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小説をより楽しく読むために―「語り」について

こういう経験はありませんか。芥川龍之介や太宰治の小説はなんだかすごいらしい。でも、読んでみてもよくわからない。なにがそんなにすごいのか?

文豪に限らず、話題になっている小説を読んでみてもなにが面白いのかはっきりしない。なにがそんなに面白いのか?

実は小説には、(とても大きく言って)ふた通りの読み方があります。ひとつはストーリーを楽しむ読み方。Whatの読み方と呼べる、内容を楽しむような読み方です。

そしてふたつめが、Howの読み方と呼べる、それがいかに書かれているかを楽しむ小説の読み方です。今回は「語り」という観点から、このHowの読み方についてご説明いたします。

○「語り」とは?

大学で文学をやっている人ならともかく、そうでない方にとっては文学を読むのに「語り」をどうこうするというのは実感がわきにくいかと思います。

抽象的な話をするより、具体的な文章を読んだほうがわかりやすいでしょう。次の2つの小説を読み比べてみてください。

メロスは激怒した。必ず、かの邪智暴虐の王を除かなければならぬと決意した。メロスには政治がわからぬ。メロスは、村の牧人である。笛を吹き、羊と遊んで暮して来た。けれども邪悪に対しては、人一倍に敏感であった。

太宰治『走れメロス』

えたいの知れない不吉な塊が私の心を始終圧さえつけていた。焦躁と言おうか、嫌悪と言おうか――酒を飲んだあとに宿酔があるように、酒を毎日飲んでいると宿酔に相当した時期がやって来る。それが来たのだ。これはちょっといけなかった。

梶井基次郎『檸檬』

『走れメロス』の主人公はメロス、『檸檬』の主人公は「私」です。しかし『檸檬』の話を語っているのが「私」である一方、『走れメロス』の話を語っているのはメロスではありません。「語り手」が違うのです。

これは別に難しい話ではありません。メロスが「メロスは激怒した」と言うのは変ですよね。普通、「私は激怒した」になるはずです。実際、『檸檬』はそういう形式になっています。

『檸檬』が「私」が「私」のことを語る形式であるのに対して、『走れメロス』にはメロス以外の「語り手」が存在し、紙芝居のようにメロスの行動について説明しているのだ、ということになります。

『走れメロス』と『檸檬』の語り手の違いは、とりあえず、三人称の語りと一人称の語りの違いだと言えるでしょう。「私は~」「僕は~」「吾輩は~」などで語るのが一人称の語り。「彼は~」「彼女は~」「山本は~」などで語るのが三人称の語りです。ふつう三人称の語り手は、作中には登場しません。でも誰かが語っていないと物語は存在しませんから、語り手は確かに「いる」のです。

○「語り」から小説を解釈する

では、語り手という概念を導入することで小説の読みはどのように変わるのでしょうか。ここでは、特に語り手の概念が重要になる一人称の小説について考えてみましょう。

たとえば、次のような状況を考えます。A氏は28歳。受験から10年経ったいま、受験生だった18の夏を振り返る。A氏はその夏の模試、数学で高得点をとった。

それを語るA氏の語り方には、どのようなヴァリエーションが想定できるでしょうか。いくつか例を挙げましょう。

①受験勉強中の夏、私は模試の数学で90点をとった。
②受験勉強中の夏、私は模試の数学でなんと90点も獲得した。
③受験勉強中の夏に受けた模試でも、数学の点数は90点しかなかった。
④受験勉強中は、数学が得意だと思っていた。模試で高得点をとったからだ。
⑤18歳のとき、8月10日に行われた模試で、私は数学の科目で90点をとった。国語は78点、英語は60点だった。それは私が3回目に受けた模試だった。

①は比較的中立の語りです。それに対して、②以下はどうでしょう。たとえば②からは高得点をとれたことに対する喜びのようなものが伝わってきますし、③からは数学以外が満点に近い語り手の、完璧主義的な点数へのこだわりがうかがえます。また④は当時の自分と距離をとった語り方で、その後数学に関する挫折があったことを予告しています。⑤は過剰に数字が散りばめられており、語り手の数字に対する強迫観念のようなものが読み取れます(村上春樹のデビュー作『風の歌を聴け』の語りがこんな感じです)。

このように同じことを伝えるのにも語り手はさまざまな語り方を選択しますし、それは私たちが日常的に行なっていることでもあります。重要なのは、語りに注目することで、実際に語っている内容以上のこと(上記の例なら、A氏の内面)を読み取ることができるのだということです。それが、語りに注目して小説を読むことのメリットです。

では次に、実際の小説に即して考えてみましょう。

○太宰治『人間失格』

太宰治の代表作として知られる『人間失格』は、なかなか複雑な構成を持っている小説です。この小説には、「私」による「はしがき」および「あとがき」にサンドイッチされる形で大庭葉蔵による三冊の手記が挿入されています。「はしがき」と「あとがき」の語り手は「私」ですが、手記の書き手=語り手は大庭です。

この二人の関係などを考えるとややこしくなりすぎますから、ひとまず小説のメインである手記の内容に注目して話を進めていきましょう。以下『人間失格』の語り手と言ったら、とりあえず大庭葉蔵のことを指すことにします。

