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総括、読書会「『日本文学100年の名作』を読む」:日本文学の100年とはなんだったのか

2021年度の1年間、「日本文学100年の名作」という短編アンソロジーを月に1巻ずつ読む読書会をしてきた。その読書会について振り返りつつ、アンソロジーから見える「日本文学の100年」について改めて考えてみたい。

※この読書会の形式などについては、下記の記事に詳しく記してある。

○アンソロジー「日本文学100年の名作」

まずはこのアンソロジーのことを簡単に紹介しておこう。

本アンソロジーは新潮社から出ている全10巻の短編アンソロジーで、1914年から2013年まで、100年分の小説を集めている。各巻には時期にして10年分、十数編の短編小説が収録されており、全巻を通して同じ作者の作品が登場しないように配置されている。ちなみに短編の数は、全巻合わせて145編であるから、10年×10巻=100年分で作家が145人登場していることになる。

岩波の「日本近代短編小説選」シリーズや、講談社の「戦後短編小説再発見」シリーズなど短編アンソロジーはこれまでにも数多く出版されているが、このシリーズの特徴は、1970~2010年代あたりの、いわゆる「現代文学」まで含んでいることだろう。

たとえば「日本近代短編小説選」は明治から昭和までの短編を集めているが、このアンソロジーのラストは三島の最後の短編で終わっている。三島の死(1970)に昭和の終わりをだぶらせるような歴史観は頻繁に見られるが、そのために70年代以降の文学が語られにくくなっている。

「戦後短編小説再発見」は戦後~1990年代までを貫くユニークな短編集だが、アンソロジーが発刊され始めたのが2001年なのでやはり平成の小説があまり入っていない。

またアンソロジーだけでなく、多くの日本文学史が内向の世代あたり(1960年代あたり)までの記述に終止しており、70年代以降の文学、あるいは平成文学をうまく歴史化できていないという問題がある。要するに、70年代以降が空白なのだ(もっと細かく言えば、2000年代以降についてはサブカルチャー史などを絡めて記述したものがいくつかあるから、70~90年代前半あたりがとくに文学史の手薄な部分である)。

たとえば斎藤美奈子の『日本の同時代小説』では同様の問題意識から、1960年代~2010年代までの文学について記述している。つまり文学史の空白を埋める作業をしている貴重な現代文学史であるが、このような書籍は少ない。斎藤も指摘するように、60年代の「内向の世代」以降、「白樺派」や「第一次戦後派」のような文学者のグルーピングが難しくなったのが大きな要因なのだろう。

歴史を語るなら「このグループに対してこのグループが出てきました」という「面」で語るのがわかりやすい方法だが、そういったグルーピングができないと「こういう人もいます、あとこういう人もいます」のように「点」の記述をしていくしかないからである。それだと文学史を語るというより、登場人物を列挙してくような記述になってしまう。

その点「日本文学100年の名作」では6巻以降、つまりアンソロジーの半分が1960~2010年代の小説に当てられている。もちろん文学史に対する意識的な挑戦というよりは、10年ごとに各巻を区切ったらこうなったということだろうが、結果的には独自の現代文学史にもなっているように思う。そうした意味で、代わりのきかないアンソロジーではないだろうか。

※なお、アンソロジー完結記念の座談会が下記のサイトで公開されている。

○文学の変遷

アンソロジー通読して感じるのは、実に凡庸だが、時代に合わせて文学も変化しているのだな、ということだ。

たとえば、現代に近づくにつれて〈老い〉をテーマとした小説が増えてくる。深沢七郎「極楽まくらおとし図」高井有一「半日の放浪」村田喜代子「望潮」津村節子「初天神」伊集院静「朝顔」など、アンソロジー後半には無視できない数の〈老い〉をめぐる小説が収録されている。

