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"巷に雨の降るごとく わが心にも涙降る" - 宮本浩次『縦横無尽』と雨

かつてわたしは、野音2020の私的鑑賞記の結びとして次のように書いたことがある。

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「悲しみの果て」はEPIC時代とはまるで正反対な曲のように言われるが、本当はその延長線上にある曲なのかもしれない。この時期に多く歌われた「いつもの部屋」、世をはかなんで働く人を眺め何もしないでいた部屋、若くして亡くなってしまった親友の部屋、わたしだって一応日常生活を送ってはいたものの、心にはいつも雨が降っていた、比喩的な意味での「いつもの部屋」、そういう自分だけの場所を大切に手をかけて育てていけというメッセージがこめられているように、わたしには聴こえた。
「悲しみの果て – エレファントカシマシ 野音2020とEPIC時代を聴く」より
https://note.com/veronique_yh/n/n86ce29a87821
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心にはいつも雨が降っていた、とその時は筆の進むままに書いたが、これは実のところポール・ヴェルレーヌの「巷に雨の降るごとく わが心にも涙降る」の無意識の引用に他ならない。「雨が降る」と「涙する」のフランス語の活用形が少々似通っているのを言葉遊び的に配置した名詩だが、「景色」に「気色」を重ねる日本人の心性にもしっくりとなじむ言葉遣いだと思う。

だから宮本浩次のアルバム『縦横無尽』の最終章とも言うべき並びに「rain – 愛だけを信じて –」がおかれ、その歌詞「何も変わらない明日の景色や心の景色」「降りつづくrain 街にheartに」を聴いたとき、わたしはいてもたってもいられない気持ちになった。心のなかに手を入れられたような、歌い手と聴き手との間に非常な距離を超えて何か挨拶が交わされたような気がした。もちろんわたしの文章が歌手の目にとまるはずはないから、これはまったくの偶然、わたしの独りよがりな思い込みでしかないのだけれど、宮本浩次の読書歴から考えておそらく荷風訳か堀口訳でヴェルレーヌを読んでいるのではないか。影響を受けているのではないだろうか。

街に、心に雨が降る。

『縦横無尽』の3曲に降る雨を手がかりに、わたしがこのアルバムから何を受け取ったのかを考えてみたい。

1/「浮世小路のblues」
ここで降る雨は冷たく寂しい。曲の旋律や和声が醸し出す日本的な雰囲気とはうらはらに、その歌詞は意外にもフランス近代詩を連想させ、西洋的な世界観を色濃く反映しているようにわたしには感じられる。
街にそぼ降る雨や明かりが滲んで消える悲しみの世界は、都会の群衆が背負っている闇や孤独の比喩に他ならない。「神様の思し召し 浮世小路のざわめきにかき消されて 祈りの声さえ届かない」といった描写は物質偏重主義の都市文明が目に見えない世界を駆逐していく様なのだろうし、「古への大地の息吹を 魂で感じたい」とは近代精神の憂愁を抜け出し、荒野に咲く花を求めてという願望だろうか。

こうして宮本浩次の声は浮世小路から「光あれ」、創世記に記された神の第一声へとたどり着く。ブルースロックとか演歌歌謡曲とかいう枠だけにはおさまらない、とてつもなく広範な射程を見せる、恐るべき曲である。

仙台公演でこの曲を聴いたとき、ホールの空間全体が宮本浩次と化してぐらぐらと揺れたような気がした。圧倒的な重みと厚みに諸手をあげ、すさまじいどよめきにひれ伏したのをわたしは今も忘れることができない。
宮本浩次という歌の神が降臨する。

2/「十六夜の月」 

 この曲と永井荷風『濹東綺譚』の結びつきについて宮本浩次自身が早くから各所で語っているので、まずこの小説で印象的に描かれる雨について考えてみたい。

荷風はその文体が非常に美しいだけでなく、小説の技法や構造について極めて意識的である。虚構の徒花が花ひらくように、小説家が小説を書くという二重の設定が巧妙に用いられ、次第に「わたくし」の小説が「わたくし」の生きる現実を侵食し始める。書きかけの小説と語り手自身の物語のオーバーラップがクライマックスに達したところで雨が降り出し、「わたくし」は女と出会う。

何度読んでも見事で、映画のように鮮やかで美しく、うっとりさせられる。荷風は作品の冒頭で活動写真云々と書いているから、映画の暗示技法が最初から入念に仕組まれていると見てよい。それによって読者は花街の溝の迷路に迷い込んだかのように物語に引きずりこまれる。しかも荷風は小説技法についての考察をところどころに挿入して読者の理性を呼びさますため、描写が安易な感傷や過剰な官能に陥ることがなく嘘っぽくならない。作品が虚構でありながら真実味をもって感性的な美しさでわたし達に迫ってくる。この出会いの一時を経た後の、雨がやんでからの男女のやり取りを、「YouTuber大作戦」でいきなり愛おしそうにわたし達に読んで聴かせる様子からは、宮本浩次も雨前雨後の場面を大変気に入っているらしいことが伺える。

