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「切り分ける」ことの大切さ ー「大学入試改革」をめぐる混乱を例に考えるー

担当:中山

  こんにちは。very50スタッフで、元高校教員の中山諒一郎です。
『大学入試改革』をめぐる混迷は深まるばかりで、12/5には読売が「国語・英語の記述式も延期検討」と報じました。

参考:https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20191205-00050207-yom-soci

 ちょうど今、very50では冬休みに実施するPJに向けて、高校生に事前トレーニングを行っている真っ最中で、私も授業を担当しています。
その中でcritical thinkingについて扱うことがあるのですが、その際重要なのは「問題を適切に切り分けること」だと考えています。
例えば、「企業の利益の低減」が問題となっている場合、「利益の低減」を「コストの上昇」と「売り上げの減少」という2つの要因に「切り分ける」ことから問題分析は始まります。
「MECE」などのフレームワークが重視されるのもそのためです。

 そこで、今回の騒動を題材に、「問題を切り分けること」について私なりに考察してみたいと思います。
ただし、ここではあくまでも「論理の構成」のみに着目し、その内容についての論評や意見の表明は極力差し控えたいと思います。

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問題を「切り分ける」ということ

 まず、私は冒頭「『大学入試改革』をめぐる混乱はー」と書きました。一連の報道の多くがこの表記をとっていることに倣ったものですが、これはすでに問題を「切り取って」います。
事実として、この改革は元来「高大接続改革」ないし「高大一体改革」として議論されてきたものです。
なぜなら、これまで日本でされてきた教育改革はこの一体性を欠いており、ゆえに「結局入試が変わらないからそこの対策をせざるをえず、教育内容・方法も変わらない」という構図に陥っていたからです。
つまり、今回の問題を批評するなら、問題の構造として「高校における教育内容・方法」と「大学における入試」の両輪があることを、少なくとも常に念頭におかなければなりません。
 その上で、一方について批判するなら、それに伴う他方への影響も当然論じるべきですが、一連の報道にはこの視点が欠けているように思われます。

 では、どのようにこの問題を切り分ければいいのでしょうか。そこにはいくつかの軸が考えられます。

理念vs方法

 第一に「理念/方法論」という軸です。
今回の教育改革は、「どのような理念であるべきか」と「どのように実施すべきか」という2つの要素に切り分けることができます。
当然ながら、例えば「実施方法に問題がある」から「理念も否定」することも、その逆も、論理的には誤っています。
議論する際には、改めて、教育は「理念としてどこを目指すのか」「方法はどうあるべきか」そして「その手段は合目的的といえるのか(手段の妥当性)」の3つの段階に切り分けて考えるべきです。
少なくとも昨今の報道の多くは「方法に問題がある」ゆえに「この改革を中止すべきだ」という論理の飛躍を犯しているように思われます。


公平性vs公正性

 第二に、「公平性/公正性」という軸です。
この2つは一見よく似ていますが、意味は異なっています。
大辞林(第三版)では公平とは「かたよることなく、すべてを同等に扱う・こと(さま)。」であると説明しています。
一方で、「公正」という言葉はもう少し複雑です。
その定義は多様ですが、心理学や政治学の領域では、「分配的公正」と「手続き的公正」に切り分けられることが一般的です。(参考:『最新 心理学事典』)
 ちなみに、文科省及び中教審での議論では、試験に求められるのは「公正性」であると一貫して主張されています。
そして、それらの議論を見る限り、公正とは主に「手続き的公正」を意味しているのだと私は理解しています。
(参考:『大学入学者選抜の公正確保等に向けた方策について』(最終報告)令和元年5月31日)

 今、「記述式は正確に採点できるのか」などの批判がされていますが、ここでいう批判はどちらを想定しているのでしょうか。批判の内容を見るに「公平性が担保されない」ということのようですが(実際「公平性」という言葉が多く使われているのをよく目にします。)、本来この批判は的外れです。なぜならそもそも公平性よりも公正性を重視するのが改革の本旨だからです。
 ただし、そもそも「公平性よりも公正性を重視すべきなのか」という「理念」についてはもちろん議論の余地があります。
今回の改革ではアメリカの入試制度を参考にしたとも言われていますが、その本場アメリカでは、公正性を求める入試は、まさに生徒の『身の丈』すなわち家庭の経済状況に相関した経験値によるところが大きく、これは「大学進学が階層移動を可能にし経済格差を解消するという社会的意義を踏まえていない」との批判があがっています。このような「手段ではなく理念の問題として」の議論はありうるのだろうと思います。

参考:https://news.yahoo.co.jp/byline/takeuchikan/20191105-00148900/

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まとめに代えて

 ここまで「問題を適切に切り分けることの大切さ」についてみてきましたが、最後に責任の所在についての「切り分け」について考えてみたいと思います。メディアは「文科省の責任」や「民間企業の問題点」を批判し、賛成派の文科省や教育関係者は「メディア」を批判する。この構図自体、果たして教育改革について論じる際に適切な「切り分け」と言えるでしょうか。
私はそうは思いません。
 なぜなら、ここまでの議論とは反対に、教育改革の責任については、本質的には「切り分けるべきでない問題」だと思うからです。
私たちが今議論しているのは「未来の担い手」についてであり、「今と未来」が不可分である以上、それは今を生きるすべての「私たち」が担うべき責任です。
 政治家を選出したのも私たちであり、メディアを消費しているのも私たちです。
 葛折りの「今」の連続の先に「未来」がある以上、今を生きる全ての人が自分ごととして考えなければなりません。
 「文科省」の問題でも「学校」の問題でもなく、そして「子供」の問題でも「大人」の問題でもなく、「私たち」の問題です。
 感情的な意見に惑わされることなく、今こそ冷静に「問題を切り分け」て、未来について真摯に議論していくべきだと、私は思います。

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