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美しさの言語化|


「美はあなたの内面に宿り、あなたの目に映し出される。美は肉体的なものではないのよ。」
ーソフィア・ローレンー


詩的に、美しさとは何か表現するものはたくさんありますが、我ら言語化星人には馬の糞にもなりません。なぜなら、我々にとって最も重要なことは、あるものに共通する普遍的な法則を言語化することだからです。
ということで今回は、何が美しさを生み出すのか、大まかに一般化しようという趣旨で書き始めました。


痺れるような表現は見てて楽しいんだけどねぇ

では考えていきましょうか。

一般の「美しさ」の定義


考える土台として、一般の共通認識である定義について確認することはすごく重要です。では見てみましょう。


「美しいこと。乱れや不整合がなくて心をうつ様子。または、その度合い。」

はい、例の如く全く役に立ちません


観察と解釈


まず私は解釈から始めていきました。
つまり、
美しいとはどういうことか
これを言い換えていきます。


美しいとは、普通ではないこと。
普通ではないとはどういうことか。

普通ではないとは、「普通から何かしらの変化があったこと」

そしてここでひらめき


仮定:
美しさとは普通からの「変化」によって生み出される。


つまり、その変化の部分がどんな変化なのかが分かれば、何が美を生み出しているのかがより詳しくわかる。


今の状態は、
「美しさを生み出すのは普通からの変化で、その変化は〇〇な変化である。」

ここからさらに探っていきます


深めて考える


美しさについてさらに考えていく時に、私はまず、「美しい」と似ている印象の単語や様子について考えてみました。

そこで考えたことは、「かっこいい」は「美しい」と似ていること。「かわいい」と「美しい」はどこか対照的な印象を受けることでした。

今までの経験と照らし合わせたところ、かっこいいと美しいが共存していたことこそあれ、かわいいと美しいの共存はどうも見たことがなかったのです。


ここから、かわいいとかっこいいというのは、同時に存在し得ない。つまり、対極の位置にある言葉同士なのではないかと考え、同時に、普通からの変化というのもまた、ちょうど反対のものなのではないかと考えました。


そこで、かわいいとかっこいいについて考えると、
「かわいい」=丸い
「かっこいい」=鋭い
という印象を受けました。
印象としてはちょうど対義語のようになっています。


仮説ありきなのでバイアスがかかっているのかもしれません
要注意です。


では、「かっこいい」と似ている「美しい」
これも「鋭い印象を受けるもの」であるというふうにしてみます。
そこで、「鋭さは美しさを生み出す」のではないかという仮説を立てました。
で、実際私は、この仮説に対して何の違和感も感じません。


では実際に、この考えがあっているか確認しましょう。


美しさの中の鋭さを探す。


その前に少し確認を。「普通」と比べてどんな変化があるか確認する以上、その変化はすべて「相対変化」となる。そのため、相対変化に関わる言葉は鋭さを生み出すための道具となってくれる。


・夕暮れ



明るい場所と暗い場所の、強いコントラストによって鋭さが生み出された。


・刀
形状としての鋭さ、ハイライトの鋭さ。



ダンスの緩急


これも相対変化の問題。ゆっくり→激しい またはその逆が起こると、そこには鋭い変化が発生する。それを受け取った私たちは美しいと感じることができる。
(表現者がかっこいいに寄せるか美しいに寄せるかで変わるけども)


このように、鋭さが美しさを生み出すというのはあながち間違いではなさそうです。


「優美」について


とはいえ、鋭さだけでは説明できない美しさがあるのも事実です。ゆったりしたバレエの動きは、激しく動く時のバレエの動きと比べて大きな変化が見られる。つまり、鋭い緩急があるから美しく見えるのだ。と言うこともできますが、終始一貫して、緩やかな動きを断続的に繰り返す舞踊というのもあります。


ひらひら舞い散るさくらの花びらだとか、そういう物には優雅さを感じさせる美が存在しています。しかしながら、それらの中から鋭さを見つけることはとてもできそうにないのでした。

花びらひらひらは緩急あるけどね


あまり考察のしがいはないが、「途切れることのないゆったりとした変化」
これも美しさを生み出すのではないだろうか。
例えるなら、鋭さという直線を穏やかな波のような曲線にした感じ。
このぐらいしか考えられることはないか?

鋭さとおんなじベクトルにいて、少ししか違わないから、美しさとして受け取ることができるが、そこに品だとかそういうものが追加されて微妙に違うものになるといったことだろうか。


ただ、緩急だったり、鋭い要素がある方がより美しいのではないかと思う。緩やかな方は美しさもあるけど、品があるだとかそちらの方向に寄っている。

美しい行いとか


この場合の「美しい」というのは、beautifulというよりは、ただ単に「道徳に沿っている」というだけな感じがする。
普通からの変化はあるかと考えた時、道徳的≠普通だから何かしらあるんだろうけれど、よくわからないし、考える必要はあるだろうか?
これは不可知な問題かもしれない。


アイデアが生まれる瞬間まで、この件は熟成しようと思う。

常に人もしくは人らしい行為にしか関わらない要素かつ、一枚のシーンではなく一連の流れを見る必要があるので、表現としては使いづらい部類。

以前品について言語化した時も道徳と関係があったから、そこをとっかかりにしようかしらん。


その他の美しさ


完璧な円、正円を美しいと言う人もいます。
シンクロナイズドスイミングとかの「統制された美しさ」ってんですか。


ただ、美しいと言っているからにはやはり、「普通ではない」のでしょう。
この場合、普通ではないのは「統制された」という部分でしょうか。


放っておけばエントロピーは増大するっていいますし、この世界では、乱雑になっている状態がデフォルトだから、そこからの変化なんじゃないでしょうか。


色々な種類の美しいがある理由


「赤くて丸い果実。食べると酸味と甘みがある。美味しい」
これを林檎と定義したように、「鋭いもの、状態」
これが美しさだと定義されたから、美しいと感じる。
このように考えた方が自然なのかもしれません。


見た時に「わぁ...すごい」となるものの中でも特に、「ある種の鋭さがあること、または品が感じられること、または道徳的に良いこと」
これらを美しいと呼ぶようになった。

これを、美しさの性質に一貫性がない理由としておきます。


コラム 死が訪れる瞬間は儚く美しい


全ての言葉は、普通からの変化によって生み出されると解釈すると、恐怖=何か自分に対して危害を加え得る動き、変化によって引き起こされる。
多くの場合、そういう動きや変化というのは鋭いものが多い。つまり、「美しさ」と似ていると言うこともできる。
(また、灰になった花がパラパラと崩れていく様には、穏やかな美が隠れている。)
同じベクトル上に、かっこいい、美しい、恐怖があると考えると、そのベクトルの終着点は、死になるのではないか。


これが、美しさと死が似たようなものであるという風にたびたび論じられる理由なのではないかという妄想でした。


(儚いものは一瞬で終わるものが多いし)


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