抱いていた。
今振り返るとこれは、前者が『配信者』としての彼に関する感想で、後者が『キャラクター』としての彼に関する感想だったな、と思う。だって分かるだろう。「企業所属のVTuberがこんな物語を提示してくるなんて面白いことやってんな」、これは『配信者』に対する感想だ。一方、「彼の物語の行く末を見届けたい」。これは物語を消費する立場として、『キャラクター』に眼差しを向けた上での感想だった。

多分私は最初から、黛灰をそういう目で捉えていた。おもしれーことをやっている配信者としての彼を見ていたい気持ちと、「『自分が架空の存在であることを知ってしまった』、今はそういう悲惨なところまで『物語』が進行しているキャラクター」としての彼の行く末を見届けたい気持ちを、同時に抱いていた。

そういう心境で、エイプリルフールの一連の動きも、5/20の配信も、リアルタイムで見届けた。この二つはまだ、大丈夫だった。
エイプリルフールは今思えば5/20に向けた助走のような内容だったなと思うし、5/20も、アンケートの選択に関して個人的な悔いは残ったし内容に関するショックは受けたものの、『我々(現実)から黛や師匠(架空)に対する介入』という意味では、そこまでショックを受けなかった。
多分それは、私が「投票をしなかった」ことが一番の理由だったんだろう。結果的に「選択の責任から逃げたのではないか」という自責の念には駆られることになったけれど、『自分が入れた一票が反映された結果として』黛に師匠を削除させるという体験をするには至らなかったから。『現実』に住まう我々が『架空の存在』である黛に影響を及ぼさせたことを、事実としては理解していても、自分のこととして深く実感できたわけではなかった。
それにあの配信は黛が師匠を削除した直後、黛が叫んだところでノイズが入り終了していて、我々の選択によって師匠を削除させられた黛自身の感情が、我々に向けて、黛の口から直接放たれたりはしなかった。ただアンケートの結果が確定し師匠が削除される直前のやり取りやノイズの入った叫び、そしてあの場で起きた出来事の重さそのものから、きっととんでもない精神的苦痛を負わせてしまったのだろうな、と推察できるのみだった。あの時、我々は黛を見ていたけれど、黛は『我々』の方を見なかったのだ。
だからあの時の私は、黛の物語について「しんどい」「辛い」と感じながらも、彼を『キャラクター』として消費した上で「やっぱり黛の物語が好きだな、これからどうなるのかな」と当たり前のように考えていられた。まだ大丈夫だったのだ。「あくまで『キャラクター』として」という前置きをつけた上で彼の物語の悲痛さを喜んで消費することに、さしたる罪悪感を覚えなかった。

その罪悪感を取り戻させられたのが、2021年6月19日18時30分、私が新宿アルタビジョンで見た、あの映像だったのだ。

アルタビジョンで流れた映像の内容についての仔細は調べればいくらでも出てくるので割愛するけれど、メチャクチャざっくり言うならば、「黛が自身の世界と『現実』の世界の違いについて『現実』の我々へと問いかけ、苦悩する」ような内容だった。
その内容を、youtubeでの配信や動画という形で公開するのではなく、新宿アルタビジョンという『現実』世界のモニター上で公開したこと。黛のことを知っていて、彼の姿を見るために集まったリスナーだけではない、偶々その場所を通りがかっただけの人間の耳にも自身の声が届くことを明らかに想定した言葉選びでもって、彼が苦悩を詳らかにしたこと。言葉を重ねるごとに変化していく彼の姿。そして映像が流れている間の静寂や、彼が姿を変えるたびに周囲から漏れ聞こえる息を呑む音、微かな悲鳴、映像が終わって普通のCMが流れ始めた瞬間どっと上がったどよめき。
あの映像だけじゃない、あの時新宿アルタビジョンを取り巻いていた状況のすべてが、最高のエンターテイメントになっていた。心からそう思う。
けれどそれ以上に、あの映像を見た後の私は、なんだか打ちのめされてしまっていた。