 恥の多い生涯を送って来ました。
 自分には、人間の生活というものが、見当つかないのです。自分は東北の田舎に生れましたので、汽車をはじめて見たのは、よほど大きくなってからでした。自分は停車場のブリッジを、上って、降りて、そうしてそれが線路をまたぎ越えるために造られたものだという事には全然気づかず、ただそれは停車場の構内を外国の遊戯場みたいに、複雑に楽しく、ハイカラにするためにのみ、設備せられてあるものだとばかり思っていました。しかも、かなり永い間そう思っていたのです。ブリッジの上ったり降りたりは、自分にはむしろ、ずいぶん垢抜けのした遊戯で、それは鉄道のサーヴィスの中でも、最も気のきいたサーヴィスの一つだと思っていたのですが、のちにそれはただ旅客が線路をまたぎ越えるための頗る実利的な階段に過ぎないのを発見して、にわかに興が覚めました。

太宰治『人間失格』

手記はこのように始まります。まずは普通に内容を読んでみましょう。大庭には、「人間の生活というものが、見当つかない」。たとえば彼は、停車場=駅に架けられたブリッジを、「気のきいたサーヴィス」だと考えていて、その実用性には気づかないまま過ごしてきました。なるほど、たしかに大庭の感性は、人とは違いそうです。

このあとも地下鉄や空腹というテーマについて、大庭が他の人々とはずれた観念を抱いていたことが記されていきます。そういう人だったらふつうの人の生活がうまく理解できないのも納得ですし、ずれた感性を持つゆえに「恥」をかくことも多かったでしょう。

ここからさらに読み進めると、「つまり自分には、人間の営みというものが未だに何もわかっていない、という事になりそうです」という、冒頭の「自分には、人間の生活というものが、見当つかないのです」と類似した文章にぶつかります。どうやら大庭の言いたいのはこのことであり、「人間の生活がわからないわたし」の話がこれから展開されていくと予想できそうです。大庭さんも苦労したんですね。

いや、ちょっと待ってください。ここまでの部分ですでに、大庭の語りには矛盾している部分があります。それがどこか、気がつくでしょうか?

食い違っているふたつの文章を並べてみましょう。

・しかも、かなり永い間そう思っていたのです。
・つまり自分には、人間の営みというものが未だに何もわかっていない、という事になりそうです。

このふたつの文章は、どのように食い違っているでしょうか。先ほど確認したように、大庭は自身の経験を振り返りながら、「未だに」人間の生活がわからないのだと述懐します。

ところが「いま」の大庭には、たとえば駅のブリッジの実用性が理解できているのです。「かなり永い間そう思っていた」という語りは、「でもいまは勘違いしていませんよ」という事実を明かしてしまっています。当然です。勘違いしたままだったら、勘違いについて語ることはできません。「正解」と「間違い」がわかっている人間だけが、自分の「間違い」について解説できるのです

もちろんブリッジはただの具体例のひとつですから、いまでも大庭はさまざまな面で人と自分との違いにぶつかり、戸惑っているのかもしれません。しかし少なくとも、彼が「この人はブリッジの実用性さえわからないんだ、それはたしかに生活するということがよくわからないはずだな。いまでもそれで苦労してるんだろう」という理解を誘導するような語り方をしているのは事実です。

大庭はある程度「人間の営み」が理解できてきている。なのに、自分ではそれがわからないのだと繰り返し訴える。この齟齬はなんなのでしょう。作者太宰治のミスでしょうか。

いや、ミスにしたら手が込みすぎています。ここは、作者からサインが出ていると読んでおきましょう。「こいつは「人間の営みがわからない」なんて言ってるが、実はそうでもないんだぜ。素直に信じちゃいけないぜ」というサインです。

ここまで読めたら、次は大庭の意図を考えてみる必要があります。「人間の営み」がわかってきているらしい彼が、なぜ「人間の生活というものが、見当つかないのです」と強調しなければならないのか。それを意識して読み進めていけば、物語の表面に見えている内容の裏側に、「語り手はなにをしようとしているのか」という別の物語も見えてくるでしょう。

ここまで簡単に手記の冒頭を読んできましたが、実際の作品はもっと長いですし、もっと複雑です。たとえば最初に示した通り、そもそもこの小説には「私」という語り手も登場するのです。大庭の語りにはちょっと怪しいところがありました。では、「私」の方は……?

語りに注目することは、このような複雑さを楽しむことでもあるのです。

○語り手は「嘘」をつく

大庭葉蔵のように、出来事をありのままに語るのではないような語り手を、「信頼できない語り手」と呼びます。ミステリー小説で、語り手が犯人である場合などがこの「信頼できない語り手」の典型です。

ただ私たちの日常生活を振り返ってみればわかるように、「私」の語りには多かれ少なかれ先入観や思い込み、勘違いがまぎれこんでくるものです。あえて嘘をつこうと思っていなくても、結果的に間違ったことを語っていることはよくあります。一人称の語り手は、濃度に差はあれみんな「信頼できない語り手」なのだと言えます(では三人称の語り手の場合は?、などと考えていくことが、文学研究の楽しみです)。

ふだんとは違った視点で小説を読んでみたい人は、試しに一人称小説の語り手がどのように「事実」を再構成しているのか確かめながら読んでみるといいでしょう。語り手が嘘をついていること、気づいていないこと、忘れていること、勘違いしていることなどはないでしょうか。

語りに注目することで、読書の経験はまた違ったものになるでしょう。

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