もちろん、中山義秀「厚物咲」永井龍男「朝霧」など、過去の文学作品にも〈老い〉を描いたものは存在する。しかし、数の上では現代文学に圧倒的に多い。やはり60年代あたりまでの日本文学は、青年~中年男性の「私」を主人公とする小説が主流だ。本アンソロジーで言えば、太宰治の「トカトントン」坂口安吾の「白痴」などはそのタイプで、森鴎外夏目漱石芥川龍之介などいわゆる「文豪」の小説の多くがこのパターンに当てはまる。

逆に〈狂気〉を描いた作品は、アンソロジー前半の方が多い。佐藤春夫「指紋」萩原朔太郎「猫町」坂口安吾「白痴」井伏鱒二「遥拝隊長」大江健三郎「空の怪物アグイ―」などだ。一方で、アンソロジー7巻以降で〈狂気〉を描いた作品は見受けられない。

アンソロジー収録作に限らず、菊池寛「屋上の狂人」芥川龍之介「点歯車」内田百閒「山高帽子」など、戦前日本文学には〈狂気〉を描いた作品が多数見られ、近年では〈狂気〉や〈精神分析〉を扱った研究も増えてきている。近代文学が生まれてから数十年間、〈狂気〉は人間精神のあり方を問う便利なモチーフとして利用されてきた。

もちろん、これは一種の差別である。したがって、現代文学において〈狂気〉を描く小説が減っていくことはとくに不思議ではない。ただ、どこがその転換点なのかは、興味深い問題である。

仮説としては、大江健三郎の中期あたりからが怪しい。大江は知的障害をもった息子を粘り強く描き続けたが、そのような小説が登場すると安易に障害や精神病を〈狂気〉とひとくくりにして描くことは難しくなるだろう。描くにしても、島尾敏雄「死の棘」などのように、ある程度丁寧にそれを表象していくことになる。

一方で、ミステリの分野ではいわゆる「サイコパス」殺人犯が倦むことなく描かれて続けている。映画化もした貴志祐介「悪の教典」などは典型だろう。この安易さはなぜ許容されているのだろうか。これもまた、検討に値する問題かもしれないし、そうしたところから藤本タツキ「ルックバック」の統合失調症表象を考えることができるかもしれない。

○〈階級〉から〈アイデンティティ〉へ

また時代と文学といえば、〈階級〉を描いた作品も戦前の方が多い。アンソロジー収録作だと、宮地嘉六「ある職工の手記」長谷川如是閑「象屋の粂さん」林芙美子「風琴と魚の町」、などは〈階級性〉を描いた小説と見てよいだろう。ところがアンソロジー後半にいくにつれ、貧困は生活できる程度のレベルになり、作品の主題としてはほとんど浮上しなくなる。

さらに言えば、本アンソロジーはプロレタリア文学に冷たく、小林多喜二葉山嘉樹中野重治も収録されていない(この手のアンソロジーでは珍しく黒島伝治が収録されているが、シベリア出兵を題材としたものでプロレタリア小説ではない)。アンソロジー収録作に限らずプロレタリア文学全盛期の1920年代後半~1930年代前半の作品を数に入れるならば、近代文学と現代文学における〈階級〉をテーマとした小説の量の差はより歴然とするだろう。

もちろん、戦前と現代では労働者をめぐる環境は大きく異なる。いくらブラック企業とはいえ、葉山嘉樹「セメント樽の中の手紙」のようなことはなかなか起こらない。

しかしそうした違いを考えても、やはり現代文学において働くことが社会的な問題というより、個人の生き方を強く結びついていることはたしかだ。たとえば村田沙耶香「コンビニ人間」も、時代が時代ならコンビニ労働がいかに非人間的なものかという告発文学であり得たが、実際に描かれているのは「ふつう」とはなにかという生き方の規範をめぐる問題であった(村田の多くの作品が、主にジェンダーやセクシャリティを中心として同じ問題系をめぐっている)。

