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文学が老いを描くこと

先日、川端康成の『舞姫』を読んだ。

本作は簡単に言うと三角関係の物語である。元バレエダンサーである波子は、八木という夫がありながら過去の恋人との愛が再熱し、家の外でしばしば逢瀬を重ねている。波子の家には娘と息子がいるが、家族の心はどこかバラバラであり、物語の終盤ではほとんど崩壊寸前まで追い込まれる……。

ストーリーはよくある心理小説といったところで、特に真新しいものではない。タイトルの「舞姫」は当然鴎外の「舞姫」を思い出させるが、そもそもダンサーという存在自体が性的な視線にさらされがちな職業で、鴎外「舞姫」に限らずしばしば文学作品の題材になっている(荷風の踊子とか、三島の「道成寺」とか)。古めの文学作品でダンサーと出てきたら、場合によっては水商売に近いようなこともした存在だと考えてもよい。『舞姫』の波子はアーティストとしてのバレエダンサーだが、やはり踊りの中では肉体を強調することになるからだ。鴎外「舞姫」のエリスなどは、より露骨に、そうした目で客から見られていたはずである。有名なゴヤの踊り子の絵にも、後ろにパトロンらしき男が描かれている。

川端の『舞姫』のすばらしいところは、八木という波子の夫のいやらしさをこれでもかと描いているところである。八木は大学の教員であり、波子の遺産を食いつぶして生きておきながら、自分用にへそくりをつくっている。その上、最終部では波子の持ち物であった自宅の名義も彼の名前に書換えられていることが判明する。

つまるところこの男は人格にかなり問題があるし、経済的なハラスメントを行ってもいる。しかし、本人は研究者らしく世の中のあり方を憂いてみたりしてみせる。仏像と古典文学にひたり、いっぱしの文明論を口にする。

『舞姫』のなかでは、この八木というキャラクターが一番よくできていると思う。妻に生活資金を頼りながら、自分は小金を貯めている男。それはそれとして自分の知識と思考力を恃み、まわりの考えの浅いことを嘆いて見せる男。これこそまさに、学者というもののいやらしさだろう。読んでいて他人事とは思えなかった。

しかし、今回書きたいのは八木の話ではない。波子の方である。作中で、彼女は四〇を超えており、娘もけっこういい年という設定なのだが、まるで少女のようなしゃべりかたをする。それがどうにも気にかかる。

「波子さん。そんなもの、いつまで見てるんです」
と、きつく呼んだ。
「およしなさい。あなたはそんなもの、目につくのが、いかん」
「どうしてですの」
波子は振り向いて、柳の下から、歩道にもどった。
「そんな小さい鯉が一匹いたって、だれも見やしませんよ。それがあなたは、目につくんだから……」
「だってだれも見つけなくても、だれも知らなくても、このこいは、ここにこうしているんですもの」

新潮文庫版『舞姫』、29ページ

波子と愛人の竹原との会話である。このような波子の発話は、ほとんど娘の品子と区別がつかない。波子は成熟した女性であるのにもかかわらず、まるで少女のように描かれている。

しかしそう考えると、川端の作品に出てくるのは少女ばかりではないか、ということに思い当たる。『伊豆の踊子』『雪国』『山の音』。どこを見渡しても、ある一定の型の少女ばかりだ。『眠れる美女』で老爺の性欲を描いた川端だが(この作品はよくできている)、成熟した婦人や、老婆をうまく描けている作品は思いつかない。

例外としては『千羽鶴』の栗本あたりか。あの怪物的な女性は、少女と呼ぶにはふさわしくない。というより『千羽鶴』は、栗本がいなければほとんど作品として成立していない。それは、『舞姫』に八木がいなければこの小説の魅力が大方損なわれてしまうことと同じである。

とはいえ、少女ばかりが出てくるのはなにも川端の小説ばかりではない。多くの日本近代文学、とくに戦前までの小説には、主人公を救済するかのように、さまざまな少女(聖処女?)が登場する。

そもそも近代文学の黎明期、田山花袋が描いたのは「少女病」だった。通勤途中の美少女を目で追いすぎて、電車から落ちてしまう男の話。日本の近代文学は、少女とともにはじまった。

