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認知欲について

私たちは五感を通して様々なものを認知します。

人間には、外界の対象を認知したがる欲求がある、と私は考えています。

美しいものを見たい、綺麗な音を聞きたい、良い香りをかぎたい、心地良い感触に触れたい。

それは性的な欲求とはまた違った場所で働くような気がします。

根元まで掘り下げていけば、大きなくくりでの欲動に行き着いて、どこかの次元で一体になっているのかもしれませんが。

何かを認知して、満たされたい。
そんな欲求。

1番わかりやすいのは、タイプの人を見かけた時でしょうか。

理想の外見を有した人を見かけて、ポォーっとなった時。

私たちは、普段は記憶の引き出しに仕舞ってある理想のイメージ像を取り出してきて、視界に登場した素敵な人と重ね、照合しているのだと思います。

結果、高精度で理想像と目の前の人が合致した時、私たちの認知欲はけっこう満たされるのではないかと考えています。

もちろんそれは外見についてのことなので、実際に目の前の人がどんな人間性を持った人かはわかりません。

もしかしたら、天使のように純粋な人かもしれませんし、地獄の住人のように極悪な人かもしれません。

認知するだけでは、その人の実質まではわかりません。

にも関わらず、私たちは認知欲が満たされた途端、程度の差はあれ、その人に好感を持ったりします。

その極端が一目惚れである、と言えるかもしれません。

人は他人が欲望するものに欲望を抱く、と言われます。

であれば、多くの人が好印象を得られるものとして取り入れている、「流行りのファッション」は人目を引く(その人にその意図があるかどうかは置いておいて)と思います。

あるいは立ち居振る舞いや言動についても、多くの人が好感を抱くスタイルを上手く「なぞる」ことができれば、周囲から好意的に受け入れられる。

ちなみに短絡的な性的欲求は社会性に依るところが大きいので、表層的な価値が強く作用すると思います。

でもそれは実質とは一線を画した、表層に重きを置くものなので、他人との交通は表面的なレベルでほとんど終わります。

本音と建前、と言ってもいい。

年齢を重ねてそれなりに人生経験を積めば、相手が表層的に振る舞っているのか、実質を表現しようとしているのかは、ある程度判断がつきます。

社会で生活するうえで表層的な振る舞いはある程度必要です。
いつも本音でぶつかっていては、衝突だらけでまともに生活できませんから。

自覚的に自身の表層と実質を捉えつつ、うまく社会に馴染んで生きる、という態度が必要なのでしょうが、良いバランスで振る舞えない人は苦しんだり傷ついたりします。

音楽、文学、絵画などの表現は、そんな人たちにとっての一時的な逃げ場所になったり、場合によっては安らぎや癒しになることもあるはずです。

それに触れている間は、嫌なことを一瞬でも忘れられるような表現が自分もできればいいなと思います。

verde esmeralda

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