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novel【猫鳴き梅酒」

 つまくれの花(鳳仙花)が咲いた。空は、青い。
 九月の誕生石はサファイアだというから、わたしは、自分のなかゆびと空とを見くらべて、ふむ、とうなずく。なるほど、おなじね。
 わたしのサファイアは、画家の米国土産だ。その頃、サファイアリングの台といえば金かプラチナの二択だったが、画家はわたしと同じく、それを良しとしなかった。いまでは銀台のサファイアの指環はめずらしくなくなったけれど、90年代にこれを贈られた時は、胸が痛くなるほどのサプライズだと感じた。その心の動きは、いまも色あせない。

「みさおさん、」
 名を呼ばれて振り返ると、画家が、梅酒の瓶を左手に提げ、右手では猫を抱いて、がらりの戸口から姿を見せたところだった。
 画家がからだを低めると、猫はするりと腕から抜け出す。三毛だが、目は青い。ふしぎな仔だった。
 わたしは云う、「また、違う猫(こ)」。
 うん、と、画家は云って、コの字形のこの家の、母屋に対して右翼になっている蔵に入り、コップをふたつと、刺身用のしょうゆ皿を持って帰ってくる。
 庭の片隅で雨ざらしになっているテーブルにコップとしょうゆ皿をならべ、梅酒を注ぐ。
「ん、」と、目顔ですすめられて、わたしは喜色をあらわしすぎないように注意しながら、コップを受けとる。
 でも、ひとくちふくんだなら、わたしの完敗だ。
 くちも目元もゆるみきって、ただ、梅酒の味に没頭する。
「いかがですか」
「今年も完璧」
「成功か。よかった。でも、猫はみんな梅酒が好きだからな。みさおさんの点は、いつも甘めだ」
 ちら、と視線を斜め下にやると、三毛がしょうゆ皿の梅酒を無心になめていた。
 視線を戻す。「わたしは猫ですか」
「猫以外の何だって云うんです。またたび酒であんなに酔うくせに」
 わたしは赤面する。
 果実酒づくりが趣味の画家は、しかし、自身はあまり酒など召されない。したがって、はじめて画家の家の台所を使わせてもらった時、左党のわたしが流しの下に頭をつっこんでどれだけ驚喜したかを、画家は忘れてくれない。ついでに、その日、膨大な数の「作品」の中からまたたび酒をチョイスしたわたしが、どんな「猫」と化したかも。
 

 みさお、という名は、正確には「美青」と書く。たいてい、読んでもらえない。
 学生時代、先生方は「みせい‥‥?」と云って首をひねり、学期はじめには級友から「みあお」と呼ばれる。そのうち、呼び名は「みゃお」ということで落ち着くのだが、画家は、初めて逢ったときからつい数年前まで、わたしの名はほんとうに「みあおさん」だと思っていたらしい。いまでもときどき、「みゃおさん」などと云ったりする。
 そういう画家は、まそおと云う。「真朱」と書く。とうぜん、呼んでもらえない。
 干支が一巡するほどの間、つかずはなれずで、もちろん恋人同士では断じて無いわたしたちの関係を他人に問われれば、「ようするに、難読名同盟の盟友ですね」、などと答えることにしている。
 

 ひぐらしがしきりに鳴いている。
 西の空に目をやると、なにやら猫の爪のような白っぽい影がある。月、らしい。
「ああ、つぎの満月は仲秋ですね」
 画家は梅酒をなめながら云う。ビール用のガラスコップは、水面が一センチしか下がっていない。
「月餅(げっぺい)、焼きましょうか」
 わたしは云う。ついでに、画家の梅酒に炭酸を入れてやる。や、すみません、と画家は云う。わたしはにっかり笑う。
「中華風月見ですか。みさおさん、月餅、焼けますか」
「焼けますよ。南京町で型を買いましたし。小豆あんなら、黒ごまとごま油をスリ鉢ですりあわせて、小豆をくわえて練ります。木の実あんなら、ナツメだのあんずだの干しぶどうだのカボチャの種だの入れます。挽肉あんもおいしいですよ」
「ぜんぶ、焼けますか」
わたしは、ひゅいと眉を上げる。
「やってやりましょう」
ニヤリと笑って横顔で請けあうと、画家はわたしのコップに自身のコップを合わせてきた。
「猫、酔いませんか」
寝っ転がってうにゃうにゃ云っている三毛は、あんがい正気の気もするけれど、わたしはいつも心配になる。
「うちに来る猫は、みんな強いですよ。慣れてます。慣らしてやったので、みんな、つきあい良いです」
「慣らしてやったんですか」
「正確には、完全には慣れないのが一匹居ます。その子だけは、なにがあろうと寝ていきません。と云うより、強いんですね。一度だけ、酔いつぶれかけたことがあったんですが、くちをなめられたりかじられたりされただけで、正直、もっと呑ませとくんだったと大いに悔やみました」
 ふーん、とわたしは云った。
「その猫――、」
わたしは云いかけて、ちょっと云いよどみ、けれど、やっぱり云った。
「その猫ね、もしも、もしもですよ、その猫が月見に来たらね、またたび酒呑ませると良いですよ。寝ていくかどうかは解りませんが」
やっぱりそうですか、と画家は云った。
「実は僕も、そうしたら良いんじゃないか、と思って、去年、新たに、またたび酒、漬けたんです。ちょうど飲み頃ですよ」
 わたしはちょっとだけ画家をにらんでみた。画家はすずしい顔で梅酒のコップをくちに運んでいる。
「仲秋、晴れると良いですね」
 梅酒いろの三日月が沈んでいく庭で、画家と猫は、梅酒をなめる。 



fin.



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