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いい学校、いい授業

大学で非常勤講師をして1年半ほど経つ。大学で教えるのは新鮮な経験だが、一応長く塾講師をしていたので、そこから大した変化はなかった。場所は変わっても、必要なことや大切なことはあまり変わらない。

あとは求められることに応じてやり方を調整するだけだ。授業中はギアを変えて、キャラクターを作る。なんとなくの観察だが、授業がうまい先生はキャラを作るのが上手だ。必要に応じてテンションを上げてクラスを盛り上げる。だから明るい先生だと思って接すると、性根はそうでもなかったりする。バイト先の塾長が言っていた、「教育は究極のサービス業」。先生も大変だ。

今の大学は生徒のことをとても大事にする。退学されたら困るというのも本音だろうが、リベラルな思想が内面化されている。時折大学から個別の生徒に応じた対応を求められる。生徒ひとりひとりを大切にする、いい大学だな、と思う。ふつうなら教育の場において周縁化されてしまうような生徒にも、ちゃんと目を向けている。

しかしそこではたと気づく。結局、実際に対応しているのは、オレではないか。

オンライン授業になって、多くの先生方が苦労した、らしい。「らしい」というのは、自分はこの情勢下がデフォルトになってから授業をもつようになったので、あまり平時の様子がわからないからである。オンライン授業はもやったし、ハイブリット授業もやった。オンデマンド動画も作った。大学それぞれのシステムに合わせた資料の掲示をした。グーグルクラスルームやzoomの操作にも随分慣れた。

もちろん対面での授業もやった。対面授業は楽である。いくらでもその場で対応できる。オンライン授業だとWi-Fi環境が悪い学生のために授業後にオンデマンド動画をアップしてほしいという要請がされる場合もある。zoomなら授業中に録画しておくだけでいいわけだが、録画ボタンを忘れないように押して、動画の名前を変更するなり動画を掲示するなりしてなにかと手間がかかる。5分だろうが3分だろうが、手順が増えることはストレスである。ストレスが増えても時給は変わらない。

非常勤は基本的にコマ給だ。とすると最大効率で働こうとすれば、逆説的なことに、生徒のことを考えなければ考えないほどコストパフォーマンスは上がる。オンデマンド動画はめんどくさいから作らないとか、授業中にしか質問は受け付けずメールの返信をしないとか、授業中動画を見させてのんびりするとか。授業外に時間をかければかけるほど損なのだ。

また、学校関係の仕事で一番手を抜きやすいのも授業準備である。事務書類の処理に遅れたら怒られるが、しょうもない授業をしても生徒から怒られることはほとんどない。

なぜそんなことになるのか。理由はいくつかある。

①必ずしも生徒が喜ぶ授業が学習成果のあがる授業とは限らない。
②準備が適当でも、ある程度しゃべれる先生なら授業の盛り上がりでごまかせる。
③そもそも非常勤講師にとって(あるいは常勤でもそうかもしれない)、「いい授業」をすることは何の利益にもならない。生徒の評判がよかったから待遇をよくするという話は聞いたことがない。

……などなど。通常のビジネスのように、顧客=生徒の満足度に応じて業績が変わるわけではない。それに大学にとって生徒は顧客かも知れないが、個々に教員にとっては必ずしもそうではない。

給料が決まっているとすると、準備をしなければしないほど時給は高くなることになる。がんばっても時給は上がらないのだから。額面で時給3000円でも、準備に3時間かければ時給1000円、それならもっと割のいいバイトはいくらでもある。

いまの大学は生徒に優しい。さまざまな配慮を行おうという気概に満ち溢れている。しかしそれを実行するのは教員である。そして教員にとって、生徒に配慮すればするだけ自分の時給が下がるわけである。

こうなってくると授業など成り立たなくなってもおかしくないようなものだが、それでもなんとかなるのは教員もやりがいを求めているからである。授業するからにはいいものをしたい。だから相応に準備に時間をかけるし、生徒対応もする。

これを「やりがい搾取」と呼んでもよいが、教員にかぎらず誰しもが仕事に手応えを求めるものだ。デヴィットクレーバーが『ブルシットジョブ』で示したように、いくら楽で給料が高くても、意味を感じられない仕事に人は耐えられない。単に教員も同じだというだけなのだ。

本来なら、教育効果が対価と比例するのが望ましいのだろう。しかし特に大学の場合、教育効果を数値にして測ることは難しい。とはいえ先述したように、生徒の主観的な満足度は必ずしも教育の効果を反映してはいない。

おそらく、教育は数値化しづらいものであり、したがってどのように対価を設定すればいいか測りかねる部分があるのだろう。学生時代しょうもないと思って受けていた授業が、10年後に思わぬ形で役に立つことは少ならからずある。こうした数値化のしづらさが、この国における教育支出の少なさにもつながっているのではないだろうか。

教育の厄介なところは、教員が努力する余地がおよそ無限にあるということである。明らかに教育的効果が高いのだが、死ぬほどめんどくさい授業というものが存在する。たとえば作文の能力を上げてやりたければ、毎回生徒に作文を書かせてそれを添削すればよいのだが、教員からすると地獄なので僕はやらない。でもやろうと思えばできる。やっている教員も存在する。こわい。

というわけでこらから高校なり大学なりを選ぶ人は、どういう大学が「いい大学」なのか改めて考えてみるといいだろう。大学側が「これをやります!」と宣言していてもそれを実行しているのは個々の教員なのであり、給料が上がらないからには、追加の仕事に対して手を抜く権利が教員にはあるのである。




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