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ニーバーの祈り

「いいなぁ。私はピアノは来世で習うことにするわ。」

これは私が高校生の頃、同級生と3人で会話していた時にMちゃんがぽろっと言った言葉。

私が幼いころ、女の子は猫も杓子もピアノを習うのが当たり前だった。
自分から習いたいと言った覚えはない。
ただ気づけば毎週バイエルを手提げ袋に入れてピアノ教室に通っていた。
特に将来的な目標がある訳でもなく、腕前は中の中といったところ。
好きとか嫌いとかではなく、もはや習慣としてピアノを習っていたのだ。
小学生の頃に引っ越した先でも、親も私も深く考えることもなく、ピアノの先生を探し出しては通い始めた。
クラスの女子も基本的にピアノを習っていて、家に遊びに行くと必ずピアノがでーんと幅を利かせていた。

そんな時代を過ごし、高校生になったある日。

私、私と同じくピアノを幼少期から習っているKちゃん、ピアノを習ったことのないMちゃんで習い事の話になった時、私たち2人がピアノを習っていることを知ったMちゃんから半ば諦めたように冒頭の言葉が出てきたのだった。

「今からでも習えばいいじゃん。」

私はびっくりしてそう言おうとした。

ピアノを習うというのは私にとっては普通のことで、誰でもやろうと思えばできることだと思っていたから。

でもそこでふと思いとどまった。

Mちゃんが習いたいのは本当にピアノなのか?

もっと言えば、Mちゃんが本当に欲しいのは「ピアノを習うという経験」なのだろうか。
だって本当にピアノを習いたかったら、もうとっくに始めているはずだから。
そうじゃなくてMちゃんは「幼少期からピアノを習ってきたという経験」が欲しかったのではないか。


私もそうだったように、多くの場合ピアノを習わせるかどうかは本人の意思というより親の教育方針によるところが大きかったと思う。
だからMちゃんも最初からそこまでピアノが習いたかった訳ではなかっただろう。
だが、小学校の休み時間に流行りの曲をピアノでさらっと弾くことができたり、学校行事でピアノの伴奏に抜擢される同級生を見て、少しずつ彼女の中にピアノを弾けないことが負い目として出来上がっていったのではないか。

もちろんそれはピアノに限った話ではなく、もしそれがバレエだったらバレエ、それが水泳だったら水泳と、とにかく多くの同い年の女子が当たり前の様に経験してきたことを自分が経験していないことに対してコンプレックスを感じているのではないか、とふと思ったのだ。

コンマ数秒でそんな考えが頭をよぎってしまい、私はMちゃんに何て言えばいいかわからなくなってしまった。

あれから10数年以上経った今でも、時々このことを思い出す。

私たちは他の人が当たり前のように持っているものに対し、深く考えずコンプレックスを持ってしまうことがある。

「神よ、変えることのできないものを静穏に受け入れる力を与えてください。
変えるべきものを変える勇気を、
そして、変えられないものと変えるべきものを区別する賢さを与えてください。」

有名なニーバーの祈りの冒頭にこんな言葉がある。

Mちゃんの例で言えば、「幼少期にピアノを習っていなかった」という事実は「変えることのできないもの」として静穏に受け入れるべきだったのかもしれない。
そしてもし「変えるべきものを変える勇気」として、思い立ってピアノを始めてみれば「なんだ、こんなものか。」という結論に至ったかもしれない。
またはもっと掘り下げて考えれば、自分が欲しいのは「ピアノを習うという経験」ではないことに気づき、「ピアノは習ってこなかったけど、私にはこういう経験がある!」と自分を納得させることができたかもしれない。


いずれにしても行動してみるか、もう少し深く考えてみるかしてみれば、「来世では幼少期からピアノを習う」という来世任せの発想には至らなかったんじゃないか。。。

今欲しいと思っているもの。

これさえ手に入れば幸せになれるのに、と思っているもの。


それは本当に心の底から欲しいものだったり、実際に手に入れて幸せになれるものとイコールではないかもしれない、という考えは頭の片隅に持っておきたい。


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