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【短編小説】夏への扉

気がつけば人生の折り返し地点を通り過ぎ、終盤にさえ差し掛かかかっている自分がいた。本当にあっという間にここまできてしまったんだ。

「もっとああすればよかった、こうすればよかった」と後悔しながら多くの人がそうであるように相変わらずいつも通りの毎日を過ごしていく。
若い頃はそんな人間にだけはなりたくないと思っていたが、「結局オレも彼らと同じごく普通の男だったのか」とTは諦めにも哀しみにも似た力のない笑いを浮かべながら図書館にやってきた。仕事の調べ物をするためにだ。
それにしても今年の夏は暑い。全く暑すぎる。

時間だけはたっぷりある既に仕事を退職した人たちが、金はかからず快適に冷房が効いている公共の図書館で一日を過ごしている姿が目につく。
早朝から列を作り開館と同時に超人的なスピードで走り、勝手に決めた自分の席を確保する。まるで40歳ぐらい若くなったんじゃないかと見紛うほどの早さだ。
指定席が取れた時のこの上ない充実感を感じ「まだまだ若いものには負けねえ」感と喜びの表情を隠すことはない。時々一日分のエネルギーを使ってしまいそのまま目が覚めない眠りに入ってしまったのではないかと心配にもなる。
とにかく今まで生きてきたのはこのためにあったとでも言いたげだ。
不運にも誰かに取られた時はこれ以上ないくらいの恐ろしい顔をし呪いを相手にかける。
この間などは自分を落ち着かそうとしているのか、他の理由があるのかわからないが小さな声で般若心経を唱えているやつがいたが本当に不気味だった。
彼らは明日こそ絶対に負けないと心の中で誓うのだった。
そんな奴らを見ながら、Tは絶対にああいう人間にはなりたくないと強く思った。気をつけなければいけない。また気がつけばいつの間にかそんな人間になってしまっているかもしれないからな。
「オレは長生きなんかしたくない」といいながらもう90歳にも届こうとしてると思われる男が、無遠慮な音をたてて指先を舐めながら紙の新聞をめくっている。
こういう奴らはなぜか決まって安物のキャップを被っている。それでは紫外線は防げないぞと言いたいがもちろんそんなことは口に出さない。
「いつまでも元気で長生きしてくださいね」という言葉をこいつらは間に受けて、その本当の意味が理解できずにいる。
「オレの人生のピークはまだやって来ていない」とでも言いたげだが、
「50年前にそれは来ていたんだよ」という言葉を飲み込みつつTは借りた資料を持って図書館を出た。

近頃はレトロ喫茶ブームらしい。いつもは平日なのに長蛇の人が並んでいる名曲喫茶Rも珍しく列ができていなかったので、入って珈琲を飲みながら先ほど本を読むことにした。

チャイコフスキーのシンフォニーを聴きながらしばらく本を読んでいると向かいの席からこちらを見る男がいた。
全体的にシルバーグレーの髪をわけている上品そうな男だ。
「久しぶり!」高校の同級生Jだった。
「偶然だね。ここへはよく来るの?」
「たまにね、クラシックが好きだからね」
そういえばJは吹奏楽部でバイオリンを担当していたな。
だがJとは特別仲が良かったわけじゃない。それどころかTは時々いじめていたかもしれない。
サッカー部に所属し選手を目指していたTにとって男のくせにバイオリンなんか弾いてるなんてやつは軽く見ていい存在だったんだ。
全く無茶苦茶な根拠も何もなく理屈にもならない理屈だが。
Tにとって軽い悪ふざけのつもりだったがやられた方はそう思わないに違いない。一生消えない傷跡を心の中に残して生きていく。
そんなニュースの記事をいつか読んだことがある。気まずい思いをするのは決まって虐めた方なのだ。実際TはJを差し向かいで話をすることになり何となく居心地が悪かった。
だがそんなことはお互い触れずにいた。単純に昔の同級生の近況を聞いてみたかった。
Jは20年前に奥さんを病気で亡くし、その後一人で子供を育てて来たが彼らも独立したということをこの時に初めて聞いた。
昔の同級生と懐かしい話をしているのは楽しいが、もちろん誰とでも話が合うわけじゃない。長く生きていれば価値観や考え方、物の見方が変わっていくのは当たり前のことだ。
昔は仲が良かったが久しぶりに会うと全く話が合わなかったり、その逆があったり。Jは仕事を退職して今は経済の記事を書き、時々ネットニュースに掲載されているという。
Jとはいろいろと話が合った。Tも少なからず経済に関係すもがあるが、それだけじゃない。何というか周波数のようなものが合うんだ。

学校を卒業してからの話、いままでの仕事の話、家族の話、その他いろいろなことを話し笑い合っていた。そして気がつけば3時間経っていた。もうそろそろ帰らなくてはいけないというTの表情が伝わったのかJが言った。
「もうね、今まで人を押し退けたり逆に裏切られて傷付いたりいろいろなことがあった。でも今はこうして生きているのが嬉しくてね。一体何に感謝したらいいのかわからないが、まあ今から思うと辛いことや悲しいこと全てが喜劇に思えるんだ」
こんなことを言うやつだったのかとKは少しびっくりした。
「そうかよかったね」Kは微笑みながら言った。
「もう誰かを傷つけたり悲しませたり、利用したりしながら残りの人生を生きていきたくないんだ。ところで今日はありがとう、久しぶりに話せて嬉しかったよ」
Jは微笑みながら言った。「その通りだ」と言いたかったがうまく言葉が出てこなかった。Tは顔を隠すようにして残りの珈琲を飲み干した。
もう一度入り口の方を見ると外から漏れて来る夏の西日が扉に反射して眩しかった。


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