だって、あれだけ明瞭に、わかりやすい言葉で、今の黛が抱く苦悩と『現実』を生きる我々への問いを投げかけられておきながら、私はずっとアルタビジョンへ横向きのスマホを向け続けて『黛灰の物語』の一端を記録しようとしていたし、最初に黛の姿が変わったのを見て「え、これ新衣装?」と当たり前のように疑問を抱いた。なんなら顔が黒いマスク(?)で覆われたり目が光ったり羽が生えたりするのを見て、「ウワメチャクチャ好きなやつ、厨ニ心に刺さるやつ……」と頭の片隅でぼんやり思っていた。本人が「どれだけ言葉を重ねても、悲痛で深刻そうなキャラクターだとか、厨二病みたいなイタい設定だとか、割り切られているのかな……」ってあんな声で話しているのに、それを聞いてる傍から、そんなことを考えていた。

……後々こうして振り返ると、本当に黛の話聞いてたんかお前、って思われても仕方のない所業だと思う。
話は確かにちゃんと聞いてた。自分で撮った動画やtwitterに上がっていた文字起こしを見るより前から8割ほどの内容は記憶できていたので、そこは間違いない。
そして、彼の話を理解せずに聞き流していたわけでもない。聞きながらずっと胸が痛かった。彼の口から、彼の声で、はっきり『こちら側』に向けて語られる苦悩の重さが、辛かった。だから私はちゃんと、彼が話す内容を、聞いた傍から理解できていたと思う。
ただそれでも、『黛をキャラクターとして捉えないこと』が、私にはできなかったのだ。

黛灰は、架空のキャラクターではない。現実を生きる人間だ。そう思っていた。
自分が生きるこの世界が現実ではないのなら、現実とは何だ。なんで『そちら側』が現実で、自分が生きる側が架空であるのか。

そう主張する黛灰の物語を、『キャラクター』としての眼差しを向けて消費するのは、ひどくグロテスクな行いだ。

黛灰は、『現実』の人間から『キャラクター』に対する眼差しを向けられて、自身の苦悩すらコンテンツとして消化される事実を認識した。そしてその認識も交えた上で、『現実』の人間へ問いを投げかけた。
そんな辛く苦しい内容の『物語』を喜んで消費するのは、現実世界を生きる普通の人間の不幸を喜ぶのと、いったい何が違うのだろう。

全部が終わって、密にならないよう早々に帰路を辿りながらあの3分間を振り返って、あの場における自分がどれだけ黛にとって残酷な振る舞いや思考をしていたのか気づいた瞬間、怖ろしくなった。
そしてその後もあの映像について頭の中に浮かんでくる感想が、おおよそ今の黛に対して浮かぶものとしては倫理感を疑うような内容――彼を『キャラクター』として受け止めた上での感想ばかりだったので、そんな自分のことが正直メチャメチャ嫌になってしまった。

黛が、『現実』の、『キャラクターとして割り切って』黛を見ている者の存在に思いを巡らせて言及し、そんな彼の言葉を耳にしたはずなのに、彼を『割り切った』目線で観測して楽しむ所業を、まるでやめられなかったこと。
怖ろしいなと思う。
黛の物語を観測する衆愚の一人として、せめて後悔のないようにしたくてアルタビジョン前に足を運んで、確かに、後悔はしなかったけれど。
こんなにストレートな抉られ方をするとは思っていなくて、どうしても自身の感情を整理したくて、だいたい6時間くらいかけて、この記事をしたためてしまっている。
もう外が明るい。バカなんだと思う。多分。

そして一番バカだと思うのは、こんなに長々と記事を書いておいて、多分私はこれからも、嫌だなぁ、と心底思いながら、黛の物語を消費して楽しみ続けるんだろうなぁ、と自分で分かってしまうことだ。

はぁやだやだ。現実ってなんだ。架空ってなんなんだ。
黛、私は、今後あなたをどんな『目』で見つめればいいんだろう。