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〜第3話〜地獄の一丁目中学時代


村に1校しかない中学校は家から30キロ離れたところにありました。
30キロ離れたバス通学、これを読んでる都会の皆さんには普通の出来事だと思います。 田舎のバス通学はそんな簡単なものではないのです。


【ある日、バスがこない!】

待てど暮らせどバスは来ないのです。何が起こったかもわかりせんが、なにせバスは来ないのです。1日中、来ないこともありました。

1日4回ほどバスが来る


そんな日は、崖崩れなど災害があってバスが動かない、バスがこない、なんてこともあるのです。 崖が崩れて、1週間以上 バスが通らなくなることもシバシバ


そんな秘境では、バス通学というのは建設的ではない、これが村の考えでした。だからほとんどの子供が寮生活をスタートすることになるのです。


【憧れと不安が交錯していた寮生活】


仲のよい友達もいました。沢山の稲穂から人間の友達が出来た私。 自由を満喫するはず、夢への第一歩が始まったはず・・でした。

朝、掃除の時間!ほうきをもって、はいていると怖い顔をした先輩が私の方にヅカヅカやってきて

「先輩が掃除してる時は、1年生が代わらんとダメやろ!!」と叱るのです。「私も今、掃除してるのになぁ・・」と思いましたが、そんなことは到底、言えるはずもなく

恐る恐る先輩に近づき「掃除かわります。」と言うと「はい」とほうきを私の胸の前に突き出され 受け取ると、そのまま先輩は自分の部屋に帰っていくのでした。
そう!虐待の対象から、奴隷の対象に進化したわたし

進化??? 後退??? 家では怒られはしたけど愛情がありました。 ここは、純粋な奴隷です。ww 
そこに愛があるはずもないのです。


「ジリジリジリ」と、けたたましい音で、毎朝6時には起床する私達 その音は、下品な火災報知器の様な音でした。あの音は今だに夢にまで見ます。ww


それほど、あの「ジリジリジリ」は酷い音だったのです。だから「ジリジリ」となる目覚ましは大嫌いです。

朝は、美しい音楽で起きたいものです。火災報知器が鳴る朝はまさに地獄だったのです。

【封建制度のような上下関係】


まさに時代錯誤、それは想像を絶するものでした。 絶対的な主従関係
ま・さ・し・く・奴隷 
奴隷な私は、ここでも周りの顔色を見て生活するのです。


周りの顔色を見て生活するのは慣れてますが、愛のない、好きでもない人の顔色を伺うのはかなり辛いです 母の時は、好きな母に認めてもらいたい顔の伺い方があったのですが、ここでは完全なる奴隷 そこに愛はなかったのです。何度も私は叫びたくなりました。

「そこに愛はあるのかーーーーい!」

という想いが膨らんでいたのです。そう。私は、逃げ出したかった。

食事の準備や掃除、お風呂の世話、全てこれが、1年生の私たちの仕事なのです。そして、鬼のような先輩の説教を受け、小言の毎日、これこそが私たちの日課です。


説教部屋に呼ばれると、薄暗い部屋の中で数時間正座し、地獄の時間が発動されるのです。

なんのことかは忘れましたが、理不尽なことで説教されてるのは間違いありません。 私は、先輩の目を見ることも出来ず、うつむいたまま微動だにせず先輩の文句を聴いていました。
いや、聞き流していました。

そう、聞いてられない訳です。正しさなんてここには何もないのですから 悪式封建社会がそこにはあったのです。 


「バカみたい」

家を出てパラダイスな世界を夢見た私は、現実、打ちひしがれただけでした。思いだせば鬼の形相でしかなかった母親が、恋しくなっていました。

そう、私はホームシックに陥っていたのです。家に帰りたい!と毎日毎日泣いていました。 鬼の形相だった母親、この時ばかりは天使に見えたのでした。 そう!母親には、愛があったからです。


結局私は、一時も早く実家に帰りたいと思いながら1年間を過ごしたのでした。言う勇気がなかった私がそこにはいたのです。


2年になり3年になった時、「私は鬼にはなりたくない」そう思いながら先輩をやりました。 手伝わせることもなく、正座させることもありませんでした。

悪式封建社会を壊したかったのです。「それは出来たのかな??」
ただ、「私には学びがあった」そのことは間違いはないのです。


【自分の価値観を人に押し付けてはいけないと思ったのです 】


たとえ後輩でも誰であっても、人にはそれぞれ価値観がある、価値観を押し付けるという事は、私にとって正しくないことだし、愛がないこと、例え正しいことでも正しくなくなる!


相手を嫌な気持ちにさせる、それは学びでもなんでもない、得る者なんてそこには何もない。
こうして私は、縦社会の理不尽さを経験するのです。


【吹奏楽部で得た自信】


そんな地獄の1丁目でしかなかった私にも、楽しい想いでが出来たのです。 それは、アルトサックスとの出会いでした。


ある日、先輩が「一緒に練習しよ」と声をかけてくれたのです。 その先輩が手に持つものこそ、アルトサックスだったのです。

愛情に枯渇していた私!「一緒に練習しよう」その言葉が神の声でした。 声をかけてくれただけで嬉しいのに、一緒に練習しながら、しかも教えてくれる。こんな経験は私にとって初めてでした。

先輩の後をついてアルトサックスを猛練習した私 このアルトサックスとの出会いが、その先の進路を決めるとは、この時は思ってもいなかったのです。

目指すものを見つけた私は強かったのです。だって稲穂を観客にコンサートが出来る私です。

ホームシックも徐々になくなり、そう、私の孤独は徐々に解消していったのです。                                                                                        

アルトサックスの練習は楽しく、特に上達することが嬉しくて夢中になって練習していた私がそこにはいたのです。いつしか必要とされる私になったのです。

アルトサックスが評価され、私だけではなく無名だった吹奏楽も気づけばコンクールに出場し

🥇金賞
を受賞するまでになったのです。

頑張れば結果として残るという事を実感し、そのことは私にとって大きな自信となり、これからの人生に大きな影響を与えてくれることになったのです。


「うちの高校に来ないか」

なんと、それは有名な、ある高校の吹奏楽の顧問の先生からのラブコールだったのです。 しかも、特待生なので授業料が免除 中学校での吹奏楽部の成績が認められた瞬間でした。

家の隣にある田んぼの稲穂に向かって孤独に歌っていた私が、人に必要とされる喜び、成長する喜びを感じた中学校時代でもありました。


そのラブコールから私は、宮崎市内にある高校に入学しました。 吹奏楽でアルトサックスという武器を手に入れた私は強かったのです。

高校生活は楽園でした。そう、夢にまで見た楽園が、自由がそこにはあったのです。友達も沢山できホームシックにかかることはありませんでした。

人生いじめられっ子の私にも自信がつき、この3年間は私にとってかけがえのない3年間になったのです。 そんな、調子こいた私は、宮崎を飛び出す事を決意するのです。✈️

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