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ヴィーガニズムとの共生について


友人(仮)がヴィーガンになったらしいです。
彼女の言い分はこう。

「ヴィーガンは道徳」

「私がストーリー(インスタグラム)に動物性不使用の食事を載せるのは褒めてほしいからじゃない。動物の命を頂かなくても生きていけるよっていうことを知るきっかけになればいいと思うの」

「動物園の動物達は本来生きるべき世界から連れ去られ、動物園という狭い世界に閉じ込められている」

「スーパーに並んでる肉は動物の死骸だよ?ホルモン剤まみれのだよ?」

「肉食より菜食の方が圧倒的に植物を無駄にしない」

「ヴィーガンは個人の押し付けであり、肉食は個人の自由だと言われているけど"美味しくて便利"という自己中心的な理由で食べるために命を作り出し、動物をモノとして扱い、私たちと同じ命を奪っているって、かなりの押し付けじゃ無い?」



なるほど、これは中々反論したくなる主張だと思いましたね。

とりあえず、フェイクニュース紛いを垂れ流すことは許されないと思います。

次に、1人の飲食人として思うのは、肉にしろ植物にしろ、美味しく食べることが食材への最も大きなリスペクトだと思います。

そして、誰が何を食べようが、それに文句を言うことは絶対にしてはいけない。と思う。(メディカルな問題とか例外を除いて)


僕は食に関して主義は無いですが、サスティナビリティやトレーサビリティは重要視しています。僕が自然崇拝者を自負する以上、そう言った視点は失わないよう意識しています。そういった主義や主張は所詮、定性的な形でしか測ることが出来ないし、自己満足の世界だと思っていますが、その代表例が「動物愛護」です。


これはぜひ読んでいただきたいです。
結局、「かわいそう」あるいは「おいしそう」と思う"心"を定義できるほどヒトは進化出来ましたが、それはヒト以外の動物や植物が「自分はかわいそうだと感じている」と断定出来るものでは無いです。動物の感じるストレスの数値化や傾向を示せても、動物の心の傷や痛みをヒトが直接的にしかも誤差なく理解するには困難を極めます。

はっきり言って、心はヒトが生態系の頂点に君臨してしまったが故に得た負の産物だと思っています。
虫を喰い、果物を喰い、肉を喰らい、時には仲間を喰い、そうやってアデロバシレウスの頃から這いつくばって弱者として紡いできた遺伝子が、生態系の玉座に座った途端、目の前に並んだ選択肢の多さに慢心したのです。

「他の選択肢があるからいらない」という取捨選択を出来る様になる、そして他の動物を哀れむほどの余裕が出来てしまったのではないでしょうか。

※健康上の理由でヴィーガニズムを選択している人にとって、ヴィーガンメニューは非常に助かるものであると思う。命に関わるし、生活が豊かになる。



ヴィーガンを押し付けて来た彼女に「古代インド、古代ギリシアから菜食主義が見られていたけれど、世界的に見たら何故少数派なのだと思う?」と聞いたらなんと返すだろう。

食とは、生きるために必要最低限の行動です。
食べられるために生きてきた動物が可哀想だと思わないわけではないですが、どうしてもその感情はヒトのエゴだと思ってしまう。

敢えて言うなら、ヒトは肉を食べるべきだと思うし、同じように植物を食べるべき生き物だと思う。ただ、食べないという選択も出来るようになった、というだけで。

ヴィーガニズムが広まらない理由の一つにヴィーガン製品のみでの栄養バランス摂取が、資本主義社会で生活する以上多くの人にとって現実的ではないことがあげられると考えています。

食品の課題だけではなく、経済的な課題も山積みだからです。植物性食品だけで経済は回るだろうか?畜産農家へのサポートは?環境問題解決への信頼できるデータはどれ程ある?
山積みの課題を解決するためには、正常な精神状態と健康な体が必要になるのではないか。いち早く解決するため、手っ取り早く健康になる手段の一つは、肉と野菜のバランスの良い食事なのではないでしょうか。


つまるところ、彼女の思っている
地球の環境問題や動物愛護は、野菜を食べよう!で解決するような単純な課題ではない。と思う。

その「野菜を食べよう!」で排他されている人がいることにどう説明してくれるのでしょう。他の動物や命を尊重するという道徳はあっても、人間愛護の道徳は尊重しないのか。

ヴィーガニズムを勧めて環境保護を訴えるよりも、せめてSDGs推進を掲げる方が、言葉で示す主義ではなく数値化しやすい目標を掲示されているので、よっぽど受け入れられやすいと思う。
最近はやたらめったら導入するSDGsもどうなの?とか思いますけどねぇ(08/19/2021)



今回の題名、あえて「共生」という言葉を用いました。
生物界の共生には4つのタイプがあります。
相利共生、片利共生、片害共生、寄生です。ただ、生物同士の利害関係に基づく共生は変動することも多く、一概にどちらが利益を得るかとは言い切れません。

そして共生は、二つの生物がいなければ成り立ちません。今回の件における生物にあたる言葉は「ヴィーガニズムとそれ以外の主義」あるいは「食の主義と自分」です。

そもそもヴィーガニズムは従来の食事に対して生まれた主義であり、つまり他者によって成立しました。
対する私のように肉も野菜も食べる従来の食事を行う人々も、彼らの主義を知って大豆ミートやヴィーガンメニューを食べることができます。従来の食事を行う人々が新しい主義や世界を知ることで、精神的な成長または安心を得る可能性は十分にあります。

そうした意味で、ヴィーガニズムは社会に存在するべき概念で、ヴィーガンとそれ以外の人が共生することで人々は多様性に育まれます。
ヴィーガンを選択してもいい、という世界が生まれる。
でも、それはみんなで何かを達成するための手段では無くて、選ばなかった人を批判できる力はないよね、という思いがあります。

単に二者の存在を示す「共存」ではなく、関わり合う「共生」をしていくならば、他者と関わり合う度合いを私達は選ばなければなりません。
それは相利共生でしょうか、はたまた寄生でしょうか。

何はともあれ、主義というものは、表に出さずそっと静かに仏像彫刻師のように自分と見つめ合うものであるべきでしょう。



動物のフンや死骸が自然から発生したものならば、ヒトが生み出したゴミやガスも、自然から発生したものだと言えないだろうか。それで人類が絶滅したり、地球が終わるなら、それは地球なりに調整した結果なのだろう。

みたいなことをガンダムUCで言ってたなぁ



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