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「悪人」と「他力」の個人的解釈について

今日は私の人生のバイブル(にしたい)「歎異抄」で解かれている「悪人」と「他力」について自分なりの解釈と学びを書きたいと思います。

参考にさせて頂いたのはこちらの本。
すごく分かりやすくて、面白くて、一気に読めました。

歎異抄とは

歎異抄はいわゆる仏教経典ではありません。
筆者は諸説ありますが、親鸞聖人と時を同じくして生きた僧侶と言われています。大きく前半と後半に分かれていて、前半は筆者が若い時分に親鸞聖人から直接聞いた言葉を記憶を辿って書き残したもの、いわゆる親鸞聖人の「名言集」みたいな感じですかね。

後半はその内容を踏まえ、筆者が生きる時代の浄土真宗に対する理解に様々な都合の良い解釈が出てきて、筆者が親鸞聖人から伺ったその真意からは、随分と異なったものとなってしまっている。その状況を歎いた内容となっています、なので「歎異抄」なんですね。

歎異抄といえば、前半部の「第三条」と言われる箇所の以下のフレーズがすごく有名だと思います。

善人なおもって往生をとぐ、いわんや悪人をや。

この意味は「善人ですら浄土に往生することができるのです。まして悪人は言うまでもありません」となります。なんか違和感ありますね。普通に考えると逆じゃないの??

この文章から歴史の授業なんかでは、浄土真宗は親鸞聖人が開祖で「悪人正機説」を説いた・・・なんて感じで覚えたりしました。

浄土真宗は「悪人」こそ信じる心を持って南無阿弥陀仏(本願寺派では「なもあみだぶつ」と読みます)と唱えれば誰でも極楽浄土にできる、なので全てを阿弥陀仏さまにお任せすれば良い・・・という「他力」の教えです。

この「悪人」と「他力」の言葉に私はすごく奥深さを感じました。
この2つの言葉の本質には

「無力でちっぽけな自分自身を知り、ありのままの自分自身を認める」

ということがあると私は思いました。
その辺りをそれぞれの言葉について歎異抄にある教えを踏まえ書いてみたいと思います。


「悪人」 - 生きてる以上誰だって煩悩から逃れられない。

まず「悪人」という言葉ですが、必ずしも犯罪者とか社会不適合者とかそういう意味で言ってるわけではありません。

悪人とは「煩悩から逃れることができない人」という意味です。
煩悩とは身心を乱し、悩ませ、知恵を妨げる心の動きのことです。

この現代社会で生きていると様々な悩みがあります。仕事のこと、家族のこと、お金のこと、勉強のこと、いい事もあれば嫌な事もあります。こう言った感情は全て「煩悩」です。

人間は基本的に自分自身の欲に対して感情を作り上げます。お金が入ってくると嬉しかったり、喜んだり、自分にとって都合が悪いことがあると嫌な思いをしたり悲しんだり・・・

ただ、それは人間としては当たり前の感情、生きている以上逃れることができない感情であると親鸞聖人は認めているのだと思います。実際、全く欲がない人なんで基本的にこの世にはいないと思いますし、そんなこと言っている人は全くのウソですよね。(笑)

なので人間は基本的にみんな「悪人」そしてこういう人こそ信じる心を持って念仏を唱えれば極楽浄土に行けると説いたのが親鸞聖人の教えです。

相対する言葉で「善人」がありますが、これはすごい修行を積んで生きているうちに本当に煩悩から解放された人という意味です。ものすごい修行をすることで当時のお坊さんとかに実際に善人がいたのかもしれませんが・・・善人だけが救われるとなるとそんな苦行を乗り越えた選ばれし者だけが救われるという事になってしまいます。

なのでこの「悪人」という言葉の裏には私は

「今のままでいいんだよ」
「自然に感じた気持ちに従って生きていればいいんだよ」
「特別なことせず頑張らなくてもいいんだよ」

という救いの意味があると感じています。
そして、悪人こそ言うまでもなく救われるんだよ・・・という意味から「いわんや悪人をや」というフレーズになっているんだと思います。


「他力」 - 自分一人の力なんてちっぽけなもの。

次に「他力」ですが、これは極楽浄土に行くには南無阿弥陀仏と唱えるだけ、後は阿弥陀仏さまの広いお心(本願)で救ってくれるので一切をお任せすれば良い・・・という考え方になります。

よく仕事の場面である「他人に丸投げする」とかそういう意味ではありません(笑)

他力の反対は「自力」という事になりますが、要するに自分一人の力では何もできないでしょ?と言うことを言っています。これは悲観的な意味ではなく、この現世の人間社会だと自分一人の力ってとてもちっぽけなものだと思います。仕事やスポーツなどの場面でも同様で、一人で何かをやり遂げるよりも、チームや組織を作ってみんなで力を合わせて取り組んだら何倍もの力を発揮して大きく物事を動かせるようになります。

「他力」と言う言葉の真意として、親鸞聖人は自分一人の力はとても小さいものである・・・と言うことを認め、大きく俯瞰的に社会を見つめた中での自分自身と言うものを知っているんだと思います。そして、極楽浄土に行くためには悪人で煩悩だらけの自分の小さな力でなんとかするのでなく、大きく広いお心をもった阿弥陀仏さまにただ南無阿弥陀仏と唱えてお任せすれば良い・・・と説いているのです。

ひとつ歎異抄の中で知ったエピソードとして、親鸞聖人はお弟子さんを持たなかったと言われています。その真意として、阿弥陀仏さまの前では人間みんな並列で同じものという考えがあったようで、例えば弟子が阿弥陀仏さまを信じたのは全くもって自分の力によるものでは無く、他でもない阿弥陀仏さまのお力よるものであると、弟子は自分を信じたから阿弥陀仏さまを信じたのでではなく、阿弥陀仏さまそのものを信じたのである・・・と

それなのに人間同士がやれ自分の手柄だ、自分には力があると言っているのは、大きな阿弥陀仏さまの前ではとても小さい、取るに足らないことである・・・このお話を聞いて自分もいい意味で

「自分は社会の中では小さな存在」であることを知り
ゆえに「人間同士のちっぽけなやり取り」で悩む必要なんてない

という考えを持とうと思えるようになりました。「他力」という言葉にはそんなパワーが込められているように感じています。


朝のウォーキングと晨朝勤行のルーティン

最後に、別の記事でも紹介しましたが、築地本願寺の公式YouTubeチャンネルで 本堂のLive配信が行われていて、毎朝7:00から行われる「晨朝勤行(朝のお勤め)」もLive配信されます。

※築地本願寺は浄土真宗本願寺派のお寺です。

私はこちらの配信を毎朝ウォーキングしながら聴いています。
私も立派な悪人の端くれなので・・・朝から色々考え事をしながら歩いていて煩悩だらけの頭の中ですが、それでも毎日上記で自分なりに理解した教えを少しでも思い出しながら心を整えて一日を始めるようにしています。

歎異抄やその他仏教に関する教えや文化などついても色々今後も文献を読んで研究していきたいと思いますのでまた新たな考え、知見ができましたら記事にしたいと思います。

今日も読んで頂きありがとうございました!!

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