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三府三百二県

廃藩置県って

廃藩置県は明治に江戸時代にてあった藩を無くし、県に置き換えたと教わる。
すくなくとも私はそう教わっていました。
しかし藩という呼称を江戸時代に使っておらず、明治に藩としての呼称を使ったというのが正しいのです。

いわゆる江戸時代において、将軍から石高一万石以上の領地の支配権を得ていた大名の領域、支配範囲を後に藩と呼称したということですね。なのでその所領内に居た人は、国の名前と属する郡、村名などが必要な情報であったことでしょう。

現在の戸籍制度と異なり、江戸時代は寺請制度により寺に登録されます。納税などもその国毎に領主が決めています。
基本的には、これらの手続きは個人ではなく、村長などの村の役職者と寺などにて処理を行われます。なので庶民が藩などの行政にて手続きをすることはありませんでした。

今の時代から考えるととても驚くことですね。

ゾンビランドサガR(リベンジ)の佐賀事変

さてなんでこんな話・・・というのは、今話題のゾンビランドサガR(リベンジ)。第八話はすでに公開されております。続く第九話が今夜公開されます。

この話は、佐賀事変としてこの廃藩置県後の佐賀県を取り上げております。

明治四年七月十四日に天皇が廃藩置県の詔(みことのり)を示します。これにより三百六十一の藩が県に変わり三府三百二県が成立した。その後、明治九年四月と八月に大廃合を実施し三府三十五県、明治二十一年、三府四十三県というように、まだ県が不確定でころころ変わっていた頃の話です。

年表にすると

佐賀県においては、この県の変化が・・・
明治四年七月十四日、厳原県・唐津県・佐賀県・蓮池県・小城県・鹿島県が成立
明治四年九月四日、佐賀県と厳原県を合わせて伊万里県
明治四年十一月十四日、他の四県も伊万里県に統合
明治五年一月、旧佐賀藩領の諫早・神代・伊古・西郷・深堀地方は長崎県に編入
明治五年五月二十九日、伊万里県は佐賀県と改められた
明治五年八月十七日、旧厳原県のうち壱岐・対馬の両国の地域は長崎県へ移された
明治九年四月十八日、佐賀県は三潴(みずま)県に併合
明治九年五月二十四日、杵島・松浦両郡が長崎県へ移される
明治九年六月二十一日、藤津郡が長崎県へ移される
明治九年八月二十一日、三潴県が廃止
    基肄・三根・養父・神埼・佐賀・小城の六郡も長崎県へ編入
 ※ここがゾンビランドサガR(リベンジ)の佐賀事変
明治十六年五月九日、肥前地方のこれら十郡が独立して佐賀県となる

確かに三府三百二県から三府三十五県への変更は無理があったのでしょう。

ことほむでは、ゾンビランドサガR(リベンジ)の明治の考証として調査をさせて頂きました。

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