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ヨルシカの「藍二乗」/I二乗/i二乗/I need you――「僕」と「君」

その愛は二乗分だ。

ヨルシカの「藍二乗」は、「アイ」というそれ自体複数的に響きやすいことば=乗算されることばを楽曲の通奏低音として用いている。

変わらない風景 浅い正午
高架下、藍二乗、寝転ぶまま
白紙の人生に拍手の音がひとつ鳴ってる
空っぽな自分を 今日も歌っていた

変わらないように
君が主役のプロットを書くノートの中
止まったガス水道 世間もニュースも所詮他人事
この人生さえほら、インクみたいだ

曲の歌い出しで、風景の空虚さと自分の空虚さが重ねられる。高架下という非-場所的な空間で、「僕」が歌うのは「空っぽな自分」である。曲全体がラブソングに見える「藍二乗」だが、「僕」から「君」へという単純な構成を取っていないことに注意しておこう。これはひとつの私小説なのだ。

「私小説」というのは決して比喩ではない。「この人生さえほら、インクみたいだ」とあるように、この歌を歌う「僕」はインクの染み=文字なのである。後半には、もっと決定的な歌詞がある。

この詩はあと八十字
人生の価値は、終わり方だろうから

実際この歌はあと80字で終わるのだが、もちろんそんなことは些末な問題である。この部分が執筆者の存在を暗示していることに注意しよう。当然ながら作中主体としての「僕」が歌の終わりを予見することは不可能だ。この詩全体を見渡せる「書く僕」がいなければ、この歌詞は成り立たない。というか、MVでは初っ端から万年筆が写っている。

そもそも書くという行為自体が「私」を二重化するというのは、「書くこと」の理論では言われつくされてきたことである。文字の物質性は、否応なく「書かれた私」と書く「私」を二重化する。だから「藍二乗」は「I二乗」だ。

そう考えると、出だしの「白紙の人生に拍手の音がひとつ鳴ってる」という歌詞はなんとも示唆的である。拍手を鳴らすには二つの手が必要である。でも鳴る音は一つだ。二つが重なって一つになる。

「二乗」をもっとベタに取ることもできる。虚数iを二乗すれば-1になる。ここでもやはり、二つのものがひとつに重なってひとつになっている。でも、マイナス?なにがマイナスなのだろう。

解決の鍵は、この曲の私小説性が握っている。しかし疑問もあるかもしれない。歌詞の後半には「エルマ」という「君」と思しき人物、「僕」が思慕しているであろう女性(?)が登場するからだ。「エルマ」はヨルシカの楽曲において繰り返し登場するキーパーソンで、「藍二乗」が収録されているアルバム『だから僕は音楽を辞めた』にはそのものずばり「エルマ」というタイトルの曲もある。

だからこの曲はやっぱりラブソングなのだ――よろしい。私もラブソングだと思っている。ただしそれは失った自分への、自らの音楽に対するラブソングだ。だから、「アイ二乗」は-1である。

人生は妥協の連続なんだ
そんなこと疾うにわかってたんだ
エルマ、君なんだよ
君だけが僕の音楽なんだ

「エルマ」とは単なる想い人ではなく、追い求めている芸術の象徴である。それは「夢」なのだ。「あの頃ずっと頭に描いた夢も大人になるほど時効になっていく」。でも「人生は妥協の連続」なので、もう君=エルマは「遠く仰いだ空」にしかいない。

改めて言おう。この歌が私小説だというのは全く比喩ではない。芸術家を目指していた才能あふれる(と自分では思っていた)主人公が、夢破れたのちに自分の青春時代を回顧する。こうしたタイプの私小説は腐るほどある。

空に浮かぶ幸福だった頃の自分。典型的なロマン派の発想だが、一つ違いがあるとすれば、それが「君」と名指されていることだろう。「君」と「僕」は現代Jポップを考える上で外せないテーマだ。この曲もやはりその構図を踏襲している。

ここにある、「君」と「僕」のずれを大切にしよう。この自己愛的な「君」と「僕」の構図からは、ある興味深いひとつの示唆が導ける。つまりこの曲だけでなく、多くのヨルシカの曲(もっと言えば、広く現代のJポップ)における「君」と「僕」も、同じような関係を築いているのではないか、と。「君」とは失われた、あるいは手に入らない「僕」のことなのではないか?

たとえばタイトルからして「藍二乗」と同じく芸術への諦めを描いた(※)曲、「だから僕は音楽を辞めた」は次のように始まる。

※厳密には、「藍二乗」の「僕」は音楽に未練を持っている。彼はまだ「寝そべったままで時効を待っている」のであり、少なくとも彼にとって夢の終わりは訪れていない(寝そべるという姿勢もそのことを示している)。しかしアルバムの最後に収められた「だから僕は音楽を辞めた」で、タイトル通り「音楽を辞めた」ことが宣言される。もちろん「だから僕は音楽を辞めた」の方も、いちいち辞めたことを宣言するあたりに未練を感じさせるのだが、一応アルバムとしてひとつのストーリーを形成しているのである(アルバム最初の曲は「8/31」。夏の終わりだ)。ただ私としてはストーリーライン云々よりも、ヨルシカのような人気絶頂と言ってもいいアーティストがこうした曲を発表してみせることの方に興味があるが。

考えたってわからないし
青空の下、君を待った
風が吹いた正午、昼下がりを抜け出す想像
ねえ、これからどうなるんだろうね
進め方教わらないんだよ
君の目を見た 何も言えず僕は歩いた

このようにして曲は一見「君」と「僕」の対話を描くが、これが自問自答的なものであることは最終部で明確になる。「間違ってないよな/間違ってるんだよわかってるんだ」。「僕」は「君」に語りかけているようで、結局自分と話している。

そもそも「僕」と「君」という構図自体が自分との対話という性質を有しているだろう。「僕」から見たら自分は「僕」で相手が「君」だが、相手から見れば相手が「僕」で「僕」は「君」だ。「僕」と「君」は容易に反転し、交代し、重なり合う。「藍二乗」のMVで「僕」の顔も「君」の顔も隠されていることも、こうした交換可能性を支持するだろう。

では、タイトルの「藍」とはなんのことだろう。これはもちろん「愛」にも「I」にも読めるし、「藍二乗」は「I need you」にも「会いに行こう」にも読める。だが、ここでは「藍」であることにこだわろう。

ヨルシカというアーティストのテーマカラーは、「藍」というよりは「青」である。「ただ君に晴れ」や「だから僕は音楽を辞めた」などの曲にはよく青空が出てくるし、MVにも青色は散見する。もちろん、青が「青春」という言葉につながっていくことも見やすい。

藍は青から少しずれた言葉として存在する。藍は青であって青ではない。ここでも二乗の論理が働いている。青春のあとのIとして、「藍」が選ばれているのである。もう青ではない。

「青」ならぬ「藍」としての「私」、かつて「青」であった「私」に「哀悼」を捧げる歌。それが「アイ二乗」だ。

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