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図書館で怒鳴るおじさん

先日図書館で勉強していたら(最近、自習スペースのある図書館は貴重だ)おじさんが怒鳴っている声が聞こえた。遠かったので詳しいことはわからなかったけれど、どうやら図書カードを作るのに必要な身分証明書をたまたま持ってきていなかったらしく、そのためにカードを作れなかったのが不満らしい。

おじさんは30分くらい怒鳴り続けていた。

おじさんの声を聞きながら、僕はふたつのことを考えた(おかげで読書に身が入らなかった)。

①おじさんはよくこんなに怒ることができるな

多くの人にとってもそうだと思うが、僕は図書カードが作れなかったくらいでそんなに怒ることはできない。その日図書カードが作れなかったらからといって、大して不便でもないのだ。

僕にはおじさんの怒りが全く想像できない。

これがもう少し、おじさんにとって有益な怒りなら分かる。たとえば飲食店とかなら、ゴネれば飲み食いの金がタダになるかもしれない。だとすれば怒鳴ってみることも、まああり得るかもしれない。

図書館でゴネたところでどうなるというのだろう。ここでおじさんが得られる最良の結果は、証明書無しで図書カードを作ることができるという、ただそれだけのことなのだ。怒って見せる意味がない。

だとすればおじさんはまさか本気で怒っているのだろうか。図書カードが作れなかったぐらいのことで?それで30分も人は怒れるものなのか。せいぜい捨て台詞を吐いて退場、くらいじゃないのか。でも、おじさんはずっと怒鳴り続けていたのである。なんという苛立ち、なんというエネルギー。

こういうおじさん(おばさん)に出会うと、僕は「他者」に直面しているという感じがする。おじさんがなぜそんなに長時間怒りを持続できるか、さっぱりわからないからだ。極端なことを言えば、強盗とか殺人の方がまだ共感できる。共感というより、想像ができる。まあそういう人もいるんだなと思える。なにか犯罪を犯すに至った理由とか、衝動的な気分とかがあったんだろうなと思える。

しかし図書カードが作れなくてキレ続ける人間というのは自分の理解からかなり遠い。僕は図書館で、おじさんという他者に直面する。

おじさんは口汚く職員を罵り続けている。

②こういう人も存在するのが公共空間なのだな

図書館は公共の空間であり、基本的に誰でも入ることができる。そういう場所だから、たとえば不登校の子供にとってのサードプレイスとして図書館が挙げられる場合も少なくない。図書館の方でも、そうした自身の役割に自覚的である。

あるいは図書館は、異なる世代の人々が長時間同じ空間で過ごす数少ない場でもある。地域のおじいちゃんおばあちゃんはよく図書館で本や雑誌を読んでいる。学生たちは主に自習スペースとして図書館を活用している(もっとも純粋に本を読みたい利用者からすればそうした学生は邪魔なのか、図書館における自習スペースの肩身はやや狭い)。なかなか接する機会のなじ老人と若者が、本をあいだに向かい合う。

こうした図書館のあり方は、いわば公共空間のポジティブな面だということができよう。しかし僕にとっての公共空間は、どちらかというとそのネガティブな相において捉えられている。

僕は、公共空間とは不愉快な他者に出会い得る空間である、と考えている。

ふだん僕たちが所属している空間の多くは、なんらかの基準でゾーニングが働いており、多かれ少なかれ自分と同じような種類の人間が集まっている。学校などはその最たる例だし、職場もそうだろう。飲食店や喫茶店なども、値段帯によってはある程度ゾーニングが働くだろう。

ところが公共空間にはそういったゾーニングが存在しない。たとえば駅だ。電車を日常的に利用する人なら、一度ならず「よくわからないやばい人」に出会ったことがあるはずである。僕もつい一年ほどまえに、駅のホームで「なに笑とんねんボケえ」と突然怒鳴られたことがある。あるいは真夏なのにスーツを着込み礼装をしたおじいさんに、「電車でうちわを使うのは日本人として見苦しいからやめなさい」と注意されたことがある。あるいは……

とにかく、こういう人がしばしばいる。誰でも利用できる空間だから、誰でも入ってくる可能性がある。つまり図書館で怒鳴るおじさんはぶっちゃけちょっとアブナイ人だけれども、そうした人が存在していることこそが、そこが公共空間である証だという気がするのである。

僕たちは、というかリベラルは公共空間を割りとポジティブなイメージで語りがちである。弱者でも利用できる空間としての公共空間。あるいは都市に連帯を取り戻すための公共空間。図書館や公園にそういった側面があることは確かだ。でも誰でも包摂する空間には、しばしば「やばい人」も紛れ込んでくる。

それは場合によっては、あんまりポリティカルにコレクトではない人たちだ。でもそうした人たちだけ都合よく弾こうとしたら、それは公共空間を歪めてしまうだろう。公共空間は、迎え入れたくない他者を迎え入れざるを得ない場所なのだ。その人を包摂することが自身に道徳的な満足を与えないような人も包摂するような空間として、公共の場所を考える必要があると思っている。

僕たちはもっと不愉快さに向き合わなくてはならない。

僕にとっての公共空間論は、おじさんの怒鳴り声から始まる。



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