ドッペルゲンガーと真似っ子 〜真似されるのを嫌がる人たち〜


マネマネ〜真似真似〜
どうも、マネキンです。


今日は、ドッペルゲンガーに会うと死んでしまう理由について考えようと思います。(つかみ)


著作権侵害などの敵対的なパクリに対して、何も思わないという人は稀でしょう。しかしながら、リスペクト込みの真似であっても、やはり嫌だという人はいるようです。


また、自分が真似されたことだけではなく、誰かが誰かの真似をしていることを嫌悪する人もいます。
反対に、真似されることが嬉しいというケースも考えられます。
それは、ある有名人が自分のツイート内容を真似して投稿してくれたことなどです。


ある条件によって、真似という行為がその人にとって有益なものか有害なものかが決まるようです。
そんな謎を、「アイデンティティ」を使って説明しよう。
今回は、そういうお話。

この記事内におけるアイデンティティの定義等


・アイデンティティとは、名前、口癖、友達は誰かなど、その人の性質や属性について説明するもの、またはその人の存在を証明するもの全てのことである。


個人によって、あるアイデンティティに見出す価値は異なる。
つまり、アイデンティティの価値は主観で決まる。
例えば、ダンスが上手いということが自分の誇り(そのアイデンティティの価値が高い)となっている人もいれば、ダンスを上手にできるというのは些事だ(そのアイデンティティの価値は低い)という人もいる。


人々は、アイデンティティの価値によって精神を安定させている。


・「自分から見た」自分のアイデンティティと「他人から見た」自分のアイデンティティがある。


アイデンティティの価値が精神を安定させる理由


「アイデンティティに価値がある」ということは、「その人が自分に価値を見出している」ということを意味する。(自分の名前に誇りを持ってるとか)
つまり、自分が自分を認められている(あるいは他人に認められている)と感じていること。または、それ自体が生きる理由になっていたりするから。


真似に対する人々の嫌悪


まずは、著作権侵害について考えてみましょう。
著作権侵害というのは、著者の作品をコピーし本来著者が得られるはずだった報酬、賞賛などを奪うことです。つまり、奪った報酬と賞賛分、著作物の価値を減らしたと解釈することができます。

では、これが権利ではなくアイデンティティの話になるとどうなるでしょうか。


例えば、難しいテストで満点を取った人が1人の時と、その後N人になった時のことを考えてみます。(Nに入る数はどんどん増えていく)
そうすると、満点を取ったことの価値というのは、Nが増えていくにつれ、どんどん下がっていくというのはお分かりでしょうか?
(Nが2人の時と、Nが30人の時、明らかに満点を取ったことの価値が違う。)


つまり、アイデンティティの複製が起こった時、価値も複製されるのではなくその場に存在している価値が分配されている。
よって、もともと存在していたアイデンティティの価値は下がっているのです。
ここから、周りから見たアイデンティティの価値の総量は基本的に変わらないのではないかというように考えることができます。


また、アイデンティティの価値は精神を安定させるということから考えると

他の人に同じようなアイデンティティが見つかり、自分のアイデンティティの価値が下がった時、その人の精神は、以前と比べて幾分不安定になるはずです。
その時の精神の揺らぎが、嫌悪感や怒りとなって発露するのではないでしょうか。

もちろん価値は主観で決まるので、本人が何も思わなければ、価値の下落は起こりようがないですが、、


だから真似≒攻撃という風に捉えられ、攻撃=悪いこと というように世間一般では考えられているので、それは赤の他人が真似を咎める理由になるし、真似されたらイヤ!


真似されて嬉しい!の謎


さて、あるアイデンティティが真似され複製された時、基本的に価値は落ち、精神は不安定になります。結果として、それが嫌悪感などの形で表出します。


では真似をされて嬉しいといった時に、一体何が起こっているのか考えてみました。

真似をされると、基本的にアイデンティティの価値が下がる。にもかかわらず嬉しいと感じるのは、合計のアイデンティティの価値が、本人的には上がったのではないか。つまり、真似されること自体がその人のアイデンティティの価値を作り出したのだろうということ。

価値の下落は、他の価値によって補うしかない。アイデンティティの価値はアイデンティティの価値によってしか補えない。


こういう風に考えると、有名人に真似されて嬉しい、好きな人に真似されて嬉しいと感じることに説明がつく。というのも、自分が価値を感じる人が自分の真似をするというのは、自分の存在がその人によって認められたということだから。それがアイデンティティの価値になる。

真似されることが、真似によるアイデンティティの価値の下落を相殺し、合計の価値の上昇に貢献したということ。
(もちろん価値は主観で決まるので、そもそも誰に真似されるのも嫌だという人もいる。)


ドッペルゲンガー現象とアイデンティティの関連性


さて、アイデンティティの複製というのは、価値がそのままコピーされるということではなく、オリジナルの価値を分裂させてその模型ができることでした。


これを踏まえて、ドッペルゲンガーに会うと死んでしまうという都市伝説について考えてみましょう。


ドッペルゲンガーに出会ってしまった場合、即座に、その人のすべてのアイデンティティが複製され、その人自身のアイデンティティの価値が下がる。
アイデンティティの価値が下がった結果、精神が不安定になり、様々な方法で死にいたる。このような流れです。


