多様性のために、僕らは争いを肯定し続けなければいけないのかもしれない


世間様が多様性を叫ぶようになって久しいように思う。「多様性は大事だ」。こんな文章が日々、周囲を飛び交う。そんな僕はというと、耳から耳へ、多様性という言葉が通り抜けていく度に、言い知れない不快感に襲われてしまう。多様性自体は歓迎すべきことだと思うし、なんなら好ましくさえ思っているのだけれど、なんだかモヤモヤする。どうして?


で、例に洩れず、潮干狩りするぐらいの浅さで考えてみたのだけれど. 多様性ってのは、「見る範囲」が変わることによって変化してしまう、ちっぽけで曖昧で、だまし絵のような、そんなちゃちなもんでしかないんじゃないか。そんなことをパラパラ思うようになった。


例えば、日本の学校の多様性について考えてみる。共学校、男子校、女子校に分かれると思う。ここで、「男子校のみ」、「女子校のみ」に焦点を当てて、多様性の有無を考えてみると、多様性は皆無だ。(あくまで共学校と比べると、だが)じゃあそこで、「男子校、女子校は多様性がないのだから、日本から無くしてしまおう。」と言って本当になくなってしまったことを考える。「男子校、女子校」→「共学校」と変わったのだから、より多様になった...ように見える。次に、「日本全体」に焦点を当ててみると、「共学校、男子校、女子校がある日本」→「共学校のみの日本」というように、多様性が失われてしまった。
多様性とは、随分好き勝手な振る舞いをするらしい。人にどこを見られるかによって、見せる表情が違ってくる。


人の見方で変わってしまう多様性なんて、そんなもの、主観と何が違うんだろうか。
そして同時に、私はこう思う。多様性のために、人々は絶え間なく争い続けなければいけないんじゃないか。


多様性が、人々の主観によって生み出されるのだとしたら、たった一つだけの主観に染まった世界に多様性なんてあるのか?一人の人間が、世界に様々なものを配置したとして、皆がそれを多様であると感じるのだろうか?

だから私たちは、多様性のためには争い続けなければならない。そして、いかなる勝者も、敗者も生み出してはいけない。どんな主観も、この世から無くなってはいけない。
...多様性の獲得のためには....


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