要するに現代小説では、〈階級〉よりも〈アイデンティティー〉が問題となっているのである。アンソロジー収録作で言えば重松清「セッちゃん」や、江國香織「清水夫婦」三浦しをん「冬の一等星」角田光代「くまちゃん」辻村深月「仁志野町の泥棒」などがその一例で、それらの小説では社会全体につながる問題よりも、個人の生き方や感性を描くことに力点が置かれている。

特に「仁志野町の泥棒」は典型例だ。窃盗を繰り返してしまう母親の話が本作の中心だが、その盗みは貧困からではなく個人の「どうしようもなさ」から生じているのだと説明される。「つい盗んでしまう」という個性・性情の問題として盗みが描かれるのだ。これは極端な対比かもしれないが、石川淳「焼け跡のイエス」における闇市での強盗と比べると、同じ盗みでもずいぶん違う。

それと関連する話だが、100年分小説を読んでいくと、〈金銭・物質〉に対する感覚がどんどんと移り変わっていく様子もよくわかる。たとえば敗戦直後に書かれた永井荷風「羊羹」では羊羹を買うことが「成り上がり」のステータスのように描かれているが、それが三島由紀夫だと「百万円煎餅」になり、黒井千次「石の話」では数十万の指輪の話になり、吉田修一「風来温泉」ではプラズマテレビになっていく。

そうして見ていけば、もう100年前の小説だが偽造貨幣を描く江戸川乱歩「二銭銅貨」や、私的通貨を描いた谷崎潤一郎の「小さな王国」がもっている〈経済〉への批評性は貴重である。現代に近づくにつれ、資本主義経済の存在は小説の前提とされ描くべき対象とはなっていない。それは結局、〈階級〉の問題が後退していくのにもつながっているのだろう。

○「半径1メートル」感

労働者の厳しい生活を描いたプロレタリア文学に限らず、文学作品は長らく社会批評的な役割を担ってきた。なぜ近代批評の王道が文芸批評であったのかといえば、それは文学を批評することが社会を批評することに直結していたからである。

先述した「内向の世代」というグループとて、「内向」していることがわざわざ指摘されるのは、文学が社会に開かれたものだという意識があったからだ。そして内向の世代と呼ばれる作家たちは、必ずしも「内向」していたわけではない。社会に対する鋭い批評性を感じさせる作品も数多く執筆している。

ところがアンソロジーを読んでいくと、時代をくだるにつれ社会に対する関心が個人に対する関心へとシフトしていることを強く感じざるを得ない。前説した〈階級〉から〈アイデンティティ〉へ、という流れはそうした潮流のなかにある。

アンソロジーで言うと、8巻(1984~1993)あたりからその傾向が顕著である。8巻収録の山田詠美「ひよこの眼」などがわかりやすい。山田はもともと黒人兵との恋愛を描いた「ベッドタイムアイズ」(これも「眼」だ)などの作品で脚光を浴びた作家で、そこには作者本人の意識するとしないとに関わらず、日本の占領や黒人差別といった社会的な問題への批評性があったように思う。ところが「ひよこの眼」は「どんな男の子が好きか」という話に終止してしまっており、そこから伸びる射程はせいぜい〈社会〉の手前、〈家庭〉といったところに過ぎない。

また9巻は作品のチョイスに偏りがあり、林真理子「年賀状」新津きよみ「ホーム・パーティー」が共に不倫がバレる話である。それぞれオチに面白い趣向があるのだが、逆に言えばオチの部分に重点を置くあまりそれ以外のパートは不倫の状況説明に終始しており、そこに描かれるのは一個人の家庭問題である。

同じようなことはミステリ小説にも言える。アンソロジー10巻には伊坂幸太郎「ルックスライク」道尾秀介「春の蝶」など、ミステリと言っていいものがいくつか収録されている。