つまり、自身のアイデンティティがすべてコピーされた結果、自分の精神を十分に安定させることができる価値がなくなってしまう。不安定になった精神がその人を死に向かわせるかもしれない。なぜなら、自分を代替する存在がもう一人いて、片方死んでしまってもいいぐらいの価値まで下がっているわけですから。そして、今までにそんなに激しい価値の暴落は経験したことがないでしょうから。
さて、そんなT君の死亡ケースは3つぐらい考えることができます。


・片方が死ぬ


不安定な精神によって自殺、もしくは事故死など。


もう一人のT君を殺せば自分のアイデンティティの価値は元に戻るので、殺しにかかる。もちろん、相手も殺しに来るかもしれない。


(自分も相手もTであることに変わりはないので、片方が死ねばT君が死んだことになる。)


・両方が死ぬ


どちらも自殺、または差し違える。


・T君は死亡したと解釈できる


極限まで薄まってしまったアイデンティティに、他のアイデンティティを加えることによって精神を安定させようと努力する。
結果として、今までのT君とは別人になる。(元のT君は死んだと解釈できる)
これが両方で起こるかもしれないし、片方かもしれない。


ただどちらのT君も生存するルートはあるし、その場合、両T君なので、両津兄弟と呼ばれることになるかもしれない。


コラム 絵をゴミに変えていくAI


現実の物の値段は、需要と供給によって決まる。それらのバランスがある程度取れている時または、需要が供給に対して多い時、物にはある程度以上の価値がつく。


しかし、人間が増やす「絵の需要」に対して、AIが増やす「絵の供給量」というのは圧倒的に多い。つまり、AIを利用する人が増えるほど、絵の価値というのは下がっていき、やがてゴミに近づいていくことがあるかもしれない。
AIイラストに関しては、もはやゴミ同然と言ってしまっていいかもしれない。


さて、そんなAIだが、AIイラストブームが到来した時は(今もだが)議論が白熱していたようである。
曰く、「AIは他人のイラストをパッチワークのように継接ぎして作ったパクリを生み出している。」

私は正しさを追求する性分なので、「私たちもAIと同じように、他の人の絵や自然の風景などから学習している。ただAIと比べて学習のスピードや効率が違うだけだ」
こんな意見の方が、「AIイラストからは性癖が感じられない」や「AIイラストには人間味」がないといった意見よりも正しいと感じる。だが、AIイラストに対して、何か釈然としないものを感じるというのもまた事実であった。


また、直接の被害を受ける絵師たち本人がこれらの意見を言っているならば、それは至極真っ当な現象であるように思うのだが、全くの無関係であるように思われる人々が議論に参戦するのは、少し不思議に思っていた。


だが、アイデンティティによる精神の安定という概念とこの状況が結びつき、最近になってなぜこんなことが起こっているのかが分かったのかもしれない。ついでにAIイラストに対する私のモヤモヤも。


さて、これを語る前にまず前提の確認をしておく。
関係のない人々が議論に参加し、AIに反対する理由について考えられること
・好奇心、議論が好き、首を突っ込みたい
・絵師たちが可哀想
・AIを使う人たちのモラルがひどくて嫌い。(実際していることは、絵師の価値を奪うこととほぼ同じ)

+ほとんどの人に共通しているかもしれない理由
この理由について語ろうと思う。


考えたことというのは、
人々は、複製?や量産され、絵の1枚あたりの価値が下がっていくことに対して主に不快感を感じているのではなかろうかということ。
そうなるとどうなるのか?
それは例えば、鑑賞であったり、そういった絵を楽しむ行為そのものの価値も同様に下がってしまうということ。(価値の無い絵を見る価値なんてあるのか?)つまり、その絵に対する感想をもつということの価値も下がるということ。絵自体が、私たちが普段気にするほどでもない日常の風景と成り下がってしまう。


また、鑑賞の価値の上に成り立っているものも多い
それは、文化やコミュニティであったり、感想の交換による交流である。
鑑賞の価値があるからこそ、人々は鑑賞物に対する意見を持ち、交流が生まれる。それはコミュニティを生み出し、文化を作り出すこともある。

そして、文化、コミュニティ、人々との交流や関係は、いずれもアイデンティティの価値を見出すことができるものである。
(〜サークルに所属しているなどもアイデンティティだから)
つまりAIイラストおよび、供給量を増やすAIというのは、自らのアイデンティティの価値を下げるものであるというのを、無意識に理解しているのではないか。だから不快に思うのだ!だ!だぁぁぁぁ(銀魂)


コラム+ 人間は、肉体の安定と精神の安定を求める


原子は、最も安定するような電子配列になるように電子をくっつけたがる。物質は原子で構成されている以上、原子の集合体である肉体が、安定を求めるのは自然なことなのかもしれない。(原子が集まった時の振る舞いはよく知らんが)
また、肉体が不安定であるというのは、体の機能だったり形だったりが正しくない状態であるというのとほぼ同義なので、肉体が安定を求めるのは、やはり当然だと思う。
幸か不幸か、人間は便利なのか不便なのかよくわからないものを獲得した。それは心だとか、精神と呼ばれるもので、厄介なことに、それらを蔑ろにすると思考に甚大な影響を与えてしまう。つまり人類は、安定させなければいけないものをもう一つ獲得してしまった。
だから人類は、より価値が高く、より強いアイデンティティを求める。


あとがき


真似をすることは、基本的には攻撃的なことであるというような内容でした。真似をする際は十分注意を払って、そして、できる限り戦略的にいきましょう。


あと、最初のクソみたいな挨拶は、英語に翻訳すると面白かったのでそのままにしました。


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