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多様性について思うこと
担当:谷弘
今回は、「多様性」をテーマに書きます。
-多様性原理主義への違和感
皆さんは、「多様性のある社会」に対して肯定的でしょうか、否定的でしょうか。今の時代、否定的という人なんてほとんどいないような気がします。僕自身も、多様性が発揮される社会のほうがいいなと思う一方で、共感できない多様性の話も結構あるなと言うのが印象です。
多様性を声高に主張する一方で、「多様性がある」ことそのものが目的になってしまい、深みを失ってしまった多様性原理主義のようなものをよく見る気がするのです。そういう人たちの多くは、世界を「多様性を認める人」「多様性を認めない人」という2分割をしていて、「多様性を認めないという多様性をどうやって認めればいいのか?」という質問に答えられない人が多いように思います。そして、僕個人としては、多様性を認める/認めないの二元論で考えることには共感が出来ません。
-なんのための多様性か
そもそもなんで、多様性の話が必要になるかと言うと、あるべき多様性を我々が失ってきてしまったから肌感覚の中で多様性への渇望がでてきたということではないでしょうか。
産業革命などが代表的ですが、我々は「規格化」を大きな文明の利器として社会全体の生産性をぐんぐんと伸ばしてきました。生活はとても豊かになりました。日本に住んでいる人は飢えに苦しむことも、凍えることもない。衛生的なベッドで毎日安心して眠ることができる。「社会をより良くすること(もっと狭い表現で言えば、経済発展)」を果たすことに成功した一方で、「多様性」を差し出すことになりました。
結果として、同じ用な街、同じような価値観、同じような服、会社などで活躍するのは、同じような性別(ジェンダーダイバーシティの欠如)、同じ用な年齢層(ジェネレーションダイバーシティ)、同じような勤務体系が取れる人(ワークスタイルダイバーシティの欠如)etc... となっていってしまったのかなと思います。
好きこのんで多様性を削ぎ落としていったのではなく、「社会をより良くすること」を目指した結果として泣く泣く手放したという構造。多様性の捉え方にしても、まず「なんのために我々は多様性を失ったのか?(=不足感をかんじているのか?)」の共通認識の上に、「多様性をより幅広く取るにはどうすればいいか?」と考えることが重要です。
後編の内容:①多様性のある社会を目指して、2つの挑戦 ②多様性が実現できることは尊い