基本的にミステリ小説のキモはトリックとその種明かしで、松本清張のような社会派ミステリでもない限り犯人当てのおもしろさ以上のものはミステリに描かれにくい。特に伊坂はプロット構成と登場人物間のやりとりに卓越した才能が見える作家だが、逆に言えば社会性が見えるような作品は「魔王」「モダンタイムス」を除けばあまり見当たらない。長編「ゴールデンスランバー」では大統領暗殺ですら、エンタメを駆動するエンジンとして機能するのみである。

こうした傾向を、読書会中で私は「半径1メートル」感と評した。大切なのは自分のことか自分の周りのことで、それより大きな集団や社会、国家、世界に対して文学的想像力が広がっていかない。自分の半径1メートルの生活感、それが現代文学において前景化しているものなのではないか、と。

この大雑把な見取り図には、とりあえずふたつ留保をつけておく必要があるだろう。ひとつめ、現代文学に政治性や公共性が欠けているという指摘は20年ほどまえに柄谷行人『近代文学の終わり』ですでになされており、その後も繰り返されてきた陳腐なものであるということ。ある意味、私の感想はすでに知識としてあったことを実際に体感したというに過ぎない。

ふたつめ、あたりまえだが現代文学にも社会性や政治性を含んだ小説は存在するということ。特に震災後のいとうせいこう「想像ラジオ」川上弘美「神様 2011」高橋源一郎「恋する原発」などは、その良質な例だろう。

さらに言えば、「個人的なことは政治的なこと」なのだから、半径1メートルを記すことによって地球全体を描き出すことも可能なのである。日常の細かい言動ひとつひとつが、どうしようもなく社会性を帯びているのであり、そうした意味ではあらゆる小説が社会批評たりうる。

もっとも個人的なことが政治的なことだとして、結局グラデーションの問題は残る。極端な例を出せば、吉本ばななの小説が大江健三郎の小説と同程度の批評性をもつとは考えにくい。少なくとも、同質ではない。

現代文学の「半径1メートル」感。しかしそもそも、日本の近代文学はいわゆる私小説において「私」のまわりばかり描いてきたのだった。では私小説と現代の「半径1メートル」文学とのあいだには、いかなる差異があるのだろうか。

こうした疑問に加えて、本章であつかった「政治と文学」的な問題が福嶋亮大『らせん状想像力』で取り上げられており、本書を再検討した上でこの記事にぶつけると大変おもしろいと思うのだが、この記事でそこまでやるのはちょっとしんどい。また別の機会にまわそう。

とりあえず、次の話題に移ることにしたい。キーワードは〈他者〉である。

○理解可能な他者とミステリ小説

アンソロジー10巻には、角田光代の「くまちゃん」という小説が収められている。生活にだらしがないがなんとなく一緒にいると心地よい男性を主人公「苑子」が家に置く物語で、有川浩「植物図鑑」などと同じ女性主人公版「落ち物」小説である(男性が女性を「拾う」作品は大量にある。一番イメージしやすいのは、空から降ってくるヒロインを主人公が受け止める「天空の城ラピュタ」であろう)。

この男性はいつもくまがプリントされた服を来ていて子供っぽく、行動にも謎が多い。それでも苑子は彼が気に入り、愛情を注いでいた。しかし男性=「くまちゃん」はしばらくするとあっさり苑子の元を去ってしまう。結局彼はなんだったのだろう。それがわからないままもはや「くまちゃん」のことなど忘れかけていたころに、苑子は「くまちゃん」を理解する鍵を得る。

くまちゃん。苑子は心のなかで、短い日々をともに過ごした男の子に向かって呼びかける。くまちゃん、今なら私、あなたのこと少しわかるよ。ふつうで平和な毎日が、けっして私をだめになんかしないと、そういう日々の先に渡しにしか手に入れられないものがあるらしいと知った今ならば、わかるよ、あなたのことが。くまちゃん。

ここでは、「わかるよ」という言葉が繰り返される。苑子にとってよくわからない他者として現れ・去っていった「くまちゃん」は、最終的に彼女の理解に囲い込まれてしまう。そして小説は、そうした苑子の一人合点を相対化する仕掛けを、少なくとも明示的には書き込んでいない。この小説を雑に要約すれば、他者だった「くまちゃん」が他者ではなくなる話、だ。

