Slow slow slow living in a pool

自分の名前のうしろに「耳だけ」と加える、毎朝Zoomの読書会に入るとき。入力更新をしないまま、0.5秒選択の余地と、ひと手間を繰り返している。
Zoomで話すのは好きなのに。オンライン上での発言。それは大なり小なり自分を包んでいるベールを破る行いであり緊張があり勇気を要する。言語化に取り組む機会が巡ってきたとき、限られた時間という圧の力も借りて自分の中の霧から言葉を引っ張り出したり構築を試みて、私の場合、大体が予期しない有様が出てくる。思うようにいかずたどたどしく足りておらず美しくない自分にめげるが、それでも、それは小さな爆発で。新しさ、live感、人とリンクする、身体のドキドキ、気が巡る、様々の作用が発生する。

がしかし、リビングの回線が不安定で接続がブチブチ切れてしまうために画面オフの「耳だけ」の人でいるようになった。その状態の居心地良くなさ。なぜか。
それは発言することは善(協働学習的)みたいな価値観が自分の中に出来てたんだな。それとか、いつも顔を出して音読したり感想をシェアしてくれる人たち(←尊い!好きです!)に対して貰うばっかりで申し訳ない気がする。とか。 
でも日々を過ごしながら「耳だけ」の側に腰を据えるようになってくると、もうもっとずっとここでこの心地よさを味わっていたいような気になってしまった。文章が朗読する人の声で解凍されて明け方の空間に流れ込む意味の塊、その日のその場に発生したエネルギーのプールに浸かって、自分がもっと静かになっていく、ゆっくり息をしている、これ瞑想かも、っていう、そういう状態。

言語化の努力を手放して他力にゆだねている脱力感、漂うことに身を任せるような、それとか、プールに潜って水の圧にかかりながら中から水面を見上げているみたいな。

喋ったら、それは水上に顔を出すような解放で、良くも悪くも弾むだろう、感情と身体の作用が、汗かきべそかきしている自分が、現れ出て。でも「耳だけ」の人でいる間に、自分が全体に重なっていくじっくりした拡がり、同期するための時間をたっぷり得ている。

言語化以前の混沌に無言で自分を浸す時間が本当に有難いものだったんだ。

口を開けて待っている赤ん坊に食べ物を匙で運んでやりながら食べる寸前に引っ込める、慌て過ぎてそんなふうな残酷なことを私は自分に対してやってきたのかもしれない。何が大切なのかを見落として、味わいの連続を断ち切るようなこと。それで満たされず、足りない、足りない、と不足感に追われて、やることだけを山ほど抱えて急いで。赤信号で待つ時間が苦痛っていう余裕のない状態になっていた。ストップをかけられて無言で待たされるのは何かを奪われているみたい、それが苦しいということにも気づかないほど無意識に。
ところが意識をするようになったら信号待ちがむしろ安らぎすら感じる時間になったのだ。天気と車と人々と、周りと自分に目を向けて観察して味わって。自分が生きているこの世界。空、雲、町。朝、混沌に委ねた意識が一日にわたって自分の周囲に満ちているのを赤信号で止まった時に味わう。
社会生活に一歩出れば簡単に吹けば散って飛ぶ意識にうろたえがちな日々を送る私にとって「耳だけ」でいる朝は味わう豊かさを受け取る時間になっている。ゆっくり、ゆっくり、ゆっくり。

ふと、ギャラリービューの画面で下半分くらい耳だけ参加の人の黒い四角で埋まっているのが、顕在意識と潜在意識の比率を表す図に似てるんじゃないか、と思った。意識を海に浮かぶ氷山に例えて、海上に見えている部分は全体の1%の顕在意識、水面の下には見えていない99%の潜在意識があるのだ、という図。読書会のZoomで割合は違うけれど、この読書会をひとつの意識体だとしてみたら、いつも顔を見せて話してくれる人が顕在意識で静かに聴いている人が潜在意識。。。
そんなふうに当てはめて考えてみたら。。。

自分が潜在意識の側にいて、その自分を潜在的な存在として場にいることを許しているとき、安らぎながら自分の内面へ開かれていく感覚がある。場に顕在した意識の明快さが反映してこちら側にいる自分の内面を照らす感覚。画面越しに言葉をシェアしてくださるお一人お一人はもはや職場の人よりも毎日接している訳なのでお顔と声に一方的に親しんでおり、その方々の知性と誠実の光が獏として密度の高い大きな塊(難解なニュー・アース)をいろんな角度から解かしていく。
私の潜在意識も顕在意識の活動を欲している。その生命の活動から発生する光に照らされることを。潜在意識の側の気持ちをじっくり味わっている今のところなんだか、もう潜在意識と顕在意識を分けることができない、そんな感覚がでてきています。まるっと全体。新しい認識。
いや専門的なことは分からないし知らないけど。

けど。それにつながって、私の身の周りに繰り返し現れるようになったシーン、考えろってことかな? 見る人と見られる人、話す人と聞く人、そういうテーマが、問いが、現実現象する。 それこそ、鏡、あなたはわたし、誰? The gratest unkown みたいなね。。。(最後、King Gnuで締めくくりました)

ちなみに、読書会で一日一章ずつ読んでいるのはエックハルト・トールの「ニュー・アース」です。


 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?