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感情的な他人の暴走ついてのメモ

 ネットは所詮掃き溜め。ネット上、しょうがないのだけど、どうしようもなく客観的意見を欠いて暴れ回っている人は思わず見てしまう、何よりそういう文章は感情的で、一応訴えかけようという意思のもとで書かれているから、求心力みたいのは強いのだと思う。

 行動経済学みたいなものを引き合いに出すまでもなく、人間は非合理的な生き物だ、客観性やデータよりも感情が何よりも行動づける。だから、強い文章や言葉に寄せられてしまう。

 客観的な文章を書きたければ、相手の気持ちになり、事実と私見を分け、妄想は書かず、データから得られる情報を書こう。強い言葉を避けるべきだ。

 議論というのは、同じレベルでしか発生しない。相手が、暴言を吐くなら、相手の言葉や言論に合わせて、言葉の強度を強めていければ、印象で負ける。よく論破王などと言われるが、ディベートというのは、そもそも決定的な欠陥を抱えている。正しいものを見出すのに向いていないとすらいえる。

 彼らがどうしてそういう暴走をしてしまったのか、想像するのは難しくない、現実で不満を別の形で発散しているだけで、現実は案外いい人なのかもしれない。そういう性善説でやってなかいかないと自分が世の中やっていけない、絶望してしまう。

 よくIQや偏差値がいくら違うと話が合わない、みたいな記事を見るが、実際そうかもしれないし、都市伝説かもしれない、ただ思うのは、無知の知という前提が彼らには共通して存在しない、自身満々で自分は間違っているところなど、1mmもないような感じ。自分の愚かしさを本当に直視したら、たちまちのたうち回るだろう、だから見ないし、無知を認めず、暴走を続ける、その方がよほど楽だから、人間は苦労したくない動物だ。
 
 自分がどこまでも勉強しようが、偉くなろうが、客観的であろうが、無知であること、所詮、人間であり、動物なのだ。

 さて、ここまで書いてみたけど、一応の結論を出しておく。暴走する彼らにどう対処したらいいのか。

 一つ目は逃げる事。馬鹿を相手にしても仕方ない

  二つ目は、他人に介入してもらうこと。
警察、裁判所、上司などがそれにあたる。客観的に見て処遇を判断してもらおう。

  三つ目は対話を選ぶこと。大事なのは相手のルールや前提を確認すること。恐らくこちらの世界観とは大きく離れているだろうが、そういうものはそういうものでしかない、間違っても、自分たちに正しさを証明して、相手にその正しさを共感してもらおうと思わない方がいい。主人公の正しさに悪役が共感することない。さっき書いたように、そんな柔軟な思考があるなら、感情論を書いたり、問題になってない。右頬をぶつなら、左の頬を差し出さなければいけない精神である。別に意見が異なろうが、人間は手を取り合うことはできる。


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