このような構造をもつ角田光代「くまちゃん」を、本物のくまが登場する川上弘美「神様」と比べてみよう。

くまは何回でも、腹の底から吠えた。こわい、とわたしは思った。かみなりも、くまも、こわかった。くまはわたしのいることをすっかり忘れたように、神々しいような様子で、獣の声をあげつづけた。

本作に登場するくまと主人公の「わたし」は、角田の「くまちゃん」よりもむしろ良好な関係にあるように見える。しかし本作においてくまは最後まで理解しきれない存在として描かれており、「わたし」に恐怖を感じさせる。また、最後にくまから送られてくる手紙には名前や住所が記されておらず、「わたし」から返信を出すことはできない。

「神様」と比較すると、「くまちゃん」には主人公に相対する登場人物の他者性が欠けていることは明らかであろう。そこに描かれているのは理解可能な他者であり、つまりそれは他者ではない。

「神様」は1994年の作品だから、これ自体現代文学にあたる。だからもちろん、「現代文学には他者性が欠けているのだ」といった主張をするつもりはない(「くまちゃん」は2007年)。ただ、大雑把な傾向として、アンソロジー後半の作品=現代の作品には「他者を理解したい/しなければならない」という欲望があるように感じる。

例を挙げよう。山田詠美「ひよこの眼」は、不思議な転校生の境遇を主人公が自分なりに理解する話。重松清「セッちゃん」は、いじめられている子供の心情を親が理解し、いたわってやる過程を描いた話。桐野夏生「アンボス・ムンドス」は、教員が女子小学生たちの「悪意」を体感する話である。

あるいは、読者にとって作品や主人公が非常にわかりやすく提示されるような作品もある。吉田修一「風来温泉」はその典型例で、バリバリの営業マンであり仕事にのめり込む主人公の価値観の狭さが、作中で明示される。作品によって主人公はすでに相対化されており、読者はその結果をなぞるだけである。ここで読者は、読書を通じて自分と異なる存在に出会うというよりも、読み方の明示されたものを共感したりしなかったりしながら受け取るにすぎない。

こうした「わかりたい」「わからせたい」という読者と作者の共謀的な欲望が、近年のミステリ小説最盛期を作っているのではないだろうか。作品を最後まで読み通したら、トリックが何で、犯人が誰で、どのような動機があったのかすべて明らかになるというミステリの形式は、〈謎=他者〉の神秘性を剥ぎ取っていくプロセスを構造化したものだと言える。

謎が謎のまま終わるミステリほど苛立たしいものはない(東野圭吾「どちらかが彼女を殺した」など、そうした作品もあるが)。だから、作品の「奥」に込められた批評性や寓意は邪魔である。謎を解くとは、全てが表面化することであり、ミステリにおいてそのことは作中でなされなければならないのだ。

したがって〈ミステリ的欲望〉をもつ現代文学において、作中に政治性や社会性が挿入されるなら、それは明示的に行われる必要がある。たとえば村田沙耶香におけるその筆力の高さと、主題のあまりに直接的な露呈という奇妙な不均衡は、そういったところに原因があるのではないだろうか。

今後平成文学史が書かれるとしたら、ミステリの存在が作品を「読む」という行為にどのような影響を与えたか、検討されるべきだろう。現代文学を読むとき私たちは謎を積極的に解き明かすホームズではなく、ホームズの謎解きを期待して待機しているワトソンなのである。

○描かれ続けてきた幻想と子供

さて、ここまで現代文学における文学の変質のような話をしてきたが、最後にアンソロジーを通して見られるふたつの主題についても触れておきたい。

まずひとつは、幻想文学。作品で言えば、内田百閒「件」萩原朔太郎「猫町」川端康成「片腕」中島らも「白いメリーさん」恩田陸「かたつむり注意報」などだ。大正から昭和まで、どの巻にも幻想文学的なものが収録されている。