荷風は語り手を女から去らせ、秋雨続きの時季を描いた後に十五夜の月を浮かべる。

「十五夜の当夜には早くから一層曇りのない明月を見た。」

「十五夜」から「十六夜」へ。宮本浩次はギターのコードを半音移動するかのように月を一夜進めて荷風への敬愛を歌の中でひそかに明かす。

しかしそれは単なる言葉の書き替えや、初老の男が過去を回想するという筋書きの模倣にとどまらない。荷風とは違う手法で雨を使って新たな月を浮かべ、独自の世界を構築する。

「十六夜の月」で俺が電車に乗って見ている景色には雨が降り、「町は今雨あがりビルのあい間に 朧な月が浮かんでる」。

俺が美しい日々を回想するときに見ている月は荷風が『濹東綺譚』でかかげたような「曇りのない明月」ではない。朧な月だ。先ほどまで降っていた雨ゆえか、うるんだ目で見上げているからか。この曲にも目立たぬように、丹念に「巷に雨の降るごとく…」が織り込まれているといえるのではないだろうか。

宮本浩次がいみじくも「恥ずかしいぐらい綺麗、興ざめするぐらいの」(「YouTuber大作戦」)と表現した完璧な美しさの月と違って、朧な月は輪郭が曖昧で見る人によって形も色も異なる。涙に滲んだ月が描かれる歌を聴く者は、「ヤバイくらいに恋いこがれ 愛し愛されたあの美しい思い出」に歌手自身の思い出が投影されていると思うかもしれないし、聴いた人自身の人生を回想するかもしれない。そればかりでなく、コンサアトで歌い手と聴き手の間に交わされる無数の歓びの瞬間がひとつひとつ思い出に変わっていくかもしれない。舞台にのせられることによって解釈の地平が無限に開かれていく、ステージを重ねれば重ねるほど歌が厚みや奥行きを増して肉体化していく、そのことを前提として歌詞が書かれ曲が作られている、それが「十六夜の月」の宮本浩次らしさである。

3/「rain – 愛だけを信じて –」そして結び

「浮世小路のblues」で神の第一声を獲得し、「十六夜の月」で歌の新たな地平を切り開いていく宮本浩次は、この曲の間じゅう雨を降らせる。「巷に雨の降るごとく わが心にも涙降る」そのままに、街と心に雨が降りつづく。しかしその雨はもはや孤独や寂寥感をかきたてる背景でもなければ、美しい思い出を喚起するための仕掛けでもなく、声そのものが慈雨である。恵みの雨、恩寵の雨は「泣くな」と呼びかけ、愛を惜しみなく注ぐ。

個人的なことだが、11月は仙台公演の数日前に親友の命日があるので、その日は「『序曲』夢のちまた」を聴いて過ごそうと思っていた。

「明日こそは町へ出ようか 明日になればわかるだろう 明日もたぶん生きてるだろう」

この歌詞ほど彼女の心情を現した言葉をわたしは他に知らない。明日こそは学校に行けるだろうか、外出できるだろうかと逡巡し続けた彼女が最後に「今度は私の春の番でありますように」と書き残していたのに、わたしも明日が来ると思っていたのに、明日は来ず、「世を上げて 春の景色を語るとき」心の景色を語るべき親友はいない。来なかった春を悼むために「夢のちまた」を聴きたかった。「明日は晴れか 雨になるだろうか」と繰り返しながら。

そんなわたしに届いた「rain」の歌詞は「夢のちまた」の続きのように思えた。 親友が翻弄された「『ゆく』とか『ゆかない』とか 」は世間の「訳のわからぬたわごと」だったのだと。彼女が苦しんだことを時代の所為にも、誰の所為にもしなくてよい、だから泣かなくてよい、と言われたような気がした。「愛だけを信じて」わたしが彼女を大好きだったことだけが残ればそれで良いと。涙で顔をゆがめる私に向かって「大丈夫、わたしはまた笑顔になるから」と歌ってくれた。

何と優しい、穏やかな雨の、声の洗礼をわたしは浴びたことだろうか。

以上、アルバム『縦横無尽』に降る雨をテーマに仙台公演で感じたことをおぼろげながら言葉にしてみた。非常に個人的な見解、感想でしかないが、改めて宮本浩次の歌の世界の広さ、深さに感嘆するばかりである。このような貴重な機会を得たことを恵みのように思う。

そして「巷に雨の降るごとく わが心にも涙降る」ときには、わたしは「傘をさすように 歩いて」(「P.S. I love you」)ゆきたい。

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