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博論の読書会をした

僕は日本近代詩を専門とする院生です(でした)。今年度の12月に「一九三〇年代の定型詩に関する研究――三好達治・中原中也・佐藤一英を中心に――」という題の博士論文を大学に提出しました。

2月、無事(?)に公開審査も終わったのですが、時間をかけて書いた博論です。まだまだ話し足んねえや、と思い、自分で自分の博論をテキストにした読書会をひらくことに。大学の教室も無事借りることができ、開催1月ほどまえから告知を始めました。

宣伝の甲斐あってか、当日は15名ほどの方にあつまっていただきました。内容としても、4時間という長丁場にもかかわらず最後まで話題が途切れることなく、むしろ話足りないくらいの熱気ある議論となりました。参加してくださった方には、感謝しかありません。

読書会のあとには、懇親会として居酒屋に行き、自分としては珍しく終電まで楽しく飲んで帰りました。こうしたことができるのも、対面での読書会の強みだと思っています。

読書会ポスター

せっかくいろいろと面白い話が出たので、このnoteで当日の議論をまとめるとともに、今後博論(あるいは修論・卒論でも)を出す方に、読書会をやってみては?という提案をしたいと思います。

議論の内容に関しては全部を記していると煩雑になりますので、特に印象に残ったトピックをふたつほど取り上げております。


◯読解の工学主義

まず話題にあがったのが、内容面ではなく方法面の話でした。

この博論では「定型」というものを扱っているわけですが、そもそもなぜ僕がこれをやろうと思ったかというと、型式は内容と比べて客観的な議論がしやすいからというのが大きな理由でした。たとえば詩の音数が何音なのかは、音数を実際に数えればわかります。押韻や行数についてもそうです。こうした型式面の話は、たとえば「詩の中の桜はなんの象徴だろうか」といったことを考えるよりも万人に共有可能な、数値化可能な規則です。

同時に定型自体も万人に共有可能なシステムとしてあります。たとえば57577に言葉をあてはめれば、質はともかく短歌ができるわけです。つまり僕の研究は、研究対象と研究方法の双方で、システム的に・機械的に処理することがしやすいようなものを扱っていることになります。

こうした態度を「工学主義的だね」と言われて「なるほどな」と思ったわけですが、読書会当日何度か議論になったのは、そうした「型」を扱ったときに作家の固有性(共有不可能な部分)をどう考えるのか、ということでした。

たとえばこの博論では中原中也の「型」について扱っていますが、他の詩人が使う七五調と中原が使う七五調は同じ七五調だとしても、全く違った詩が出来上がっているわけです。使う型式は同じでも詩の雰囲気や質には差が生じ、実際に歴史に名を残した詩人は全体のほんのひとにぎり。

僕が定型を扱う大きな理由のひとつはその共有可能性ですが、特定の固有名を扱う以上共有不可能な部分にも目を凝らす必要がある。改めて「型」の普遍性と、しかし存在する質の差というものに注意していきたいと思います。

◯詩の音楽性

詩を扱う上で、音楽性の問題は避けられません。詩の発生のことを考えたとき、祭りや儀式の中で原始的な詩――おそらくは祈祷や巫言の類が文字として読まれていたとは想定しがたい(というか、文字の発生以前に「詩」はあったでしょう)。詩はそもそも「音」であったはずです。

というわけで詩の研究者は「音」の問題を扱うことが多いのですが、私たちが、あるいは少なくとも私が、扱っているのは印刷された詩です。そこに「音」はありません。しかし実際に詩には特定の音律や音韻があります。つまり「音」があります。

このあるようなないような「音」。これが詩の研究をするうえでは非常にやっかいです。「音」に対してどのように向き合うかで、研究の対象や手法も大きく異なってくるでしょう。

僕はどちらかというと「音」に冷淡です。僕が読んでいるのはやはり印刷されたテクストだから、いかにそれを「聴く」のか、ではなくいかにそれを「読む」のかを重視します。

当日はこの「音」に対するスタンスの違いがいろいろとあって、それぞれの意見を面白く拝聴しました。

◯博論読書会のすすめ

博論を書いたあとにあるのが教授たちによる口頭試問あるいは公開審査会。要するにディフェンスの時間です。それをなんとかしのいだとき、ようやく博士論文を書き終えたことになるわけです。

というわけで博論の読書会をわざわざする人はまわりにあんまりいませんでしたし、自分で書いたものをテキストに読書会をするのはちょっと気恥ずかしかったりもするわけですが、しかしやる価値はあるかと思います。

博士論文は何年間もやってきたことのひとつの区切りであるはずで、執筆者なりの工夫や苦労がいろいろあったことでしょう。それを聞けることは、特にこれから博論を書いていこうという後輩にとってひとつの指標になります。

また書いた方も、自分のやってきたことを振り返り、ざっくばらんに、時間を(ある程度)気にせず話すことのできる機会は貴重です。

というわけで博論の読書会、どんどんやってみるのはいかがでしょうか。けしかけた者の責任があるので、もしやるなら僕も行きます。

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