よくよく考えれば幻想文学というのは不思議なジャンルで、SFとも言えないし、ファンタジーというとそぐわないし、作品ごとの〈幻想〉度合いも違う。まとめて性格づけるとすれば、非―リアリズム小説としか言いようがない。

では、時代の変遷とともに幻想文学のあり方は変わってきたのか。これは非常に難しい問いだ。違いを抽出することは可能だと思うが、ひとつひとつがかなり個性的だし、時代性と想像力のあり方とに照応を見出しにくい。たとえば百閒の「件」は大正期に書かれた小説だが、2020年代にどこかの雑誌に掲載されても、あまり違和感がない(ちなみに「件」は人気小説なのか、岩波の「日本近代短編小説選」にも収められている)。このへんは、須永朝彦『日本幻想文学史』でも読んで勉強してみたい。

ふたつめは、〈子供〉を描いた小説だ。谷崎潤一郎「小さな王国」岡本かの子「鮨」河野多恵子「幼児狩り」重松清「セッちゃん」桐野夏生「アンボス・ムンドス」などなどである。

こうした系譜の小説については、幻想文学と対照的に時代ごとの変遷がわかりやすい。たとえば大正昭和初期あたりの小説だと高校生や大学生は大人に近い存在として描かれているが、現代の文学において彼ら彼女らはまだまだ子供で、しかも幼児・小学生・中学生・高校生・大学生などが細かく分かれてくる。だからこそ、大江健三郎「セブンティーン」中上健次「十九歳の地図」といった年齢をタイトルに冠した小説が象徴的な意味を持つわけだ。

また、大塚英志『感情化する社会』などでも触れられているが、現在それなりの数見られるスクールカースト小説の存在はかなり興味深い。そこに駆動しているのは非常に隠微でかつ厳密なランクづけであり、驚くほど多様なパラメータが絡んでそのバランスが形成されている。カーストから逃れるには学校の「外部」に出るしかないのだが、それは逆に、「外部」が志向されるほど学校が学生を「内部」に引きづり込む引力を有していることを示している。こうした諸特徴は、ちょっとほかの小説には見出しにくい。

スクールカーストが現れたのは比較的最近だろうが、おそらくそのあり方は新しいSNSの登場や世間のトレンドによってそれなりに変容してきているだろう。そう考えてみると、「スクールカースト文学史」というのも、十分に成り立ちうる領域だと思われる。現代文学の見取り図として、これはけっこうおもしろいんじゃなかろうか。

○おわりに:アンソロジーを読んで

いろいろなトピックについて語ってきたが、正直私は現代文学をあまり読み込んでいない。重松清吉田修一あたりの小説については、ほぼアンソロジーの作品を読んだ印象だけで好き勝手言っている。論文どころか勉強会のレジュメでもそんなテキトウなことは言えないから、こうやって間違っていても許されそうな場所に書いているのだ。

しかし逆に言えば、アンソロジーを10冊読んだだけでも、なにかと考えることがあったということだ。一応私は日本近代文学が専門なので、元からそれなりに文学史の知識はあったが、こうやって1年書けてアンソロジーを読んでみるといろいろ得るものがあった。ひとことで言えば、近代文学に対する理解の「厚み」のようなものが、ほんの少しだけども増したと思う。そうした「厚み」は、実際に小説を読まなければ手に入らないものだ。

これは何回か書いていることだが、小説を読みたいけれども何から読めばいいかわからないという人には、アンソロジーを読むことを勧めたい。いろんな小説をつまみ食いすることができるし、好きな作品が見つかったらその作者の他作品を読めばいい。そうやって新しい作者を開拓していくのだ。

今年度からは、講談社文芸文庫のアンソロジー「戦後短編小説再発見」を読み始める。2年書けて全18巻を扱う予定だ。次はどんな出会いがあるのか、いまから楽しみである。

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