太宰治にも、そのものずばり「美少女」という小説が存在する。主人公は、ある温泉で少女を見かける。そして、そこに「崇高」さを見出す。

あいだに、孫娘でもあろうか、じいさんばあさんに守護されているみたいに、ひっそりしゃがんでいる。そいつが、素晴らしいのである。きたない貝殻に附着し、そのどすぐろい貝殻に守られている一粒の真珠である。私は、ものを横眼で見ることのできぬたちなので、そのひとを、まっすぐに眺めた。十六、七であろうか。十八、になっているかも知れない。全身が少し青く、けれども決して弱ってはいない。大柄の、ぴっちり張ったからだは、青い桃実を思わせた。お嫁に行けるような、ひとりまえのからだになった時、女は一ばん美しいと志賀直哉の随筆に在ったが、それを読んだとき、志賀氏もずいぶん思い切ったことを言うと冷やりとした。けれども、いま眼のまえに少女の美しい裸体を、まじまじと見て、志賀氏のそんな言葉は、ちっともいやらしいものでは無く、純粋な観賞の対象としても、これは崇高なほど立派なものだと思った。少女は、きつい顔をしていた。一重瞼の三白眼で、眼尻がきりっと上っている。鼻は尋常で、唇は少し厚く、笑うと上唇がきゅっとまくれあがる。野性のものの感じである。髪は、うしろにたばねて、毛は少いほうの様である。ふたりの老人にさしはさまれて、無心らしく、しゃがんでいる。私が永いことそのからだを直視していても、平気である。老夫婦が、たからものにでも触るようにして、背中を撫でたり、肩をとんとん叩いてやったりする。この少女は、どうやら病後のものらしい。けれども、決して痩せてはいない。清潔に皮膚が張り切っていて、女王のようである。老夫婦にからだをまかせて、ときどきひとりで薄く笑っている。白痴的なものをさえ私は感じた。すらと立ちあがったとき、私は思わず眼を見張った。息が、つまるような気がした。素晴らしく大きい少女である。五尺二寸もあるのではないかと思われた。見事なのである。コーヒー茶碗一ぱいになるくらいのゆたかな乳房、なめらかなおなか、ぴちっと固くしまった四肢、ちっとも恥じずに両手をぶらぶらさせて私の眼の前を通る。可愛いすきとおるほど白い小さい手であった。

長いけれども、「私」の視線の執拗さを示すために、少女を見るシーン全体を引用した。見ての通りの気持ち悪さである。「ちっともいやらしいものでは無く」なんて言っているのが、ちょっと笑える。

「女生徒」などをはじめとして、太宰の作品も少女が多数登場する。「眉山」「人間失格」「雪の夜の話」等々。もっとも太宰には女性に「母」を求めているところがあるので川端ほど幼い子好きという印象はないのだが、「母」に甘えたいという心象にはやはり未成熟性がつきまとう。

日本の近代文学は、「年下の母」を求めてきた。そうした感性は現代文学にも通底している。村上春樹の『1Q84』を考えてみて欲しい。ふかえりというライトノベル的な少女に与えられた役割は、巫女であり母であった。

では、逆に老いを描くのが得意な作家は誰だろう。井伏鱒二や深沢七郎の作品にはよく老人が登場するが、それらはどうも「田舎」の象徴のような感じで、「老い」を描いているような感じではない。現代文学にはたくさんの老人が登場するけれども、それは寿命が伸びて自分が老人になったり、まわりに老人が増えたりした結果というに過ぎない。近代文学に老婆はいるのか?

個人的に思い出すのは、『豊饒の海』の三島由紀夫である。『暁の寺』の慶子。あの見事な、いい意味での「クソババア」っぷり!あるいは『天人五衰』の最後に登場する尼になった聡子。「それも心々ですさかい」。若者にはできない、見事な韜晦だ。または、聡子につかえていたメイドである蓼科。『暁の寺』で本田から恵まれた卵を食べるシーンは、かなりよい。『奔馬』のヒロイン鬼頭槇子は『暁の寺』にも登場するが、やはりなかなか侮りがたい婦人となっているようである。ちょっと大胆なことを言えば、『豊饒の海』は「オバサン」と「ババア」の物語である。

日本文学ではないが、ウンベルト・エーコ『文体練習』にはナボコフ『ロリータ』のパロディ「ノニータ」が収録されている。老婆にしか性欲を感じられなくなった男の話。どうだろう、日本で「ノニータ」を描く作家はいないだろうか。


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